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【第1部 朝露を散らす者】9.しなやかな鏡

 サージュはランプの光に金属活字をかざし、じろじろと眺めていた。 「古代文字だな。それで古代都市のことを聞いたのか。復刻版でも作るつもりか?」 「誰かがね。僕じゃない。ちなみにそいつは遺物だ。海底の遺跡から出た。ほかの遺物と時代が合わないから、難破船から流れついたんじゃないかと思っているが」  僕は陶片のへりを指でなぞった。 「これと同じ時代に印刷機があったとしたら大変なことだがね」  サージュは金属を机に置いた。コトリと音が響く。レリーフを写しとった紙を見下ろして「たしかにな」という。異様にしわがれた声だが、僕はそれを異様とも思わなくなっている自分に気づいた。サージュとは会った回数こそ少ないものの、校正刷りの確認や情報交換などで毎回長い時間話しこんでいるから、そのせいか。 「古代文字の古典の復刻版ね。人気がない分野だと学院の教授に聞いたばかりだが、回路魔術で印刷機械はずいぶん進歩しているようだし、印刷がさらに安価になれば実現するのかもしれない」  僕は机の前の丸椅子をさした。 「座るか? 今日は何をしにきた」 「通りがかりだ。思い出して寄った」  僕はうすく笑う。 「カリーの店に通りがかりで寄る客なんてめったにいないよ。ありがたいな。新しい入荷はないが」  サージュは椅子に腰をおろした。 「せっかくだ。目録をみたい。入荷は買取だけなのか? 見本市には行かないのか」 「うちは新刊をほとんど扱わないからな。情報収集にはいいだろうが、僕は旅行ができない」 「なぜ」  単刀直入な質問だった。僕は肩をすくめる。 「体があちこちポンコツなんだ。ひとがたくさん集まる場所はすぐに体調を崩す」 「人間ならこの都も多いだろう」 「まあね。だから僕はここでは無理がきかない。いつもは共同経営者に任せているし、隣国の見本市は代理人に様子を見に行ってもらってる」  僕はレナードとハミルトンの顔を思い浮かべながらいった。各地に旅行ができないのは体調のせいばかりでもないのだが、サージュに話す必要はない。かわりに彼に聞き返した。 「きみこそ、その情報通ぶりをみるとずいぶんあちこちを旅しているんだろう。それにアルベルトの弟子だったなら、ふつうの書籍商が行かないような土地にも行ったんじゃないか?」 「たしかにな」 「大陸はどうだ? 港湾都市に流れる書籍を見る限りでは、規格も装幀の形式も様子がちがう。印刷業はどうなってる?」 「それなら年々大規模化が進んでいる。こちらは職人のギルド制だが――」  と、前触れなくサージュの喉でひゅっというおかしな音が鳴った。  彼は言葉をとめ、喉に片手をあてた。僕は眉を上げた。 「どうした?」  サージュは喉に手をあてたまま「回路の――」といいかけた。ふいにその眼がぐるりと動いた。 「サージュ?」  僕の眼の前でサージュの眸が中心へ寄り、瞳孔が大きくひらく。ガタっと音がして、椅子が蹴り倒された。サージュは両手で自分の口をふさぎながら僕に背を向けた。えびのように体を曲げる。背中が激しく上下したと思うと喉の奥から絞り出すような音があふれた。咳と呼ぶには異常な音で、しかも激しすぎた。彼の体の内部に別の生き物がいて、それが突然暴れだしたかのようだ。  僕はおろおろと飛び出してサージュの背中に触れた。手のひらをあててさすろうとしたが、サージュの咳――と呼んでいいのだろうか――は止まらない。彼は床に膝と両手をついたまま背中をよじった。首がもちあがり、頭がうしろに反る。サージュは彫像のように動きをとめる。  音がやんだ。こちらの胸が引き絞られるような音、彼の喉からずっと漏れていた音が。  その時だ。僕はみた。まるで白目がなくなったかのように、彼の眼全体が真っ黒に塗りつぶされている。  ほんの短いあいだのことだった。次の瞬間サージュは背中をねじり、僕の手をはねのけた。床に膝と胸をついてうつ伏せになり、肩で激しく息をつく。僕は自分でも意識しないまま両手を上にあげていた。 「大丈夫か?」なんとか声をかけた。「水を持ってくる」  奥から水と布巾を持って戻ったとき、サージュは倒した椅子を起こしているところだった。不自然に膨らんだ胸の隠しを叩きながら水のコップに口をつける。僕が差し出した布巾で顔をぬぐいながら「悪いな」といった。僕ははっとした。いつものしわがれた声ではない。 「持病か?」僕はたずねた。 「ちょっとな。慣れてるから気にするな。これはうつらない。商売物は汚れていないと思うが」  サージュの声がだんだんいつものしわがれた声に戻っていく。僕は彼の頭越しに床を確認した。 「大丈夫だろう。昔から?」 「たまにひどくなる」  サージュはコップを空にし、僕はまた水を取りにいった。水差しをいっぱいにしながら、ついさっき見たサージュの眼の色を思い出していた。白目まで黒く染まった、あれはもしかして……  水差しを机に置くとサージュは勝手に水をついだ。僕はさりげなく眼鏡をかける。サージュの周囲には虹色の光輝がまとわりついている。 「増幅薬を使ったことがあるな」と僕はいった。  サージュはコップを置いて僕を見返した。 「ないこともない」 「あれには副作用があるはずだ。きみの声も?」 「知らん方がいい」  僕は眉をひそめた。 「魔力増幅薬は……港湾都市では簡単に手に入れるルートがあるらしいが、この国では特別の事情がないかぎり禁止されている。取引も服用も違法だ」 「知ってる。安心しろ。俺は現役じゃない」  胸の奥がざわざわと揺れ動くのを感じた。揺れているのは記憶だ。あまり表に出さない方がいい記憶。  僕は首を振った。どうせこの男は何もいわないだろうし、僕にしたところでこの話題を続けたいわけではない。 「水はもういいか? 下げるよ」  サージュがうなずいたので僕は水差しとコップを奥へ戻した。戻りながらふと思い出す。 「サージュ。前に来た時『朝露を散らす者』の話をしていただろう」 「ああ」 「調べてみたんだが、古い記録に同じ名前が出てくるんだ。どういうことだ? きみがいった窃盗団はそんなに昔からあるのか」 「どこで調べた?」 「王城だ」  サージュはうなずいた。 「なるほどな。同じといえば同じかもしれんが、ちがうといえばちがう」 「それは謎かけか?」 「そう聞こえるか」  サージュは薄笑いをうかべた。 「出し惜しみはしないさ。『朝露を散らす者』は、もともと『再生者』に連なる一派の名前だった。どちらも歴史書や公の記録に残ることは少ない」 「再生者?」 「古代の書物――魔術書の複製や復元を試みていた集団だ。『再生者』も『朝露を散らす者』も秘密結社のなかの秘密結社のようなものだから、バラバラの記録にしか出てこない。つながりをあえて消しているから、どのくらいの実体があったかも不明だ。一種の理念を共有する者が勝手に名乗っていただけ、という可能性もある。異端魔術の暗殺者がそう名乗っていたこともあれば、石工がそう名乗っていたこともあるからな」  石工。  僕はヴェイユがレムニスケートの記録でこの名前を見たといったのを思い出した。レムニスケートの一族はその起源の最初から王城建築に関わっている。彼らの中には石工が何人かいたはずだ。  サージュは僕の思いをよそに話を続けていた。 「今の『朝露を散らす者』も同じ理念があるのかもしれないが、実体はただの書籍泥棒だ。俺が知るかぎり――」サージュはすらすらといくつかの題名をあげた。「これだけの稀覯本が連中の手にかかって、どこかへ消えた」 「どこへ?」  僕はたずねるが、頭の一部はべつのことにひっかかったままだ。 「連中の資金源のところにきまってる」  サージュの答えは落ちついたものだった。 「どこで彼らの名前を知ったんだ」僕はかさねてたずねた。 「たまたま符牒を解読したのさ」 「サージュ、その……『再生者』が複製…復元しようとしていた魔術書って、なんだ?」  僕は内心の動揺を隠そうと努力したから、サージュは不審に思わなかったにちがいない。こともなげにいった。 「古代浮遊都市の『力の書』だよ」 「あれは伝説だろう」 「そう、伝説だ。道の本とか、単に〈本〉と呼ばれる」  ここでそれに出会うとは。  話題を変えたかった。僕は何でもない口調でまたたずねた。 「きみ、符牒の解読ができるのか?」  サージュは顔をしかめた。「俺がアルベルトについていたとき、あいつは古記録に夢中でね。見たこともない言語だの、符牒だので書かれた文書に毎日毎日つきあわされた」 「何の研究だ?」 「統一理論だ」  僕は一瞬、あっけにとられた。「それは魔術研究だろう」 「ああ。精霊魔術と回路魔術の原理を一貫して説明する。あんたはさっき、回路魔術で印刷機械を改良する話をしていたが、回路魔術と精霊魔術理論との関連はまだわからんことだらけだ。アルベルトは手掛かりを古記録に探していた」 「アルベルトの著書は全部読んだが、魔術に関するものはひとつもなかったぞ」  サージュは得意そうな眼つきをする。 「『自然のしなやかな鏡』という題名だけは聞かされたがね。未完のままだ」  沈黙がおちた。居心地の悪い沈黙ではなかった。つい先ほどの発作が嘘のようにサージュは座っている。  僕らはまたどちらからともなく話しはじめた。やはり内容は書物のことで、次第に印刷や製本に関する実用的な技術の話になった。扱った書物の数に関してはサージュより僕の方が多かったせいもあって、やがて僕は魔術書の装幀や構造についてまくしたてていた。 「もっと原始的な方法が試みられたことはある。銀糸を紙に梳きこんだ上に文字を書く、文字を銀で描くなどで、解読できた者だけが指示に従って魔力を流すことができる。でもこれが可能だったのは強力な魔力の持ち主だけで――」  突然店の扉が大きな音を立てて閉まった。  僕ははっとして口を閉じた。薄灰色のローブが立っている。 「あ――クルト」 「ごめん。遅くなった」  急に話をやめたせいか、なんだか妙な雰囲気になってしまった。理由はわからないがクルトの表情が険しく感じられたせいもある。サージュがクルトの方を向いて何かつぶやき、ついで「俺は行く。またな」といった。  店の扉が閉まった。 「外に食事に行こうといっただろう。どうする?」と僕はいう。  クルトはふりむいた。その顔をみたとたん、僕はサージュがいたあいだ完全に頭から抜け落ちていたことを思い出した。 「そうそう、街できみをみかけたんだが、声をかけそびれたよ」  何気なく口に出したとたん、いわなければよかったと思った。それでも僕は続けて、クルトと一緒にいた親戚の美少年、マンセルに言及していた。学院の初学年で王都にいる彼とクルトはたまたま会ったのだろう。クルトの面倒見の良さならもちろんよく知っている。学生のころも彼は同級生や後輩に慕われていたし、今も施療院で同じことをしているのだ。  もっとも、マンセルのことを話すクルトの口調もすこし歯切れが悪かった。そんなにあの子に心配なことでもあるのだろうか。僕は頭の中に浮かぶ像を無視しようとした。クルトとマンセル。ふたりがならんだ様子は絵のようで、クルトの腕が上がって―― 「――そういえば、お父上のことはどうするんだ?」  突然クルトがいった。僕は我に返った。 「それは……僕の問題だから」 「どうして?」  クルトは不思議そうな顔をして、一緒に僕の故郷へ帰ろうという。僕はあわてて首を振る。 「馬鹿なことをいうなよ」  クルトは自分がどういう存在か忘れているんじゃないだろうか。たしかに海辺の村ではクルトは自分の出自についてほとんど表に出さなかったし、村人も彼を貴族ではなく治療師の「先生」として扱うから、それに慣れてしまったのかもしれない。  でも僕らが王都に戻ってきた理由はクルトが召喚されたためだ。僕の実家のために彼まで王都を離れるなんておかしな話だった。  なのにクルトは僕の話を本気でとっていないようだった。魔術師であるだけでなく、生まれからして立場が違うといっても「俺が何かなんて気にするな」と答えてくる。  思わず「きみはそういうが、僕はあの子のように念話できみと話をするなんてできないからな」と口走ってしまったのは苛立ちのあらわれだったのだが、とたんに僕は後悔した。  いや、後悔なんてものではなかった。頬がぱっと熱くなる。なじみ深い感情と羞恥に体がふるえ、痛みすらおぼえた。あんな若い――子供のような少年に嫉妬するなんて。僕はまだ……  僕はまだあきらめられないのか。自分の過ちで何もかも失くし、こんなに時がすぎたのに。まだ。 「――なんでもない」  僕はクルトをおしのけるようにして扉へ向かった。 「食事に行くといっただろう。店を閉める」  話しながらガチャガチャと錠前をいじった。手動でこの鍵をかけるのは面倒くさいのだ。たいていの錠前は回路魔術を使った機構が組みこまれているからだ。 「ソール」  うしろでクルトの声が聞こえる。僕は何もなかったふりを装って、背を向けたまま「何を食べる?」という。「のんびりしていると飯屋が閉まって……」  肩にクルトの手を感じた。 「ソール」  胸に腕が回され、ふりむかされた。クルトの眸がまっすぐに僕をみていた。吸いこまれるような緑色の眸だ。唇があがって魅力的な微笑をかたちづくる。惹きつけられずにいられない笑み。なんてきれいな笑顔だろうと僕は思う。扉に背中を押しつけられる。クルトの両手が僕の顎をつかみ、頬をはさむ。唇が近づいてくる。鼻と鼻がくっつきそうなほどの距離でクルトの唇が動いた。 「たしかに俺は王国の魔術師で、ハスケル家の生まれだが、そんなのはどうでもいいんだ」 「クルト――」 「何度でもいう。俺は王城の召喚なんかどうでもいいし、家名や財産は俺自身にとってたいしたことじゃない。流れの治療師になることもできるし、そうなっても後悔はしない。ソールがいれば」 「だけど――」 「もちろんそんなことになったら父は嫌がるだろうけどな。でも俺が何をしたところで血縁がなくなるわけじゃない」 「でも今回の召喚は――きみのローブを白に変えるかもしれないんだぞ!」  あっと思ったが遅かった。今日の僕の口はろくでもないことしかしないようだ。  クルトは僕をじっとみつめた。 「どこで聞いたんだ?」僕の頬にあてられた両手の力がゆるみ、指が顎を撫でる。 「ヴェイユから……」僕の声はかすれていた。「詳しいことは知らないらしいが」 「そうか」  意外にもクルトは落ちついていた。ひょっとしたらもう知っていたのだろうか。知っていて黙っていたのかもしれない。ふと僕はそう思った。精霊魔術師の白いローブを手に入れたら、僕らの生活は大きく変わる可能性がある。だからあえていわずにいたのか。 「ソール。今は俺の話はいい」クルトはささやいた。 「それよりソールの父上だ。帰らないとまずいだろう?」 「でも……きみは……」 「俺はソールが行くところに行く」  クルトの体からはほのかに麝香のような香りがする。肩からローブがおち、彼の体温が僕を覆った。足がからまってくる。僕はためらいながら口をひらいた。 「ほんとうは僕は……帰りたくないんだ。あそこでは僕はきっと……醜い気持ちを持ってしまう。確信がある。きみに――見せたくないような……」 「そんな心配しなくていい」クルトの息が僕の唇にあたった。「俺はソールのどんなところも好きだ」 「帰らないとまずいのは――そうだと思う。でもきみまで巻きこむのは……」 「ソールはまだわかってないな。俺は巻きこまれたいんだ」  クルトの唇が僕のあごに触れる。 「大丈夫だ。俺はソールのことがわかってる」  そんなことはない、といいたかった。きみは僕がどれほど弱くて卑怯だったかを知らないのだと。だがいえなかった。クルトの唇が重なってきたからだ。そのまま深くキスをされ、腕が腰にまわされると、僕は抵抗できずに身をまかせてしまう。入りこんだ舌に強く吸われると背中から足元まで震えが走り、頭の片隅で、これ以外のものなんてどうでもいい、という声がささやく。 「なあ、ここで食べよう。いつもみたいに」  すがりつくように彼の首に腕を回した僕に、クルトは低くささやく。 「何か食べるものを買いに行こう。俺はソールとふたりでいたい」  僕はうなずき、うなずきながらも、クルトの誘惑にあっさり屈した自分を呪った。

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