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【第1部 朝露を散らす者】8.雪のように降るものが

 マンセルの思念はのびやかな軽い楽音に似ていた。春の若葉を思わせる明るさだった。 『クルト兄さん! いま、念話を離れた場所にいる人と通じさせる方法を練習しているんです』  緊急の用事でないことは聞くまでもなくわかっていた。こんなに早く念話を習得できたことを誰かに――クルトに告げたかったのだ。マンセルの子供っぽい誇りはクルトに自分の子供時代を思い出させ、彼は思わず微笑んだ。 『いま――学院か。授業はもう終わったのか。上達が早いんじゃないか』 『はい。初学年ではいちばんです』 『すごいな』 『僕は早くクルト兄さんの近くまで追いつきたいんです!』 『マンセル、学院は魔力を操る実技を勉強するだけじゃない。ちゃんと理論――座学をやるんだ。魔術師同士で念話ができるだけじゃだめだ』 『わかってます』 『おまえならやれるよ。大丈夫だ』 『はい。……その、あの――』 『どうした?』 『理論の師が……これまででいちばん優秀だった学生があの人だって……』  クルトはまた微笑んだ。 『ソールか。俺も知った時は驚いた』 『クルト兄さんは……その……』  マンセルの思念がふと途絶えた。 『マンセル?』  クルトは心でマンセルに呼びかけながら、官吏たちが忙しそうに歩き回る区画をぬける。離れた騎士団の訓練場から剣戟の音が聞こえてくる。と、マンセルの声が頭に響く。 『クルト兄さん、カリーの店ってそんなにすごいんですか?』 『俺も最初は同じことを思っていた。無知だったんだ』 『たしかに平民の初学年はみんなあそこで本を買うそうですが――でも、出入りしているのは回路魔術師だの、職人だの、汚い服を着た得体のしれない連中だっているそうじゃないですか』 『初学年のくせに回路魔術師をそんな風にいうもんじゃない。それに書物の商いに関係しているのは学者や魔術師だけじゃないんだ。得体のしれない連中なんてうっかりいうな。すぐれた精霊魔術師は外見に惑わされたりしない』  そうマンセルに返したものの、クルトは「得体のしれない連中」という言葉にサージュを連想するのを止められなかった。もちろんソールの店には職人や屑売りも出入りするし、書籍商の中には古書の由来を捏造して高額転売をもくろむ者もいる。しかしサージュの得体のしれなさはもっと性質の悪いものだ。さらに悪いのは、ソールがサージュの話をするとき、ふだんは見せないような高揚した表情になることだ。  師団の塔で回路魔術師と話していた時、クルトがついていくのをあきらめた会話でも、ソールはとても楽しそうだった。だがサージュの話をするソールに対して、クルトが感じていたのはもう少し違う雰囲気だった。何といえばいいのか、ソールはサージュを一種の身内のように――自分の仲間か同類のように思っているらしい。  サージュが気になる、いや、率直にいってとても気に入らないのはひょっとしてこのせいか。  いやいや――とクルトは考え直した。今のソールにいちばん近いのは自分であって、それを疑ったことは一度もない。ソールが楽しそうにしているからといって、相手を気に入らないなどと思うのはおかしい。無意味な独占欲は未熟さのあらわれだ。  それに、ソールはクルトより十歳年上なのだから、当然、ふたりが出会う前の人間関係というものがある。たとえば騎士団にはソールの昔からの友人のラジアンがいる。ラジアンは職務に忠実で、よくいって物事に動じない、悪くいえば鈍感な男だが、昔のソールはラジアンに対して、ただの友情より一歩踏みこんだ感情を抱いていたのをクルトは知っている。  ふたりの関係に対して、過去のクルトは無用な嫉妬を抱いたこともあるが、今のソールにとってラジアンは、幾人かいる友人のひとりにすぎない。 『クルト兄さん』  考えにふけって念話を中断させたクルトに、ためらうようなマンセルの思念が触れた。 『もちろんそうですよね。すぐれた精霊魔術師は――クルト兄さんは白いローブを着れる人ですから、なおさらです』 『マンセル、その話はやめるんだ。盗み聞いたことを本気にとるんじゃない』 『でも念話で嘘はつけないでしょう?』  正確にはそんなことはない。とはいえマンセルは若すぎて、魔力の放射は安定していないし、制御ときたらからきしだ。すれちがった精霊魔術師たちは油断していたのだろう。そして自分に向けられていない念話を聞き取ってしまうというのは、マンセルの能力の大きさを表してもいる。  それにしても白いローブか。  今回の召喚の目的が自分にそれを与えることだとすれば――もし実現したらいったいどうなるのだろう、とクルトは思った。かつて自分は白いローブを手に入れるつもりだったが、最終学年で求められるいくつかの審査をすっぽかしたあげく、治療師になることを選んだのだ。そんな人間に白を着せようとするなら、その先も何かあると考えるべきではないか? しかし、白いローブを受け取ることが王都に留まることにつながるのであれば、ソールはどうなるだろう。 『クルト兄さん、今はどこですか? 王城ですか?』 『騎士団長の屋敷の近くを歩いているところだ。マンセルは寄宿舎へ帰るんだろう』 『クルト兄さん』 『なんだ』 『もっと話がしたいんです』 『今話しているじゃないか』 『そうですけど、顔を見たいんです』  マンセルの思念にはかすかな短調の響きがあった。クルトはすこし同情した。勝気で誇り高い性格だから周囲には弱みを見せないだろうが、そんな性格と反比例するかのようにマンセルには脆い雰囲気も感じられた。領地や家族と離れ、おまけに同じ年齢の生徒もいない寄宿舎は楽な場所ではないのだろう。従者を帰せと説教したのも正論のはずだが、貴族の子息にとって、従者はときに家族以上に親しい存在の場合もある。 『しかたないな』 『すぐ行きます! 近くまで行けばクルト兄さんの居場所、わかりますから』 『俺はカリーの店に帰る途中だ。ちょっとだけだぞ』  クルトはしばし待った。マンセルは飛び跳ねるように道をやってきた。金髪が肩で踊り、クルトを見る視線はまっすぐで、ためらいがない。制御されない魔力の光輝もあってか華がある。今は同世代の友達もおらず孤独かもしれないが、周囲は彼を放ってはおかないだろう、とクルトは思った。自分が十五歳のときもこうだっただろうか?  歩きながらマンセルは念話で話し続けた。領地の両親のことや従者の話、学院の印象など、他愛のない話題ばかりだったが、他愛ないからこそ、ひさしぶりにクルトは思念と思念でかわす気取りのないやりとりを楽しいと思った。ここ何年か忘れていたが、学生の頃は友人たちとこんな風に念話で話したものだ。  突然鴉の羽音が響き、ふたりの頭上に舞い降りてきた。クルトは反射的に手をあげてマンセルの肩を抱いた。もう一羽の羽ばたきが近づく。鴉たちはクルトに首を向け、何事か伝える意志があるかのように鳴きかわして飛び去る。ふわりと舞いながら落ちてきた漆黒の羽毛が、マンセルの魔力に対立するかのように冷たく光った。ただの錯覚だろう。  そういえばマンセルは鳥や動物に親和性がないようだ。それはクルトの能力との大きなちがいだった。鴉はけっしてクルトにくちばしを向けないからだ。 『マンセル、もう帰るぞ』とクルトはいう。 『俺にかまってないで学院に友達をつくれよ』 『僕はクルト兄さんと話ができればいいです』  クルトは笑ってマンセルの髪を撫でた。 『そんなことをいってるのも今のうちだけだ。すぐに俺のことなんかどうでもよくなるさ』  カリーの店の扉を開けたとき、ソールが早口で話すのが聞こえた。 「典型的な書物への回路魔術隠しといえば、背や見返しなどの間に基板を仕込んでおくやり方だが、回路魔術以前にもっと原始的な方法が試みられたことはある。銀糸を紙に梳きこんだ上に文字を書く、文字を銀で描くなどで、解読できた者だけが指示に従って魔力を流すことができる。でもこれが可能だったのは強力な魔力の持ち主だけで――」  クルトの手から扉が離れ、バタンと大きな音を立てて閉まった。ソールははっとしたように言葉を切った。ソールの机の前に細長い影が座っている。クルトは眼を細めた。サージュだった。 「あ――クルト」 「ごめん。遅くなった」 「いや……」 「魔術師のお帰りか」  サージュがクルトをちらっとみてそんなことをいい、わざとらしく視線をそらした。何の根拠もなく、またもクルトはサージュをいけ好かない男だと思った。  なぜか妙にぎこちない雰囲気がある。いや、ここに戻る前にマンセルと念話でかわしたやりとりとの落差が大きいせいだろうか。何しろソールにクルトの魔力は届かず、サージュは得体がしれない。 「俺は行く。またな」  サージュはしわがれた声でいった。おかしな声だった。何度聞いても慣れない。 「外に食事に行こうといっただろう。どうする?」とソールがいった。  クルトは意味もなくサージュが出て行った後をにらみつけていた。ふりむくとソールは手早く机の上を片付けている。 「そうそう、街できみをみかけたんだが、声をかけそびれたよ」 「え、どうして?」 「ひとと一緒だったじゃないか。クルトの親戚の子だろう。前に一度、町の店にきた」  マンセルといたときだ。クルトは残念な思いでいっぱいになった。なんというもったいないことを。 「そうなのか。マンセルは学院に入ったばかりで……声をかけてくれればよかったのに」  ソールはクルトに微笑んだが、すぐにそらされたまぶたの下には濃い影がおちている。 「いや。声をかけづらくて。その――取り込み中のようだったし」 「そんなことはない。マンセルは王都に慣れてないから寂しいだけだ。領地から出てきたばかりだし、よくあることさ」 「僕の眼鏡でみても彼の魔力はすごく明るい。学院が合うといいが」 「たしかに早く制御を覚えた方がいい。父が余計なことを考えているようだし、王宮で勝手に……」  クルトはマンセルの「盗み聞き」を口にしかけて思いとどまった。マンセルの不名誉になるからというのもあったが、何よりも彼が聞いた内容を話すべきか、判断できなかった。白いローブ。クルトがそれを手に入れることがソールにとって不利益になるのなら、彼が勘づく前に断るべきだ。 「――そういえば、お父上のことはどうするんだ?」  クルトがそういったのは、単に話題を変えたかっただけにすぎなかった。ところがソールの表情は一瞬にして固くなった。 「クルト、それは……僕の問題だから」 「どうして? 足環の準備もできたし、ソールが実家に帰るなら一緒に行こう。俺がちょっと王都を離れても誰も困らないし、ソールについている方が大事だ」 「馬鹿なことをいうなよ」  ソールは首を振った。クルトはサージュが座っていた椅子に腰をおろした。心の奥底では、この椅子に自分以外の人間が座って、ソールとあんな風に話すのは気に入らないと思っていた。サージュのような輩はとくに。 「ちがうだろう。僕の父の話は単に――僕の家族のことにすぎない。きみが王都に召喚されているのはもっと大きなことだ。きみは貴族だし……ただの本屋でしかない僕とは立場がちがう」 「前もいっただろう。俺が何かなんて気にするな」 「きみはそういうが、僕はあの子のように念話できみと話をするなんてできないからな」  とたんにソールは顔を赤くした。自分の口から出た言葉に自分で驚いているようだった。 「――なんでもない」  早口の語尾が震え、ソールはあわてたように立ち上がった。骨ばった肩がクルトをおしのけて店の入口へ向かう。クルトに見えるのは背中だけだ。 「食事に行くといっただろう。店を閉める」  何かを恥じているような小さな声がそういった。

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