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第2話

   和歌山の三段壁(さんだんへき)で自殺しようとしていた神野が、篠山に拾われてその翌日に東京の彼のマンションに連れ帰られたとき。既にそこには遼太郎よって神野のアパートの荷物のぜんぶが運びこまれていた。  それだけではない。アパートの解約の手続きも終えてあり、神野の職場やアルバイトさきへのフォローも完ぺきにしてくれていたのだ。  あとで篠山に聞いた話では、大阪のホテルに着いたあと遼太郎に電話していきさつと自分の免許証にあった住所をだけを伝えたそうだ。それだけで彼はひとりで、それらをぜんぶやってしまたっという。  いまも遼太郎は厚意で労働時間のアドバイスをしてくれたり、お金の管理をしてくれている。神野がどれだけ懐が寒くてもこうやって穏やかに暮らしていられるのは、彼のお陰でもあるのだ。  篠山の元カレであり信頼されている有能な遼太郎は、なおかつ篠山と職場も同じだ。そんな彼に湧いてくる嫉妬心がないわけでもないが、しかし恩人である彼にはやはり嫉妬よりも感謝の気持ちのほうが上まわっていた。  遼太郎が給料日でもないのに自分に用事があるといって訪ねてくるのは、珍しいことだった。篠山からの預かりものでも渡しに来たのだろうか。  首を捻っていると、いささか乱暴に扉を開けてダイニングにはいってきた遼太郎が自分の横を大股で通りすぎていく。彼は壁の間際で立ち止まると、ダンッ! と手の平を壁に思い切り叩きつけた。  大きな音に、びくっと身を竦めた神野は、普段物静かでクールな遼太郎の、ひとが変わってしまったような荒々しさに、目を丸くした。 「祐樹‼」 「はいっ」  きりりと眉を吊りあげた彼に、なにか真面目な話があるのだろうと心構えをしていると、 「お前っ! セックスのときの声がでかいんだよっ!」 と、彼はとんでもないことを云いだした。 「えっ!」 (――ええっ⁉)  思いもよらぬ理由で怒鳴られた神野は、口を押えて真っ赤に(ゆだ)る。 (声⁉ 声って、まさか昨日の⁉ うそっ⁉ うそっ⁉ うそっ‼ まさか聞こえてたの⁉)  昨日は夜になってから突然春臣が出かけてくると云いだした。そこでまた自分は春臣に試験勉強をサボって遊ぶくらいなら寝るようにと、口うるさく云ってしまったのだが――、しかし。 「ストレスが溜まったら死んじゃうけど、そのまえに性格がまがっちゃうよ、俺」 「それでもいいの?」と流し目で問うた彼は結局神野の制止を聞かず、財布とスマホだけをポケットに突っこんで身軽な恰好で家をでていってしまったのだ。  そのあとここに篠山が訪れたのは偶然だ。それで春臣が留守だったのをいいことに、神野が恋人と自分の部屋で盛りあがったのは確かだったのだが……。でもそれは時間にしてたった半時間程度のことだった。篠山は疲れていたので泊ることもせず、日付が変わらないうちに帰ってしまったのだから。  しかしもちろん、エッチのときの声のでかいちいさいに、時間の長さは関係ない。  聞こえていたんだ? ガ―ン! とショックを受けた神野は、なかったことにしてしまおうかとか、遼太郎の気のせいだったことにできないかだとか、なんでこんなことになってしまったんだとか、――頭が混乱ででぐるぐるしだす。しまいにはなぜ遼太郎が家にいたんだと、理不尽にも彼を恨んだ。 「――くっ」  云い返すことができないのは、日ごろ感情を露わにすることのない遼太郎の苛立った様子に呑まれてしまったからだけではない。神野が他人(ひと)に怒鳴られ慣れてないせいでもある。  それでもやはり、自分が悪い。神野は火照った顔を手で覆い隠しながら、素直に謝ることにした。 「ご、ごめんなさいっ。すみません」  指の隙間から見える遼太郎の視線が突き刺さりそうなほどにきつくて怖い。しかも彼の怒りは簡単に治まってくれそうにない。どこかに穴があるのならば、いっそそこにもぐってしまいたい。  視線を泳がせていると遅れて部屋に戻ってきた春臣と目があった。しかし彼はなにも云わないでスツールに腰を下ろすと、そのまま勉強を再開する。目のまえで行われている阿保らしい展開になんて構っていられないらしく、ノートを見る顔は真剣だ。 「ここ、壁――」  コンコンと壁を叩いて、遼太郎が云った。 「匡彦さんとこのマンションほどではないけど、それでもここのアパート、そんなに壁は薄くできてはいないんだけど? なのにお前の声は、めっちゃ聞こえてくるんだよ。どんだけでけぇ声だしてるんだ?」  眉を吊りあげた遼太郎が、壁に向けて顎をしゃくった。 「そ、それはっ。だって、で、でちゃうから。……き、気持ちよすぎてっ! だからっ。――でも、だれだって普通でるもんでしょ⁉」  きっと、そんなことは云わなくてよかったのだ。 (しまった!)  狼狽するあまりいらぬことを口にした神野は、咄嗟に口を抑えたのだが、既に遅い。反省半ばで口応(くちごた)えされた遼太郎の顔が、さらに引きつっていった。

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