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第10話
密着した体に、神野の心臓がどきどきしているのが伝わってくるが、篠山自身もおなじように緊張で鼓動をはやくしていた。
(頼む、素直に頷いてくれよ)
あと半時間もすれば、自分はまた仕事に戻らなければならないのだから。ここでうまくことを治めてしまいたい。そう祈る気持ちでいた篠山だ。
そこへだ。
春臣が後ろから突然やってきて、背後にたった。ジャンバーを羽織った春臣に「祐樹」と呼ばれて顔をあげた神野は唇を咬んでいて、そのことでつらい気持ちでいることが伝わってくる。
「晩御飯、ブリの照り焼きと八宝菜つくってあるから、食べるときに温め直して出してあげてね」
「わかりました」
しゅんとしつつもしっかり返事をした神野は、目を瞬かせると首を傾げた。
「……春臣くんは? どこかに出かけるんですか?」
「うん。祐樹がゆっくりしていいって云ってくれたから、今夜はもう約束いれてんの。家には帰らないから、祐樹もここに泊まればいいよ。そしたら世話ないでしょ?」
「はい。じゃあそうします」
春臣の言葉にあっさりとここに残ることを選んだ神野に愕然とする。そんな自分に春臣がこっそりウィンクを投げてよこした。
(これじゃ、またこいつに揶揄われるな)
うんざりもするし、恋人の自分よりも神野の扱いに慣れた春臣に妬ける気もするしで、複雑だ。そこを通してとばかりに顎をしゃくった春臣に、篠山は神野を抱いたまま廊下の端に寄った。
「じゃ、匡彦さん、またね~」
「あ、ああ。――あっ! 祐樹っ」
春臣が通りすぎると神野がするっと腕のなかからでていって、彼を追いかける。
「気をつけていってきてくださいね」
玄関から聞こえてきたけろっとした神野の声に、篠山はその場に膝をつきそうになった。
(……またか)
この気分。足をくるっと掬われて転がされるような不思議な感覚。また天然な恋人に振りまわされてしまっていると篠山は苦笑する。
「篠山さん、どうかしました?」
「いや、なんでもないよ」
戻ってきて不思議そうにそう訊ねた神野は、すこしは自分の短慮を省 みたのだろうか、照れくさそうに笑った。
「食後のコーヒーは飲まれましたか? まだなら淹れますよ?」
「ああ。飲みたい。淹れてちょうだい」
「はい」
まぁ、これはこれで愉しいのかもしれない。篠山はくすっと笑うと、赤い目ではにかんでいる神野の肩を抱く。
まだまだ情緒不安が残る心配で目が離せない恋人だが、愛しいのには変わりない。連れ添って戻ったリビングの扉を閉まる音と彼の唇に落としたキスの音が重なった。
*
月曜日は木本事務所にいくつかの書類を持っていかなければならなくて、それは遼太郎に任せておけばいいような仕事だった。しかし、時間を効率よく使いたかった篠山は、朝一番、荻窪にある事務所が開くのと同時に自分でそれを届けてきたのだ。
満員電車に乗るのは億劫 だったが、それでも帰りには多少は空 いているだろうし、手ぶらにもなる。だったら、行きよりもマシになるのだからと電車での移動を選んだのだが、それが思いもよらず大荷物の帰路となった。
両手に重い紙袋を渡されたときにはいっそタクシーを使おうかと考えたが、渋滞にはまりでもしたらはやくから荻窪にやってきた意味がない。それで仕方なく帰りも電車に乗ったのだが、ひとの多い時間に大きな荷物を持っての乗車は体力だけでなく、気までつかってたいへんだった。
予定どうりの時間に家に戻れて玄関に荷物を下ろした篠山を、直ぐに出迎えたのは遼太郎だ。
「匡彦、ごめん。俺、それ自分で家にとりに行くつもりだったんだ」
「ああ。らしいな」
遼太郎はさっそく三つあった紙袋を手に取って、中身を確かめはじめた。持ち手が食い込むほどずっしりと重かったその荷物は遼太郎のもので、中に入っていたのは大量の衣類だ。
木本で用事をすませて帰ろうとした篠山を呼び止めたのは、遼太郎の兄の金山茂樹 だった。
篠山が木本で働いていたときの二年後輩にあたる金山は、できのいい弟とは違っていまひとつ頼りないおちゃらけた男だ。
『篠山さん、帰るんならこれ遼太郎にお願いします。はぁ、ここまで持って来るの、重かった』
と、彼に押しつけられた紙袋の重さに、これは無理だといったんは断ろうとしたのだが、
『それ、うちのかあちゃんが自分で持っていくからあいつの住所教えろって、うるさくって。遼太郎が自分で取りにくるって云ってんのに、聞かないんっすよ。で、またかあちゃんとあいつがもめたらアレなんで、俺がこっそり持ってきたんです』
と、その事訳を訊いてしまえば、彼らの家の諸事情をよく知っている篠山としてはそうもいかなくなってしまったのだ。
それで、『あ、袋破けないように気をつけてくださいね』と、お調子者に見送られて大荷物を持ってかえる羽目になった。
いま遼太郎は自分の連絡先のいっさいを親に教えていない。唯一の連絡先は兄にだけ教えている電話番号だけで、その兄にでさえ彼はマンション を出てからの住まいを内緒にしていた。
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