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【第1部 朝露を散らす者】11.雨の癒し
馬車が丘陵地帯をぬけたあたりから、雲行きが怪しくなってきた。
僕は外套の襟をよせる。急に冷たい風が吹きはじめたのだ。日暮れも近く、雲に覆われた空は暗かった。地理は把握していた。下り坂の先で街道はゆるやかに曲がり、その先には川が流れている。
「急に寒くなったな」クルトがいった。
「風のせいだ。冬のきざしだよ」と僕は答える。
馬車はみかけこそ簡素だが作りはしっかりしたものだった。ニールス家からの借り物である。御者台に座るサイモンもニールス家に仕える若者で、レナード・ニールスがカリーの店の共同経営者になってから、ハミルトンの指示のもと店の雑用――特に力仕事――に手を貸してくれていた。馬車もサイモンもレナードの好意だった。今回の帰郷について相談すると快く応じてくれた上、僕が一時王都を離れることについてもいろいろと取り計らってくれたのだ。
ふいに横殴りの突風が吹き、馬車がたわむように揺れた。
「サイモン、大丈夫か?」
クルトがたずねたが、馬車は風に負けないとばかり速度をあげる。太陽は厚い雲に隠され、どんどん暗くなっていく道を馬車の角灯が照らしている。
「嵐になる前につきたいんで急ぎます。そんなに遠くない」サイモンが怒鳴った。
「サイモン」僕も声を張り上げた。「この先に分岐があるだろう。右じゃなく左へ行ってくれ」
「そっち、川ですよ」
「いいんだ。寄りたいところがある」
「はあ?」
口調とは裏腹にサイモンは僕のいった通りに道を進んだ。この一帯は村の共有地で、まばらな木立から飛び出した木の枝が時折馬車の腹をこする。その先で空がひらけると、あらわれた土手のむこうに川がよこたわる。向こう岸に広がる森が水面に暗い影をおとしている。
「どこに通じてるんです?」サイモンが首を回していった。「このまま進んでいいですか?」
「少し先にみえるはずだ。暗いから……」
「みえるって――ああ、あれ?」
その家は低い石垣と柵にかこまれていた。サイモンは馬車を寄せると御者台から飛び降り、木の柵を押し開けた。明かりは馬車の角灯だけだ。クルトは窓から首を突き出して眺めている。サイモンがふたたび馬を進ませ、馬車は家の前についた。
「誰か住んでいるのか?」
クルトがたずねた。僕は首をふった。
「降りよう」
周辺はきちんと草刈りがされ、柵も修理されている。ポーチの先の正面扉には鎖がかかっている。回路魔術で制御された番号錠だ。僕はクルトをふりむく。
「開けてくれないか。番号は――」
クルトが操作すると錠はなめらかに回り、すぐに鎖は外れた。番号錠はそれ自体が小さな箱になっていて、爪を下げると中には小さな鍵が隠されている。扉の鍵穴に差しこむとなめらかに回った。一歩中に踏みこんだとたん、古い家具と埃の匂いが僕を包む。外では風がごうっと鳴り、鎧戸がガタガタと揺れる。
「やべえ、降ってくる」
サイモンがいった。僕は家の横を指さした。
「横手に納屋がある。飼い葉はあるかな……」
「先に馬を入れてきます。ここ、誰の家です?」
僕が答えるより先にサイモンは走っていった。クルトも馬車の方へ戻り、僕らの荷物をポーチに下ろす。僕は家の中に入って鎧戸をひとつだけ開けた。居室は二間だけ、手前の居間と奥の書斎兼寝室しかない、小さな平屋の家だ。小屋と呼んだ方がいいかもしれない。実際父はそう呼んでいたはずだ。僕は家具にかけられた覆いを外す。クルトが荷物を床に下ろした。
「ソール。暖炉に火を入れてもいいか?」
「ああ。頼む。納屋に余分な薪があるといいが」
そういった時腕いっぱいに薪を抱えたサイモンが戻ってきた。
「乾いてますよ。まぐさもありました」
「この家はなんだ?」
暖炉に火をおこしながらクルトがたずねる。
「祖父の家だ」僕は短く答えた。「今日はここに泊まろう。もう暗いし、雨も降っている」
僕の言葉を合図にしたかのように雨が屋根を叩きはじめた。クルトは暖炉の火をかきたて、ランプをつけた。光に照らされた部屋は記憶にある通りだった。家の中を一周していたサイモンが戻ってきて荷物をあける。パンや干し果物といった携行食を取り出す。
「食べ物、あまりないですよ」
「大丈夫さ」クルトがいった。「ここ、ソールのおじいさまの家だって?」
「もともとはそうだ」
僕はすこし迷ったが、結局話をつづけた。
「今は一応……僕のものだ。遺言で僕が相続したことになっている。父と祖父の仲が悪かった話は前もしたな? ほとんどの財産は祖母のものだったが、この家と土地は祖父の所有でね。いきさつは知らないが、遺言の時も揉めたらしくて、まだ生まれていなかった僕に遺された。僕が家を出るとき母に譲ろうとしたんだが、やめておけといわれてそのままだ。維持費は母が出している」
クルトは眉をあげただけで何もいわなかった。サイモンがワインを取り出し、僕らはささやかな食料を分けあおうと腰をおろした。暖炉では炎が薪をなめ、パチッと樹皮が弾ける音が響く。天井を叩く雨の音が大きくなる。
そのとき扉が激しく叩かれた。
「誰だ?」
クルトは剣呑な声をあげたが、僕は手をあげて彼を制した。ここはもう村の土地だ。明かりがついたのを見て誰か来たのだろう。だが扉を開けたとき、僕は一瞬ぽかんとして、次にこうつぶやいていた。
「ネッタ?」
「やっぱり、ソール。いったい何年ぶり?!」
ポーチに雨合羽から水がしたたり落ちた。従妹の顔は記憶にあるよりふっくらとしていた。まっすぐな黒髪が頬をふちどっている。ポーチの向こうでは馬が雨に濡れながらおとなしく立っていた。
「早馬を頼んだでしょう。戻ったら先にここにくるんじゃないかと思って、すこし前から村の衆に気をつけてもらっていたのよ。そしたら馬車がついたと知らせがきたの。鍵の開け方がわかるのはソールだけだから……」
ネッタの声には懐かしい響きがあった。僕がほとんど忘れかけている、この土地固有の語尾をすこし伸ばす話し方だ。
「できればうちに泊まってほしかったけど……」
言葉をにごす彼女を僕はさえぎった。
「いいよ。僕ひとりじゃないし、最初からここに寄ろうと思っていた」
ネッタは暖炉の前に立っていた。従妹といっても僕と一歳も違わない。最後に会ったのは学院へ入学するために王都へ旅立つ直前で、やせっぽっちの少女だった。今はもっとふくよかで女性らしい体型になっている。手に持っていた袋を押しつけてくるので僕はなんとなく受け取り、驚いた顔をして立っているクルトとサイモンに彼女を紹介した。
「ネッタ、彼はクルト。治療師だ。サイモンは王都で僕の店を手伝ってくれている。ネッタは母方の従妹だ。僕の実家の事業では昔から頼りにされていて」
「今は夫が中心なのよ。夫はメイヤーの補佐をしているの」
ネッタは照れたように首をふってそういった。クルトが笑顔で手を差し出し「はじめまして」といった。彼をみたネッタはあわてたように手を握りかえす。
「えっと……?」
「ソールの同居人です。施療院で働いています」
ネッタは怪訝な表情を浮かべたが何もいわなかった。僕は受け取った袋の中身をみる。パンと卵が上にのぞき、その下にも四角い包みがある。
「食べ物があった方がいいんじゃないかと思ってかき集めて持ってきたの。戻ったらシェリーに話すわ。うちの人にも。十何年分――話したいことがたくさんあるのよ!」
僕はうすく笑った。「僕もだ」
ネッタは安心したように頬をゆるめた。
「ソール、変わらないのがうれしい。大変だったのは聞いたけれど……元気そうでよかった。シェリーもほっとすると思う。でもあなたのいうように……今日突然戻らない方がいいでしょうね」
「おやじは?」
僕の問いかけに、ネッタの表情は固まったように見えた。
「よくないわ。ソール、帰ってきてくれて本当によかった。これまでメイヤーといろいろあったとしても、家族だから」
ネッタはゆっくりしていられないらしい。腰をおろしもせず「また明日ね」と雨の中へ出て行く。扉が閉まるとサイモンが「妖精みたいですね」と呑気な声でいった。
「妖精?」
「食べ物を持ってきてくれたじゃないですか」
「だったらお返しをしないとな」とクルトがいう。「いや、それじゃ順序が逆じゃないか?」
「前払いの妖精ですよ。ともあれ、いただいていいですかね?」
たしかにネッタの差し入れはありがたかった。今日焼いたらしいパンに大きなハムの塊、燻製にした卵、チーズ。サイモンは食べ終わると長椅子に寝転んで「俺はここで寝ます」と宣言する。僕とクルトは隣の部屋にいった。クルトが寝台の覆いをはがして毛布を広げているあいだ、僕はランプに照らされた部屋をぐるりと一周する。うすく埃がたまっているとはいえ、きれいに片付いている。小さな書棚に並べられた本の順序まで昔の通りだった。
「ソール、シェリーって誰だ?」
クルトが寝台の上からたずねた。
「僕の母だ。亡くなったネッタの母親は双子の姉妹で、母を名前で呼んでいたから、ネッタもそう呼ぶようになった」
「メイヤーというのがお父上か?」
「ああ」
「ここにはよく?」
クルトの声を聞きながら僕は本の背に指をすべらせる。学院の入学願はこの部屋で書いた。この家の鍵は物心ついたときには僕の首から下がっていて、「ソールのものよ」と母に教えられたのは幼児のころにちがいない。最初にひとりでこの家に来たのは十歳、僕は途方に暮れていて、どうしたらいいのかもわからないまま川べりを歩きつづけ、ここまでたどり着いたのだ。
「子供のころからよく……ここに来たよ。僕のものだというから、父に気兼ねなくいられると思って。ここにあった本はみな読んだ。父が話すようなこと――帳簿や手形の裏書、先物や利率、買付に来た客をどう見るか、仕入れをどうするか……そういう話から逃げられるなら何でもよかった」
僕は棚から一冊引き抜き、寝台に座って靴を脱いだ。クルトはとっくに肌着だけになっていた。ならんで毛布のあいだに入る。屋根を打つ雨と風の音はまだ続いていた。
「いい家だ」とクルトがいった。
「そうか?」
「ああ。落ちつく。ソールも?」
「晴れた日の夕暮れはとてもいいんだ。川に空と森が映る。ここだとひとりになれたし、防壁をつくらなくても静かでいられてよかった。実家は……ちがった」
「家には持ち主の性格がつくんだ。ここはいい家だ」
いい家。そうかもしれない。
クルトは落ちつくといったが、たしかに僕の気分も落ちついていた。実は王都からこの地方まで馬車に揺られていたあいだ、故郷が近づくにつれて不安がどんどん大きくなっていたのだった。だがこの家は僕を安心させたようだ。このあと何があるにせよ、ここなら休める。
(いろいろあったとしても、家族だから)
ネッタの声がよみがえった。家族か。
隣国の海辺の村ほど小さくないが、ここは地方の小規模な共同体だ。人々の関係は緊密で、住民は何らかのかたちで父の商売と関わっている。父が僕を勘当した理由もみな知っているにちがいない。それに僕はもともと村になじめなかった。いつしかこの家だけが僕の安らげる場所になっていたのだ。
歌がきこえた。
クルトが僕の肩に腕を回している。ハミングが僕の耳をゆらす。僕はしらずしらずのうちに微笑んでいた。クルトが歌っているのだ。雨のリズムにクルトの声が重なって、ひとつの音楽のようだった。
いつのまにか眠っていて、気がつくと朝になっていた。雨はやんでいるしクルトもいない。
僕は窓の鎧戸をすべて開け、夜明けの光がさしこむのにまかせた。居間へ行くとサイモンが起きて伸びをしているところだった。川べりまで歩いて土手に立つ。昨夜の嵐で折れた枝が水面を流れていく。
村の方向から煙がいくすじが昇っていた。ここは貴族の領地ではなく、商業ギルドと王家の管轄にある。村といっても農村ではないのだ。父はこのあたりきっての事業家で、行政ともかかわっている。そんな彼が病に倒れているとなると、さぞかし……
遠くから小さな姿が近づくのがみえ、僕の物思いをやぶった。クルトだ。僕は手をあげて呼んだ。こんな早くからどこまで行っていたのだろう?
「クルト! おはよう」
クルトは草を蹴散らすように走ってきた。僕の前で止まったが、しばらくぜいぜいと荒い息をついている。
「――おはよう」
「どうしたんだ。そんなに急いで」
クルトは僕をみつめ、僕の背後に建つ家をみつめた。
「村へ行こう、ソール。急いだほうがいい」
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