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【第1部 朝露を散らす者】10.林檎の蜜

 ソールはクルトが王都に召喚された理由を知っていた。  ならんで路地を歩きながらクルトはそのことに軽い衝撃を受けていた。もちろんクルトと同様、ソールは確たる情報を得てはいない。だが少なくとも、今回の召喚がローブの色に関わるのは知っていたわけである。故郷から手紙があっても帰ることを渋っていたのはこのためだったのか。  しかしクルトにいわせれば、ソールは王都に召喚された自分の都合に合わせてくれたわけであり、クルトのために故郷に帰らない、などというのはおかしな話だった。故郷に帰りたくないともソールはいったが、クルトにはそれがどこまで本気の言葉なのか、わからなかった。  口に出された言葉の真実性をそれだけで判断するのは難しい。人の口は時として、本当に願っていることとは真逆のことを話すものだ。ふつうの人間の場合、クルトの魔力はその人の感情や表層的な考えを感知して、口に出された言葉がどこまで本心を裏付けているのか知ることができる。だがソールにはそれが通用しない。  ソールが召喚の理由をヴェイユから聞いたということにも、クルトは軽い苛立ちをおぼえていた。ヴェイユは王立学院で史上最も若くして教授となった人物であり、優秀な精霊魔術師で魔術理論を専門とする。学生には厳しいことで有名だが、わけへだてのない公正な評価で知られている。師と呼ぶにふさわしい人間なのだが、クルトはヴェイユのちがう側面にも接したことがある。  学院ではまったくそんなそぶりを見せないが、ヴェイユは回路魔術も使えるのだ。それは彼がに担っている何らかの役割に関係がある。おそらくソールの過去の事件にもつながりがあり、クルトがこの教師を単純に「師」として敬えないのは、元をたどればそのせいだった。  マンセルと歩いていたとき、ソールが近くにいたことに気づかなかったのも悔しかった。とはいえクルトはソールが抱いた嫉妬や苛立ちを理解していたとはいえなかった。無理もない話ではある。自分が当たり前に思っている基本的な能力が「欠如した状態」を想像だけで理解するのは、いうほど簡単なことではない。  商店街は夕食時の買い物客でにぎわって、いい匂いがする。  クルトはつねに人気者だ。商店主たちは、とくに必要がないとわかっていてもクルトに声をかけ、寄っていけといい、クルトがこたえると嬉しそうに笑う。果物を選んでいると八百屋のおかみさんが「林檎、おまけするよ」と袋に詰めてくれるし、パン屋は焼き菓子の最後のふたつをとっておいてくれたりする。  隣を歩くソールはそんなクルトに「きみは人に好かれるな」と、褒めているとも呆れているともつかない言葉をいうが、ソールにも実はかなりの隠れ信奉者がいる。彼に向けられた人々の感情を感知できるクルトはそれがわかるが、肝心のソールはまったくわかっていない。  カリーの店に戻るとふたりはいつものように食卓を整えた。ソールはいつものようにきれいな仕草でゆっくりと食べた。食事の時のソールの作法は貴族の基準に照らしてもつねに正しい。彼は自分のことをただの平民だとよく卑下するが、平民にこんな作法を習得する機会はない。階級が混じる学院の寄宿舎で鍛えられたおかげでクルトはそれを知っていた。彼はどこでこれを教えられたのだろう。実家だろうか。 「さっき店に来ていたサージュだが、気になる話をしていた」  ソールがそんなことをいいはじめたので、クルトの中に一瞬剣呑な気分がかすめた。 「なんだって?」  クルトの声がやや尖っていたのにソールは気づいたかどうか。 「書籍泥棒の話だったんだが、彼らが名乗っている名前は、古来から伝わる秘密結社からとったものらしい」 「秘密結社?」 「まえに聞いたのは『朝露を散らす者』だが、それは『再生者』と名乗る結社に連なる名前らしいんだ。『再生者』というのは……その……」  ソールは口ごもり、顔をあげてクルトをみつめた。思い切ったようにいった。 「危険な魔術書――僕がむかし関わった〈本〉のたぐいを複製したり……再生をもくろむ集団らしい」  クルトは顔をしかめた。これはたしかに聞き捨てならない話題だ。 「そいつらは今もいるのか?」 「サージュが知る書籍泥棒は、単に古代から伝わる名前を借用しただけだと……少なくとも彼は思っているようだ。ただこの頃なんだか……嫌な感じがして」  ソールは言葉を切った。 「すまない。つまらないことをいった」 「まさか」クルトはあわてていう。「何でも話してくれ。何が気になっているんだ?」  ソールは椅子に座りなおした。皿の上にはまだ料理が残っている。 「僕はかつて学院で、禁書とされている危険な〈本〉を友人と一緒に開いてしまった。〈本〉のために図書室が燃え、友人は亡くなった。僕と友人が開いた〈本〉はすべて燃え落ちた。それは知っているな?」  クルトは黙ってうなずいた。ソールは彼をみつめ、口をひらきかけ、ためらうように閉じた。クルトは待った。 「だがあのとき僕は〈本〉を読んだ。そして僕はたぶん〈本〉の中にあったもの――知識か、力か、何かを理解した……すくなくともあるレベルで。だが今の僕にはあの〈本〉の内容は思い出せないんだ。一緒にいた友人の――『彼』のことが思い出せないのと同じように、僕の意識、記憶の中で、あの〈本〉は僕の手が届かないところにある。鍵をかけられて――封印されているかのように。そしてたぶん、僕の魔力も。だから僕は生きている」  思わずクルトは口を挟もうとしたが、ソールの視線が彼を制した。 「ヴェイユは、〈本〉は僕らの肉体や心に届かない世界の外、ちがう次元にあって、僕の魔力は〈本〉に通路をかけるために使われていると考えている。もしかしたら〈本〉は、魔力が生命に宿る前の場所、究極の根源のなかに異常な形態で落ちこんでいるのではないかとも。昔ヴェイユが考えた理論に『通路仮説』というものがある。精霊魔術師は魔力の根源を自身の内側から引き出し、組み立て、制御するが、それは実は一面的な――僕らの意識に縛られた見方であって、実際は生き物は、高次の場所――存在を満たしている力の『通路』ではないか、というんだ。生き物がこの地上を歩いているあいだ、高次の力は生き物を通じて地上で活動し、その生き物が死ねば通路を失って戻っていく。この地上にはより複雑で大きな通路を持って生まれる生き物と、そうでない生き物がいて、それを僕らは『魔力が多い』とか『少ない』と呼ぶ」  クルトはうなずきながらソールの話を必死に消化していた。ソールは唇のはしをかすかにあげて笑った。 「懐かしいな。昔は寄宿舎で、こういう話をして夜を明かしたものだ」 「それで……?」 「問題は僕自身にはまったく手が届かず、思い出せもしないのに、|僕《・》|が《・》ある意味で〈本〉を持っていると……誤解する者たちがいることだ。いや――誤解ともいい切れないかもしれない。『再生者』などという組織が今もあったら僕をどう思うだろう。だから審判の塔は僕を王都から出したくなかったんだ。彼らは法さえ許せば地下牢に僕を閉じこめたかっただろう。王国には地下牢などないはずだが」 「馬鹿をいうな。そんなことはさせない」  クルトは思わず強くいったが、ソールは首をかたむける。 「そうか? でも僕も――時々そうするべきだったんじゃないかと……思うことがあるよ」 「ソール」  ソールは皿の上を眺め、のろのろと手を動かした。手はすぐに止まり、彼はうつむいたまま小さな声でいう。 「僕は怖いんだ。自分がそんな……得体のしれないものとつながっているなんて。そもそも僕自身の過ちのせいなのに、ふざけた話だとも思う」 「ソール」  クルトは椅子を揺らした。ガタガタと音を立てながら――完全に貴族にあるまじき作法である――自分の椅子をソールのすぐ近くまでずらしていく。 「もう食べたくない?」 「いや……」 「ほら」  フォークに刺した肉片を彼の口元へもっていくと、ソールは困ったように笑った。 「クルト、行儀が悪いぞ」 「俺は貴族らしくない貴族なんだ」 「自分で食べるよ」  ソールの手にフォークをまかせて、クルトは立ち上がった。 「デザートはどうする? 果物?」 「林檎がいい」とソールはいう。  赤と橙がにじむようにうつりかわる果実を割ると、中は黄色い蜜でいっぱいだった。芯を抜いた林檎をナイフで割って、クルトはソールの隣に座る。 「はい。食べて」 「きみの手が邪魔だ」 「邪魔じゃない」  クルトは呆れたようなソールの視線を無視する。強引なクルトに根負けしたようにソールはクルトの手から直接林檎をかじる。しゃりしゃりと音が鳴る。 「美味しい?」 「甘い」  クルトの指が林檎の汁で濡れた。その指でソールの唇をなぞり、隙間に差し入れようとする。ソールは最初唇をむすんで抵抗するが、クルトが正面から微笑むと急に頬をあからめ、そのはずみに白い歯がのぞく。すかさず口腔に指を侵入させると、途惑うような舌が絡みつく。きつくなった股間を意識しながら空いた手で髪を撫でると、クルトをみつめる眸がうるんだように輝いた。 「怖がらなくていい」とクルトはささやく。 「ソール、俺は怖い?」  唾液に濡れた指でクルトはソールの耳を弄り、彼の体が震えるのを感じた。 「……まさか」 「俺はどう?」 「……好き……」  聞こえるか聞こえないかの小さな声にクルトの体も心も舞い上がりそうになる。冷静なふりをしてソールの肩を抱き、ひたいから頬に口づけ、耳朶をなめる。ソールの手が背中に回る。 「一緒に体を洗おう?」とクルトはささやく。「いいだろう?」  こくんと砂色の頭がうなずく。  カリーの店はもともと住居ではなく、生活のための設備は質素だったが、レナードとの共同経営に移行した後はいくつか改良が加えられていた。浴室もそのひとつだ。湯を貯めながら服を脱ぎ、素っ裸でソールをふりかえると、彼はきまり悪そうに眼をそらして顔を赤らめた。 「どうかした?」 「なんでもない」  クルトはソールの手を引いて浴室に入った。湯を浴びたソールの肌に石鹸の泡をたて、全身をくまなく洗うのはクルトのひそかな、そして大好きな娯楽なのだが、ふだんのソールはあまり許してくれない。うしろから背中を抱いて淡い紅色の乳首を泡でなぞると、ソールの唇から熱い吐息が漏れる。尖ったそこを弄りながらへそからもっと下へと手をすべらせる。 「クルト……だめ……」 「どうして? 洗ってるんだよ?」 「ちがうだろう……あっ……」  指の愛撫に蕩けて熱くなったソールの体を導いて浴槽に入り、彼を膝に抱くようにしてキスをする。温かい湯の中でおたがいの高ぶりを押しつけあうだけで爆発しそうになるが、まだ駄目だ。寸前でソールを止めると、彼はうるんだ眸でクルトをみつめる。 「ソール、きれいだ……」  たまらずクルトがこうささやくと、ソールはさっと眼をそらすのだった。 「それは……きみのことだよ――僕は……」  クルトはまたキスをする。ソールをうながして浴槽をあがり、水滴をぬぐって、ふたりはもつれるように寝台へ倒れる。クルトは敷布のうえで膝をつき、ソールの足指をなめ、かかとを甘噛みする。 「クルト……」ソールからこらえきれないような声が漏れる。 「クルト――」 「ソール、どうしてほしい?」クルトはささやく。 「力を抜いて。俺を見て」 「だめ……」ソールの声はかぼそい。「僕は――できない」 「できるよ」 「だめ――」膝をあがっていくクルトの愛撫にソールが息をのみ、ぎゅっと眼を閉じる。 「あ――やっ、クルト――」 「ねえ、いって……ソール」  クルトは意地悪く催促する。 「何がほしい?」  ソールがびくりと体をふるわせる。あいかわらず眼を閉じたまま、切れ切れの言葉を発する。 「僕を……きみだけで満たして――いっぱいにして――」 「だったら眼をあけて。そんな風に閉じちゃだめだ」 「だって……」 「それなら俺がふさいであげる」  寝台の横からクルトは幅広のリボンを引き出し、ソールの眼を隠した。  シュッと締まる音が響く。同時にソールから力が抜け、ふわりと緩むのをクルトは感じる。感覚のひとつをふさぐことで、彼の内側ではりつめているものが解放されるようなのだ。もちろんソールの口はけっしてそんなことをいわない。だが体は雄弁だ。  クルトの舌が彼の胸を這うと、ソールの吐息はすぐにさっきよりも激しくなる。荒い呼吸が高まって、しまいにはむせび泣きのような声が響く。見えないと他の感覚に敏感になるのだろうか。クルトはソールをうつぶせに導き、膝をたたせる。蕾のように閉じた秘所を舌で愛撫すると、ソールは短く鋭い声をあげる。 「あんっ、あっ、あ……」  潤滑油を塗りひろげながら、クルトは蕾をおしひらく。ゆっくりとその奥を指で探索する。この地理ならよく知っているが、何度探索してもあきることはない。奥まった場所をクルトの指がかするたび、ソールは背中を震わせて声をあげ、達しながらかわいらしく啼く。  クルトはぐったりした彼を膝に抱き、蕩けたように濡れた場所を己で貫く。ソールの体は衝撃に一度こわばるが、すぐにそれは快楽にかわるのだろう、クルトの動きに合わせるようにみずから動きはじめる。絞めつけられる感覚にクルトも低く息をもらし、ふたりのリズムが重なりあう。  寝台の上のソールはとても蠱惑的だ。いつもの彼を縛っている自制がはずれるせいだろうか。垣間見える表情はクルトを興奮させてやまないし、目隠しがあっても――いや、むしろ目隠しがあるからこそ、快楽に蕩けた口元や喉をそらすちいさな動きがクルトを翻弄する。  こんな彼を知っているのは自分だけだと思うとクルトはたまらない気持ちになる。これはクルトだけの宝物だ。昼間はソールの優秀なところ、素晴らしいところを他人に知ってもらいたいと思う一方で、今腕の中にいるソールは自分ひとりのものだった。  何度も貫かれ、翻弄されて、しまいにソールはぐったりと横たわる。はずれた目隠しはどこかへ消えてしまった。クルトは恋人の髪をそっと撫でる。砂色の髪は絹のような感触で、するすると指をくぐる。 「ソール」とつぶやくと、眠そうな声が応答する。 「何……」 「一緒に帰ろう?」  返事はなかった。クルトはさらにいった。 「ソールの故郷なら、俺も行きたい」  体をずらし、のしかかるようにして恋人の顔をこちらに向けさせる。ソールの頬を指でなぞる。  ソールは小さな声でいった。 「わかった。一緒に行こう」  とたんにクルトの中に喜びがわきあがる。 「だろ? 俺を置いていくなんて考えない方がいいんだ。なあ、ソール」 「何?」 「俺は恐れないよ。信じていい」  暗色の眸がクルトをみつめた。ソールの指がクルトの髪にそっと触れ、やわらかくかきまわす。ソールがこんな風に自分に触れると、クルトはいつも誇らしい気分で満たされる。他の人間にはけっして懐かない動物が頭をすり寄せてきた時に似た、小さな達成と誇りの感覚。 「きみは――そうだろうな」ソールは小声でつぶやく。 「たぶん僕を生かしているのは得体のしれない〈本〉だけじゃない」 「じゃあ、何?」 「きみだ」  ソールは眼をとじ、静かに眠りにおちた。

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