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第六十四話 穏やかな春の日に真白な蝶が舞う

 雪が溶け、常緑樹の中にチラホラと梅の花が咲き始めると、飛影(ひかげ)翳狼(かげろう)は目に見えてワクワクし始めた。  理由を聞けば、森が眠りから醒め、徐々に生命活動が活発になり美味しい物の季節がすぐそこまでやって来ているからだと言う。 「紫苑(しおん)にお届けすると約束したのだ。今年ほど森の実りを気にかけた事はなかったやも知れぬ」 「絢風(あやかぜ)も一緒に探索に行きましょうね!」 「はいっ! お友達ももっとたくさん欲しいです」  柚葉(ゆずは)が結界の質を変えて以来、絢風もたまに飛影や翳狼と森へ行き 「今日はスズメさん達と仲良くなれました!」  と、帰って来ては嬉しそうに教えてくれる。 「なんせ絢風は礼儀正しくて美しいだろう? 私のお仲間のカラス達からも大人気なのだ。もちろんカラス達だけではないぞ。初めて孔雀を見るものも多いのでな。最初は美しさに目を奪われ、そして次は心根に惹かれと、私はもう、鼻が高くてならんのだ」 「そうなのですよ! 私なんてウリ坊達から羨ましがられて、仕方がないんですから!」  絢風と同じかそれ以上に嬉しそうな飛影と翳狼の尾がバッサバッサと激しく揺れる。 「鬼国で飛影が言っていた通りでした。森の皆さん、本当に優しくて、私を受け入れてくださいます。紫苑様、私どうしましょう?」 「いっぱい仲良くしたら良いと思う!」  我ながら単純な答えだとは思うけれど、時間の流れが違いすぎる交流に悔いを残して欲しくないから。 「紫苑様のお話をしても良いですか?」 「ん〜良いけど、内容によるかなぁ」 「悪口なんて言いませんよ! 皆さん、紫苑様がどんな絵を描かれるのかとか、好きな果物はなんだろうかと色々と聞いていらっしゃるのです。でも紫苑様に了承を得ていないのにおしゃべりしても良いものか解らなくて……」 「絢風が悪口なんて言わないの、知ってるよ」  かつて独りで住んでいた森で向けられ続けた悪意――俺はやっかみだったんじゃないかと思っている――から心を守る為に、目には見えない堅固な壁を張り巡らせた事のある絢風は今、本来の穏やかで素直で、ちょっと天然な可愛らしさを取り戻した。  そんな絢風は軽口を叩く事はあっても悪意を口にする事はない。 「でも、えっと、ぷらいばしぃ? というものは守らなくてはならないと……」 「プラ!? ふふっ、どこで覚えたの!?」  きょとりと首を傾げた絢風がチラリと飛影に視線を遣った。   「私も森のカラス達に聞いたのだ。なんでも今、人の世では大変それが尊重されているのだと。餌を漁っていると、細かく細かく切られた紙が嘴に絡んで大変なのだそうだ」 「尊重しすぎて孤立気味だとも言ってましたね。人はあんなにたくさんいるのに、どうやって孤立するのでしょう? 私もかつては群れを率いていた身。群れで生きるものが群れを作りつつもなおかつ孤立するとは、やはり人とは難しい存在です」  うぅん、と唸る翳狼の耳の付け根に手を伸ばした柚葉は、考えすぎるなよ? とのんびりとした口調で呟いた。 「時の流れが早いんだ。きっとな。文のやり取り、醤油の貸し借りが普通だった時代じゃないんだ。な? 紫苑?」 「そう、だね。そういうの、聞いた事はあるけど、実際にお醤油やお米を貸し借りした事はないよ。手紙よりも電話かメール。他にも通信手段はいっぱい。早いもん」 「便利なのですね? でも、そう便利な世だとより密になりそうな気もしますが……」  小首を傾げる翳狼は眉間に皺を寄せて思案顔だ。 「上手く言えないけど、便利すぎて、線引きが曖昧なんだよ。すぐに自分の時間を浸食されちゃうから、必要以上に関わるのは嫌っていうか、逃げたいっていうか? 父さんもよく呼び出されてた。仕事なのか、接待なのか知らないけど」 「見えない鎖に繋がれているみたいで、嫌なのだ! 息苦しい!」 「そだね。疲れちゃう。学生だって一緒だよ。すぐに返事を返さないと関係が悪くなったりしてさ。イジメに発展しちゃったり。だから大人になったら余計に関わりたくないんじゃないかな。隣に住む人の顔を知らない、なんて都会じゃ当たり前だしね」 「便利さと引き換えに失ったのですね、自由を」 「自由はあるんだけど……うぅん、やっぱり上手く言えないや」  きっと自由はある。  休日に買い物に出かけたり、雰囲気の良いカフェで美味しいコーヒーを楽しんだり、一日中ゲームをしたり眠ったり。  ただその自由と呼ばれる時間にもスマホはこちらの都合なく鳴る。  その音に応えるのも応えないのもまた自由だ。自由のはずだ。自由なはずなのに。 「俺達とは速度が違う。それだけだ。それを選んだのが人間(ヒト)であるならば」 「見守るだけ、だよね」  呟いた俺の袖を絢風がツンと引く。絢風の目が寂しげに揺れた。 「優希殿は、苦しくないですか?」 「どう、かなぁ。優希は俺と違って人当たりもいいし友達も多いから……」  ひょっとしたら苦しむ時がくるかもしれない。  いじめられるかもしれないし、思いたくはないけれど、いじめる側になるかもしれない。  それでも、それはその時の優希の決断した事だと納得するしかない。 「……やっぱり見守るしかないんだよ。さ、おやつにしよ?」  今日のお茶は香りの良いほうじ茶。お茶のお供はお煎餅。  飛影達の前にそれぞれのお皿に砕いたお煎餅を載せると、いち早く飛影が啄み始めた。 「いただきます」  礼儀正しく、ひょこっと頭を下げた絢風を目にした、飛影は慌ててお煎餅の欠片を飲み下すと 「既にいただいているのだ! 美味しいのだ! いつも誠にありがとうございまっ……けほっ」  まくし立てて、咽せた。そんな飛影を柚葉は呆れながらも愛おしそうに見つめ、底の浅いお皿に注いで冷ましたほうじ茶をすぅっと差し出した。 「こ、これは……げほっ! 恐縮でっけっほ! のののの、喉、痛いっ」 「早く飲め、阿呆(あほう)」  小刻みに首を振り一生懸命に嘴の中にお茶を流し込み、パシパシと瞬きを繰り返す。ぽろりと涙が零れてもおかしくはないなぁ、と思いつつ飛影が落ち着くのを待った。 「飛影、大丈夫?」 「う、うむ。お恥ずかしいところをお見せしてしまった……つい、ついなのだ。良い香りに気が急いて大切なご挨拶を飛ばしてしまうとは……」  絢風の手前、事ある毎に良い先輩を気取りたい飛影としては痛い失態だったようだ。 「いつものように好きに食べて、好きに飲んで、好きに遊べば良いんだ。お前は礼儀知らずなわけではなし、ここにいる者は誰も気にせん」 「そう言っていただけるとありがたい。ついでに先程の失態を忘れていただけるともっとありがたいのだ!」 「私はぜぇーったい忘れません。急いでお煎餅を食べたら喉が痛くなる、と学びました!」  一つ賢くなりましたと満足そうな絢風の高らかな宣言に飛影はがっくりと項垂れた。 「あぁぁ……カッコ悪いお手本を見せてしまった。いつかどこかで名誉挽回せねば、私はただのおっちょこちょいの無礼者になってしまう。それは避けねばならんのだ」 「そんな事! 飛影はすごくカッコイイです。私が知らない事を翳狼と一緒に何度も何度も私が理解するまで丁寧に教えてくれます。説明もおもしろくて上手なんですよ、紫苑様! あと、私は身体が大きいから……高い場所にある木の実を取ってくれたりもするんです!」  自慢のお友達です、と締めくくった絢風を見上げる飛影はぽけっと嘴をマヌケに開いたまま数回瞬きをして絢風の翼の間にひょいと舞い降りた。 「絢風〜! 大好きなのだ!」 「わわっ、落ちないでくださいよ! うひゃ! くすぐったい、くすぐったいです!」 「やめてやらんのだ。くふふ、私も絢風が自慢なのだ」  小さな額を絢風の背にグリグリと擦りつけて足踏みまでする飛影はとても嬉しそうで……グリグリされている絢風も楽しそうだ。じゃれ合う二羽を眺めていると絢風が俺に首を伸ばし仲間に引き込もうとする。そんな俺達を横目に、一番しっかり者の翳狼に柚葉は何事かを言い聞かせ始めた。  はしゃぐ絢風と飛影の声の方が大きくて、上手く聞き取れない程に低い柚葉の声に翳狼は耳をピンっと立て、大きく頷いてはたまにグルルっと喉を鳴らす。  柚葉の手が翳狼の頭上に伸び、指が毛に埋もれた。翳狼は嬉しそうに目を細め尻尾をひときわ大きく揺らした。  おい! と響いた柚葉の声に、はしゃいでいた俺達は揃って動きを止め柚葉を見る。 「絢風もよく聞いて、今から翳狼が言う事と似た事を皆に伝えれば良い。翳狼、問題ないな?」 「もちろんです。こほん……主人(あるじ)と紫苑様は魂が契った永久(とこしえ)の伴侶。故に紫苑様への悪意は主人への敵意。森を彷徨う(あやかし)ならば消されても仕方なし。また紫苑様は日本(ひのもと)を守護する鬼神の長のお一人。絵を嗜まれ、自然を愛でられ、争いは好まぬ穏やかな性格ながら、秘められたお力は果てなし。鬼化なされたお姿はたいそうお美しい。我等が誇り」  そこまでを一息で言い切った翳狼は得意そうに鼻を鳴らし、絢風は目をキラキラさせ尾を少し広げて興奮している。 「ちょっと待って、ちょっと、なんか、俺褒められすぎだなぁ……なんて……」 「まぁ、続きを聞いてくれ」  さあ、と続きを促す柚葉に無言で頷いた翳狼の声が再び響く。 「我等は鬼神の頭領の使い魔。お二人以外に忠誠を誓う事なし。私の牙と爪はお二人と友を守る為にあり……飛影は?」  突然名前を呼ばれた飛影はピョンと絢風の背から飛び降りると、モデルをした時と同じポーズを決めた。 「私の耳は主人と友への侮辱は逃さぬ。力こそ翳狼には負けるが、それでも少しは力持ち。黙ってやられるはずもなし。ただ紫苑と約束したのだ。決して死なぬ! 情けなく主人や紫苑、翳狼や絢風の力を頼るやも知れぬが、それでも私は生きる。皆様と生きたいのだ!」  胸を張った飛影が力強い目で見つめてくる。  ちゃんと約束を覚えていてくれたんだと思うと嬉しくて、つい口元が緩んでしまう。 「あ、あの、私は……まだ解らない事の方が多いです。それでもここにいたくて……」 「当然なのだ。絢風は友なのだ。どれだけ時が流れようと、それは変わらぬ」    ここは、時の流れが違う場所。  違う時の流れを生きるものが集う場所に張られた結界に、人でも妖でもない存在がチリンと触れる。  すっと立ち上がった柚葉は無言で俺の頭を撫でると、結界を一瞬で解いて窓を大きく開けた。  ヒラヒラと舞い込んできたのは両手に余る程大きな真っ白な蝶だった。 「御歓談中失礼。取り急ぎ常闇の神に天照様よりの御伝言申し上げる。高野へ馳せられたし」 「承知」  ざぁっと吹いた春先の冷たい風に紛れて、柚葉の掌の上で漂っていた真白い蝶は眩い光を放って姿を消した。 「さて、紫苑。どうする?」  一緒に行くか? という意味ならば、答えは一つだ。 「行く」  足元では既に翳狼が伸びをして身体を解しているし、飛影はくりんくりんと首を回した後に爪を確認している。 「私も行きたいです」  絢風には留守番をしてもらった方が良いのではないかと悩んだ。これから俺達はおそらく――。   「何をしに行くのか、解っているのか?」  問いかける柚葉に絢風はゆるりと首を左右に振った。 「はっきりとは。ただ紫苑様が私を連れて行く事を躊躇なされているのは解ります」 「それでも共に?」 「はいっ!」 「ならば来い。紫苑から離れるなよ」  ――神を、殺しに行く――

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