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第六十五話 天狗の住む山
高野へとだけ告げられた柚葉 は、飛影 達に裏庭での待機を命じて俺の手を取り着替えの為の部屋へと入った。
クローゼットから服を選んで渡してくれるその背からは緊張している気配は感じられない。
「高野は寒いだろうな。暖かくしないと」
「高野って、あの有名な高野山? お寺があるトコ?」
「まあそうだけど、寺には行かないよ。用があるのは山自体だからね。高野山は日本三大霊山としても有名で、それだけでも充分に念が集まりやすい。そこに寺まであれば、参拝する生きている人間と共に鬼国にも入れず浄化もされなかった魂も集まりやすい。集まって、喰らい合って……」
「その地の神様を取り込んだ?」
「それは行けば解るよ……紫苑 ?」
嫌なものをきっと見る事になるよ、と重なった唇から伝わる。
それでも同じものを見たいよ、と同じように唇から返せば、厚い胸に抱き込まれていた。
「……翳狼 も言ってたじゃない? 俺も日本 を守護する鬼神の長の一人だって。だったらちゃんとその責務を果たさなきゃ。足手まといにならないようにがんばる。だから心配しないで」
「綺麗なものだけを見せてやりたいと思うのに……例えば俺が鬼でなければ……例えば水を司る神であったなら、巧みに水を操って美しい虹をいつだって作ってやれただろう」
「虹なら、お天気の日に裏庭で水を撒こうよ。絢風 に飛んでもらうのも良いかもしれない。なんせ空気が虹色に輝くんだから」
ああ、と頭上から溜め息に似た吐息が答えとして降ってくる。
「紫苑はいつも、俺の欲しい言葉をくれるんだな」
「そう? 柚葉だって、そうだよ?」
ぎゅうと抱き返せば、肺いっぱいに柚葉の匂いが広がる。お香と、それとは別の柚葉自身の香りはまるで魔法のように俺の中の漠然とした不安を消してくれる。
――絢風を連れて行って本当に大丈夫?
――神を殺すって、どうやって?
――俺に、できる?
「行こうか」
「うん」
裏庭の銀杏の木の下。
伏せる翳狼の頭の上に飛影が乗って、絢風は木の幹に頰を擦りつけつつ、降り注ぐ太陽の光を心地良さそうに浴びていた。
「お待たせ!」
「まずは鬼道を通る為に絢風用の結界を編まなくちゃね!」
ごめんなさい、と頭を下げる絢風を制して編み上げた結界は、我ながらなかなかのものだと思う。大きさも強度もバッチリだ。
「翳狼、いつもありがと」
「なんのなんの。朱殷 殿のお手伝いをして木材を運んだ時の事を思えば、とても軽いですよ」
「主人 、鬼国への報せは?」
すぐにでも飛び立とうと翼を広げる飛影に柚葉は要らないと答えた。
「天照の使いが直々にここへ来たという事は、俺達でなければならんという事だ。朱殷に伝えるのは事が終わった後で良い」
「承知」
渦巻く靄 の道を抜ければ、もうそこは高野山だ。
恐らくは人里から遠く離れた奥深い山の中で途切れた道の先、俺達は確かにこの世のものではない存在を見た。
視界いっぱいに広がるドス黒い円形のナニカが周りの木をなぎ倒し、枯れ葉を巻き上げ、ぐるりぐるりと回っている。たまにソレは見えない壁にぶち当たったように弾かれ、バキンッと音を立てては自らが刻んだ円の中央に戻されていた――独楽 のように――。
「そろそろ限界だろう?」
古びた注連縄 の巻かれた木の根元で膝をつき、片腕を上げたままの二つ人影に近寄り
「代わろう。ここからは俺の仕事だ」
と声をかけ、柚葉は一人の腕を持って立ち上がらせた。
「長 ! 力及ばず申し訳ございません」
「いや、よく堪えてくれた。お前は休め」
柚葉は既に張られている結果の上から新たにより堅固でしなやかな結界網をかけ、飛影には枝の上からの観察を命じて、蹲ったもう一人に歩み寄り声をかけている。
柚葉に引き起こされ、大木に背中を預けて汗を拭う、この地の管理を任されている鬼神に俺は見覚えがあった。
「えっと、黒緋 さ、ん?」
初めての鬼国で何も解らない俺を笑顔で迎え言葉を交わしてくれた、確か序列は五位の神だ。
「これは、伴侶様……久しぶりにお会いしたというのに、お恥ずかしい。私ではアレの動きを完全に抑え込むにはいたりませんでした」
黒緋は深く息を吐き出すと、悔しそうに動き回る球体を指差した。まだ寒さ残る季節にも関わらず、額から頰を流れる汗にどれだけの妖力を消費したのかは一目瞭然だ。
疲労に震える腕がじわりと持ち上がり、回転する物体を指差した。
「長、伴侶様……アレ、アレは」
「鬼神殿、アレの事は私が話そう。いや、話さねばならない……少し、時間をいただけないか?」
「聞こう。アレは俺の結界からは出られはしない。が、翳狼! 一応見ておいてくれ。亀裂が入ったらすぐに声をかけてくれ。飛影も頼む」
柚葉の返答にありがたいと深く頭 を垂れた男の体躯は黒緋にも引けをとらず、がっしりとしている。一つに結った髪が乱れて頰に幾筋か垂れているのはアレと呼ばれるものとの格闘の結果だと思われた。
「アレは悪くない……今朝早くの事だ。測量とやらで人間が久しぶりにこの山に入ってな。倒してしまった。アレは悪くない、悪くないのだ、常闇の神よ……」
「神にも近いお前がそれほどまでに取り乱すとはな。解るように話せ。時間はある。人間が山に入って、何を倒した? そしてアレはなんだ?」
ああ……と微かに聞こえたその声はこちらの胸が痛くなるほどに悲嘆に満ちていた。
「何から、どこから話せば良いものか……ふう、思いつくままに語らせてもらおうか……」
顔を上げた男の目の縁は赤く色付き、哀しみをたたえた目は薄暗い森の中でも輝いて見えた。
「アレは、遥か昔にこの山に捨てられ、そして私達天狗一族が育てた人の子の魂よ」
今や飽食大国と言われるこの国でもかつては食に困窮し、泣く泣く家族を山に捨てた悲惨な歴史があった事は知っていた。
しかしその多くは老人だったのではないのか? だから姥捨なんて悲しい言葉が今も残っているのではないか?
「弱い者が捨てられた。老い先短い老人も、身体の弱い子供も。そんな時代だったんだ」
その時代をも見つめていた柚葉の言葉が痛い。抱かれた肩から伝わる体温が想いを乗せて揺れている。
「そっか……でも、育てたって……」
自らを天狗と名乗った男は、小さく頷くと言葉を続けた。
「あぁ、育てた。幼子であれば食事を与え、学を与え、一人で生きていけるまで育てて里へ帰した。それを人間は神隠しと呼んだ。老人はその命が尽きるまで……私達は神ではない。やれ大妖怪だ神通力だと言われても人の命にまでは干渉する力はない。ここに捨てられた時に、もう手の施しようもない程に弱り果てていたら。病に侵されていたら。私達はできる限りの事をした上で、土に還し弔う事しかできなかった。アレは……そういった子達だ。今朝方来た人間が何気なしに倒してしまったのだ、墓標を」
「鎮守の石が壊され、外に出た。そしてこの山に漂う妖にもなれぬ魔に取り込まれた。そういう事か?」
「それは違う。常闇の神。アレは、いきなり起こされてびっくりしていたところに魔が集まって……そうは言っても天照様が貴方を寄越されたという事は、消されるのだな? あの子達は」
両手で頭を抱え、肩を震わせる男は再び顔を伏せた。
死んでしまった子供達の為に建てた小さな石碑は、年月の流れと共に石碑を覆っていた木の社が朽ち、剥き出しとなった石碑も長年の風雨にさらされ脆くなっていた。それで良かったのだと天狗は言った。
「人も物も皆、朽ちる。墓標が崩れた時、それはあの子達が真にこの地を離れる準備ができた時。総ての欲を捨て無になる時……そのはずだったのだ。だが、自然に朽ちたわけではなかった上に……人間は暴言を吐いた。邪魔だ、と。悪意のない一言だったのかもしれない。つい出た悪態だったのかもしれない。だが、その言葉はいけない」
どんな理由があったとしても、邪魔だと判断され捨てられた子供達の魂はどんな想いでその言葉を聞いたのだろう。
いきなり眠りから叩き起こされ、邪魔だと吐き捨てられた彼らの心は――?
沈黙の中、絢風が俺の名を呼んだ。外に出して欲しいと言う。
柚葉の許可を得て結界を解くと、絢風は注連縄の巻かれた大木にそっと寄り添った。
数分後、木から離れた絢風が柚葉と俺に頭を下げた。
「御神木の言葉をお伝えさせてください。今のあの子達には悪意も何もない。ただただ、はしゃいで遊んでいるだけ。生前叶わなかった野を駆けるという願いを叶えているだけ。魔に取り込まれたわけではないそうです。あの子達の周りを魔が取り囲んでいるだけで決して同化はしていない、と」
絢風の言葉に希望が見えた気がした――ひょっとしたら――
「柚葉!」
「ああ、ひょっとしたらな」
柚葉がそう言うのなら、やってみるだけの価値はある。
「絢風をお願いね。俺はこのままで」
「それは危険じゃないか?」
「何言ってるの。妖魔のボスでさえ傷一つつけられなかったんだよ? それにあの頃より強くなってるでしょう?」
「そうだがな、でも」
突然始まった二人だけの作戦会議に、天狗と黒緋はあんぐりと口を開けて俺達を見ている。口に出している言葉だけで理解しろという方が無理かもしれない。
「子供の頃は優希と少しは遊べてたし、大丈夫だって! うーん、どうしよ……飛影! 鶏の卵よりちょっとだけ小さくて、できるだけ丸い石を三つ探してきてくれる?」
「三つなのだな? お安い御用なのだ!」
枝を小さく揺らし飛び立った飛影を見送って、不安を伝えてくる柚葉に向き合う。
「柚葉、俺を信じてくれる?」
絶対に大丈夫。きっと上手くいく――呪文のように、言い聞かせるように胸の内で繰り返す。
「万が一の時は、俺は」
頬を撫でてくれる手はいつも通り大きくて温かい……のに指先だけが少し冷たかった。
「うん。その時は……柚葉が最善だと思う策を取って。でもギリギリまで……」
「あぁ。信じる。信じて待つよ、紫苑」
柚葉の言葉に自然と口角が上がるのが解った。
怖いのは俺も同じ。だけど。
信じる。そのたったの一言で、俺は大丈夫な気がする。
「天狗さん! あの子達は貴方を覚えていますね?」
「あ、あぁ、多分……だが、あの姿となっては正直なんとも……」
「じゃあ天狗よ、お前はどうだ。あの子達を再び穏やかに眠らせたいか?」
「もちろんの事!」
「ならば紫苑の言う事に従え。良いな? 確実に上手くいくとは限らない。それでも希望を持て」
俺の作戦――とも呼べない思惑が無事に成功したなら、俺達は哀しい魂を殺さずに済むかもしれない。
「紫苑、このくらいでどうであろうか?」
ふわりと肩に舞い降りた飛影がポトリポトリと手頃な石を掌に落とす。
大きさ、重さも問題なさそう。
「うん! ばっちりだよ。さすが飛影!」
「むふふ。私の目はなかなかに確かなのだな!」
――さぁ、始めよう。これは賭けだ――
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