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【第1部 朝露を散らす者】7.黒の羽音

「朝露を散らす者?」  その名前を聞いたとたん、ヴェイユは意外そうに眉をあげた。 「知っているか?」と僕はたずねる。  驚いたことにヴェイユはうなずいた。 「ああ。聞いたことはある」  僕らは図書室の隣にある司書の作業室に座っていた。机には修復中の書物や作成中の目録がならべられ、窓はない。なじみ深い古い紙やインク、革や接着剤の匂いがこもっている。 「僕は知らなかった。審判の塔の書庫で調べて、過去に魔術師が殺害された事件に関連してその名前が出た記録を読んだ。きみは?」 「朝露を散らす者……は」ヴェイユは彼らしくない小さな声でいった。 「この国の古い記録に出てくる」 「そうなのか? 僕は主だった王国の歴史書は目を通しているが、見たことがない」 「レムニスケートが持つ非公開の記録だ。教授の特権でね、見せてもらったことがある」  なるほど、レムニスケートの記録か。  それなら僕が知らなかったのも無理はない。レムニスケートは王国のもっとも古い、王家と同じくらい古い貴族のひとつで、王家はもちろん騎士団、それに師団の塔と関係の深い一族だ。無敵の防備を誇る王城の最初の基礎を築いたとされている上、いまだに王都の防備に関わる情報を握っているため、自分たちの歴史を秘匿して明かさない、歴史家泣かせの一族だった。 「『朝露を散らす者』だが――誰に聞いた」ヴェイユがたずねた。 「サージュという男だ。元々は学者の弟子で、今は隣国の書籍商のもとで出版に携わってる。彼の師が前に手紙に書いたアルベルトで、あちこち旅もしているようだし、情報通だ」 「アルベルト。岬の学者か」 「ああ。最初にサージュと会ったのはアルベルトの著書の校正刷りの件だった。優秀な編集者だと思う」 「出身は?」 「わからない。僕が昔地下書庫で見た記録――貴族の誘拐事件の供述書にサージュ・ロウという少年の名前があったが、偶然かもしれない」 「さすがソールだな」ヴェイユはあきれたような眼つきをした。「生き字引にもほどがある」 「なんだそれは」 「褒めたんだ。その男とはよく会うのか?」 「前に隣国の僕の店までカリーの目録を見に来たことがあって、今は王都にいるらしい。店に来たからな。雑談中に稀覯本の盗難話になって、『朝露を散らす者』という名を聞いた。最近そう名乗る窃盗団がいるという話だったが、僕が書庫でみた古い記録とつながりがあるかどうかは疑わしいな。今回の図書室の件にも全く関係ないかもしれないが」  ヴェイユはうなずいた。 「実際、これだけでは何もわからないに等しい。私の方でも調べておこう」 「ああ。頼まれた調査も続けるよ。そうそう、問題がなければ学院図書室からの依頼として地下書庫を使いたいんだが、かまわないか? 今後必要になるかもしれない」 「ああ――そうだな」ヴェイユは眉を寄せて返答をためらった。 「名目は……私の研究の補助としてくれないか。審判の塔に書類を出しておく。内部の者が関係していたら厄介なんでね」  作業室にいるのは僕らだけだ。学生時代、図書室は学院のなかでいちばん好きな場所だった。初学年のころは、たとえ精霊魔術師になれなかったとしても、ここでずっと働ければいいと思っていたこともある。当時の僕にとっては故郷の村に帰るよりはるかにましな人生だった。  初学年の控えめな野心はすぐに大それたものに取って代わったが、最初に図書室を訪れた時の気持ちはよく覚えている。書物がどこまでもならぶ光景に圧倒されたものだった。それまで僕の知っていた「蔵書」といえば、祖父が遺した小さな書棚しかなかった。父は大量の帳簿を管理していたが、書物に興味は持たなかった。 「セッキのところへ行ったな」唐突にヴェイユがいった。 「ああ。足環をはめなおしてもらった」 「魔力の補充はハスケルが?」 「ああ。僕にはさっぱり……わからないんだが、クルトに相当負担がかかったんじゃないかと――すこし心配だ」  僕は本気でいったのだが、ヴェイユの反応はそっけない。 「ハスケルなら大丈夫だろう」 「そうか? でも……時々――不安というか、心配になるんだ。僕のせいで彼の未来を制限しているのではないかと――彼は若いし、出自も何もかも……僕とは違いすぎている。彼の能力も――きみならわかるだろう? 僕はもう……わからないが。ローブを与えなおすという話だって、彼を田舎の治療師にしておくには惜しいからじゃないのか」 「ソール」ヴェイユはなだめるように手をあげた。 「ハスケルについては本当に心配しなくていい。私が保証するよ」 「きみの保証か」 「信用できないか?」 「いや」僕は首を揺らす。 「まさか。きみがいうなら確かだろう。きみは間違えないからな。僕にしたって、昔この図書室で馬鹿なことをしでかす前にきみに話すべきだった」  僕は傷だらけの机をみつめる。この図書室はかつて一度焼け、その後大幅に改装されている。うつむいた僕の耳に響くヴェイユの声は優しかった。 「すんだことだ。これから話してくれればいい」 「ずっと……恐れていることがある」  僕はぼそぼそと口に出した。 「僕が『彼』と開いた禁書――あの〈本〉はまだ僕という存在のどこかに――どこかにあるか、少なくともつながっている。たしかに僕は〈本〉の記憶を持っている。『彼』の名前と同じように、その内容をまったく認識できなくても、あれは僕の内部にあるんだ。認識不能という鍵をかけられて。だから審判の塔は僕が王都の外に出るのを嫌がった。クルトのおかげで僕はそれを免れているが……」 「そうだな」  ちらりと見上げると、ヴェイユは揺るがずに落ちついた眸で僕をみて、冷静にいった。 「ソール。〈本〉は危険だが、きみのいうとおり、あれはきみ自身の内部で鍵をかけられている。だからきみさえ安全なら、あれは誰にも害をなさない。ハスケルはきみが地の果てまで行こうとも追いすがって守るだろうし、私たちもそうだ。恐れなくていい」  僕はヴェイユから眼をそらす。 「僕は……自分が代償を払わなければならないのは理解しているつもりだ。ただ――いつも、不安が消えない。僕が恐れているのは……自分が大きな災厄の種になるんじゃないかということだ。審判の塔が僕を閉じこめようとするのも無理はない。ヴェイユ、きみやアダマール師やクルトや……僕の大切な人をみんな巻きこんでしまったら」 「ソール、そのための足環だ」  ヴェイユは穏やかに僕をさえぎった。「おかしいと感じることがあれば、いつでも相談してくれ」  不審なこと。僕の脳裏に島での出来事がかすめる。だが一度に話す内容としては多すぎた。レナードからはカリーの店へ遺物のサンプルを送るという手紙をもらっていた。到着してからでも遅くはなかった。  学院を出たとき、むしょうにクルトに会いたかった。彼の顔――快活でよく動く、表情豊かな顔と眸をみて、声を聞きたかった。まだ王城にいるなら、彼とばったり会えないだろうか? もし僕に念話や探知ができれば、クルトの居場所はすぐにわかるのに。魔力をなくす前の僕は、誰かの居場所を知りたいと思っても、困ることなどまったくなかった。  無意識に唇を噛んでいた。失ったものを恋しがるのはやめろ。カリーの店に帰ればいいのだ。僕は眼鏡をかけて雑踏のなかを歩きはじめる。王都にはなんとひとが多いのだろう。ひとだけでなく、物も情報も多すぎる。石造りの建物、商人たちの会話、呼び売りの声……。  そのときだった。薄灰色のローブが視界の隅にちらついた。  僕の内なる願いがなにかに通じたのだろうか。ふとそんなことを思った。もちろん治療師のローブを着ているからといってクルトだとはかぎらない。だが彼の背中を僕はよく知っていて、歩き方の癖や頭をあげた姿勢をみればすこし離れていても見分けられるのだ。僕は足を早めて近づこうとし――そして立ちどまった。  薄灰色のローブの背中はたしかにクルトだ。その横に誰かいる。細い肩の上に金髪がきらめき、クルトに寄りそうように立つ様子に見覚えがあった。前にどこかで会ったのだ。王都ではない。  記憶を呼び出すのは簡単だった。隣国に出した僕の店に来たことのある少年だ。クルトの縁戚で、名前はマンセル。たしかにそうだ。あのときは黒髪の従者と一緒で、学院に早期入学を許されて王都へ行くと聞いたのだった。  彼らは立ったままほとんど動かなかった。念話で話しているのだな、と僕は推測した。念話は――心と心で直接会話する方法は、ふつうの人間の会話とちがって、体の動き、しぐさや細かい表情を必要としない。だから見ただけでは、彼らの間にどれほど親密な会話がなされているかはまったくわからない。  しかし念話というのは、内容にかかわらずその行い自体がとても――とても親密なものだった。何といえばいいだろうか。自分自身の周囲を覆う殻をひらき、殻の内側の、眼にみえない空気のようなものを相手のそれと交わらせる。そんな行為なのだ。  僕にはもうあの感覚はわからない。僕にあるのはあの感覚の残滓、記憶だけだ。  僕が立ちどまっていたのはごく短い時間だっただろう。マンセルはきれいな男の子だ。正面からみれば、美形のクルトとマンセルがならぶ様子は絵のようにみえるにちがいない。兄弟というには似ていないが、友人というには齢が離れている。  突然、鴉の鳴き声が響いた。マンセルが上を見上げたと思うと首をぐるりと回した。青い眼がまっすぐこちらを向いて、一瞬視線があったような気がした。べつの鴉が鳴いた。王都、それに王城の城壁には鴉がたくさん棲んでいる。クルトの腕があがり、マンセルの肩に回される。鴉は彼らの頭上を舞って飛び去った。  僕はきびすを返し、早足ですぐそばの路地を曲がった。まっすぐ進めばクルトに会えたのだが、そうしなかったのに深い理由はなかった。学院に来たばかりの親戚の少年の面倒をみるのはもちろん彼らしいふるまいだ。もともと誰にでも慕われる男なのだから。  早足のまま城下を突っ切って商店街をぬけ、カリーの店の扉をあけると、ちょうど店番の学生が大あくびをしているところだった。 「ソールさん」 「暇そうだな」 「今日はあまり人が来なくて。そうそう、郵便が届いています」  郵便、という言葉に内心びくっとしながら僕は学生にいう。 「ありがとう。今日はもうあがっていいよ」  束になった郵便を仕分けると、たいていはいつもの請求書や問い合わせだった。故郷の村から来たような不穏な書状はなく、僕はほっとした。  最後にあけた小包はハミルトンからだ。僕は慎重に梱包された陶片や、ほかの遺物のレリーフを写した紙を広げる。包みの隅から転がり出た小さな袋には金属活字が入っていた。僕は袋をランプにかざし、おそるおそる中をのぞいた。机の上にならべた金属はきれいに洗われ、磨かれている。まるで新品のような輝きだ。  そっとなぞっても、島で感じた不吉な感触はなかった。あの奇妙に惹きつけられるような感じもだ。これはただの金属、古代文字を裏返しに刻んだ金属にすぎない。  扉が開く音がした。僕ははっとして顔をあげた。クルトかもしれない。  しわがれた声が「よう」といった。ブーツの足音が響き、高いところから浅黒い顔が僕の手元を見下ろす。 「おい、カリーの店は出版もする気か?」  唐突で遠慮のない話し方だった。学者崩れが学者崩れに話す声だ。 「まさか。うちは古本取引専門だ」 「その陶片、なんだ?」 「海底から出たんだ。きみは古代都市には詳しいか?」 「古代都市ね。あんたの方が詳しいだろうが……」  サージュは長い指をのばし、光る金属をつまみあげた。

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