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第6話
それにもしそのキスマークが今日ついたのだとしたら、遼太郎は朝から彼氏に会ってきたのだろう。
想像上の男に遼太郎が包みこまれるようにして抱かれる姿を思い浮かべた神野は、顔を火照らせた。
目のまえにたつ痩身の彼が、この細い腰を掴んだ男に激しく腰を打ちつけられ、そのしたで身を捩ってうれしがる。
(うわぁ……)
妄想はどんどん進行していき、いくところまでいったところでとうの本人の「祐樹、聞こえてるのか?」という呆れた声に邪魔され、掻き消えていった。
「はいっ⁉ なんでしょうか?」
「お前も飲むかって、訊いたの」
じっと見られて居心地悪かったのだろうか、片側だけ目じりを細めた遼太郎の声は硬かった。
「あ、いえ、けっこうです。おかまいなく」
機械のコーヒーメーカーでならお願いしたかもしれないが、彼が自分だけのためにもういちどミルでコーヒー豆を挽くというのであれば、そんなのは申し訳なくてお願いなんてできはしない。
それでも「遠慮しなくていいぞ」と豆の袋にそっと指をあてながら、首を傾げて訊いてくれた遼太郎のその艶っぽい仕草に、思わず――。
「昨日、あれから恋人としたんですか? それとも今朝――」
と、思ったことをそのまま口から滑らせていた。
「…………やっぱりお前は、遠慮を覚えろ」
はっと口を塞いだがすでに遅く、遼太郎に冷たく睨みつけられた神野は「あと、デリカシー!」と、先日注意されたばかりのことをまたもや叱責されてしまう。
「じゃあ、ここに来るまえはどこに――」
「藤野商店」
みなまで云うまえに遼太郎は神野の言葉を遮って静かにひとことを返し、できあがったふたりぶんのコーヒーがはいったマグカップを持ってキッチンからでていった。その後ろ姿にあとひとことだけ、と神野は慌てて言葉を探す。
「あのっ、じゃあ、遼太郎さんが最後に恋人とデートしたのはいつですかっ?」
「……祐樹、俺、仕事だけじゃなく――試験勉強やら、どこぞのぼんくら社長の尻ぬぐいやら、惚 けた隣人の金銭管理で忙しいんだよ?」
足をとめて振りむいた遼太郎の眉は吊りあがり、その声は地を這うほどに低かった。
「遊んでる暇なんてねーよ!」
「あっ、待って――」
「待てるか、ばかっ」
リビングのドアがバタンッと荒々しく閉じられ、びくっと肩を竦める。
(また怒らせてしまった……)
寝室にちらっと視線をやって、シンクのへりをぎゅっと掴む。
(遼太郎さんがずっと彼氏に会ってないんだとしたら、じゃあ、やっぱり……)
遼太郎の首につけられた口づけのあとは自分がここに来るまでのあいだに、篠山がつけたものになるではないか。望みをかけて訊いてみた遼太郎と恋人とのデートが、
「あっさり否定されてしまった……」
昏い瞳でシンクの片隅にぽつんと置かれたドリッパーを見つめて呟いた神野は、気を取りなおそうと買ってきたばかりの玉ねぎに手を伸ばす。
失意に胸を塞がれるままにしていてはいけない。そんなことをしていたらあっというまに時間が過ぎてしまう。
自分がいまやるべきことは、恋人と彼の従業員のためにおいしい昼ごはんをつくって、すこしでも篠山の役にたつことだ。
*
最後のひとくち、遼太郎のいれてくれたコーヒーを呷 った篠山は、空になったマグカップの底を眺めたあと、ちらっと壁にかかった時計に目をやった。時刻はまもなく十一時。そろそろ末広が娘連れで出勤してくる。
昼休みは末広と遼太郎にさきにとってもらうことにして、自分は十三時から休憩に入るつもりでいた。あと二時間。
普段なら仕事をしていたらあっというまに過ぎていく時間も、いま神野がこの家に居るというだけで、彼に会いたい気持ちで途端に待ちきれない二時間となる。
(たば休 がてら、ちょっとだけ……)
篠山は遼太郎のぶんとふたつ、空のマグカップを持つと席をたった。
神野が素直にここに泊まってくれていたなら、今朝はふたりでゆっくりと楽しい時間を過ごせていたというのに、――それをだ、昨夜彼はあっさりとアパートに帰っていってしまったのだ。
服を買ってやる云々は神野が春臣と遼太郎の目を気にして恥ずかしい思いをしないようにと気を遣ってやった単なる口実だったのだが、よもやそのことに気づいていなかったのではなかろうか。
(いや、まさかな。俺、けっこうあからさまだったよな?)
それでも神野は「いえ、大丈夫ですから」と、手をぱたぱた横にふって「お仕事さっさと終わらせて、はやく寝て下さいね」と、春臣の手を引っ張って玄関をでていった。
「まぁ、服は買ってやらないとな……」
実際神野は服を持っていない。お金に不自由して暮らしていたのだから、衣食にお金をかけていられなかったのだろう。
篠山が大阪のホテルで彼の着ていた服を処分したのは、あとで彼がそれを目にしたときに、死を選んだときのつらい気持ちをぶり返らせないようにという配慮だったのだが、戸惑いもなくそれらをゴミ箱に放りこめたのは、それらがやけにくたびれたものだったからだ。
清潔で神経質な神野が、いつも襟ぐりの伸びた服を気にしていることは見ていて気づいていた。彼はいつもTシャツのうえには襟のついたシャツにきっちりアイロンをあてたものを着ていて、一番上までボタンをかけて隠している。
篠山はそんな彼がはじめて買ってやった服を大切に着てくれているのをみると、思わず抱きしめてしまうことがあった。
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