不安と恐れ、諦め、悲嘆。クルトの眼を覚まさせたのは強い感情の放射だった。 　まだ夜明け前だ。 　クルトはソールを起こさないように寝台から抜け出した。静かに身支度をすませると、外に出て川ぞいを歩いていった。 　つねにとはいわないが、施療院でこのような声を聴くのは珍しいことではない。わずかに白みはじめた空の下に村の家々の黒い影があらわれる。ひとつだけ明かりがついている。 　村の手前で立ちどまると自身の魔力の源をさぐった。川のおもてを見つめながら、うすい金色に輝く網を思い浮かべる。村のなかにくすぶるどす黒い不安に金の網がかかるよう、自分の魔力を開け放つ。 　クルトはしばらくその場にたたずんでいた。太陽の光に眼を射られそうになって、ふと我に返った。 　そして慌てて走り出した。 　ソールの故郷は村というより小さな町の趣で、彼のあとをついていったクルトがたどりついたのは屋敷と呼んでも遜色のない、黒い木の壁でかこまれた大きな平屋だった。両開きの戸の横にある鐘をソールが持ち上げたとき、反対側の引き戸がひらいた。ネッタが立ち、息をのんで声にならない声をあげる。 「ソール。早かったわね」 「早すぎた？」 「いえ。シェリーも私も一晩中眠れなかった。ちょうどよかったわ。こちらへどうぞ」 　家の中は薄暗かった。クルトの鼻は施療院で使う消毒薬と同じ匂いをかぎわけた。ネッタはクルトの灰色のローブをみつめた。 「ごめんなさい、メイヤーは治療師が苦手なの。もしかしたら気分を悪くするかもしれない」 「かまいませんよ」クルトは微笑んだ。「時々あることです」 　奥へ長くのびた廊下の片側に引き戸で仕切られた部屋が並んでいる。ネッタが引き戸のひとつをあけると、長椅子のクッションに埋もれていた女性が顔をあげた。髷に結った黒髪はやや乱れ、おちくぼんだまぶたの下に濃い隈が浮かんでいる。 「シェリー。ソールが来たわ」 　女性がはっとしたように顔をあげた。クルトはひたいから鼻筋にかけての線がソールによく似ているのを見てとった。 「お母さん」堅い声でソールがいった。「戻りました」 　ソールの母親は無言で彼をみつめ、うっすらと笑った。儚げな気配はソールに似ている。クルトはまたもそう思った。 「ずっと眠らなかったの。夜明け前に急に楽になったらしくて、やっと眠りました」 　そしてソールのうしろに立っているクルトに視線をうつした。薄灰色のローブを注視する。 「この方は？」 「治療師のクルトさん。ソールが連れてきたの」 「夫は精霊魔術があまり好きでないから――このまえやっと治療師を呼んだけれど、遅すぎるといわれたわ。夫はますます怒って手がつけられなかった。――ごめんなさい」 　ソールの母親は口早にいい、困惑したように言葉を切った。またも飛び出した弁解の言葉をクルトは微笑でうけとめる。 「気にせずにいてください。俺はソールについてきただけです」 「眠っているけれど、顔だけでも見て行って。朝のうちにライリーが顔を出すといったから……」 「ライリー？」ソールが聞き返す。 「私の夫」ネッタが小声でいった。「ソールは初めて会うわね。店はいま彼がみているの」 　その場にいない病人を気遣うかのように全員が自然に小声になっていた。ソールはうなずき「お母さんは休んでください」とささやいた。ネッタはふたつ離れた引き戸を開け、ソールとクルトを通した。 　病室に入ったとき、意識せずに――というよりも施療院での習慣から、クルトは魔力の網目を広げていた。治療師として魔力を扱う技術以外に、クルトの魔力には痛みをとる特性が備わっている。自分の魔力の網のしたに入るだけで痛みが消え、緊張がやわらぐのだ。 　寝台に横たわる男の髪は灰色で、眠っているのに顔は少しこわばっている。クルトなら触れるだけでどんな状態がわかるのだが、家族の許しなくそれはできない。だが今は波立つ感情の放射はなかった。眠りにおちていくらか安らいでいるようだ。 　ソールは寝台の横に立ち、父親を見下ろした。砂色の髪が頬にたれかかって表情を隠す。黙ったまま立ち尽くしているので、クルトは自分が何かすべきかと悩みつつ、そのまま彼のうしろに立っていた。時間がとまったようだった。どのくらいそのままでいたのか、突然引き戸のむこうに人の気配がした。小さく隙間がひらくとネッタが小声で「ライリーが来たわ」とささやき、また戸を閉める。 　それを合図にしたかのようにソールが顔をあげ、同時に寝台の父親がかすかに身じろいだ。クルトは癒しの効果がある魔力の網を広げたまま、ソールの肩を抑えて寝台をさした。眠っていた男の手が動き、頬、顎がゆるんで、眸がひらく。ソールと同じ暗色の眸だ。何度か大きくまばたきする。 　そしてソールをみた。 　驚き、困惑――そして強烈な恥の感覚と、古い怒り。 　唐突に男から解き放たれ、まっすぐソールへ向けられた感情にクルトは衝撃を受けた。思わず守るようにソールの肩を抱きたくなるのをこらえ、彼の真横に一歩出る。寝台の上で父親はだるそうに顔をゆがめ、腕をゆるくもちあげた。ソールは顔をあげて前髪をかきあげ、クルトはその口元がゆがむのをみた。言葉は何ひとつ発せられなかったのに、ソールは父親が放つ感情を正面から受けとめたように思えた。 　男はまた瞬きをした。口がひらき、喉が短く鳴る。 「おまえはいないものだ。そう伝えた……ずっと前に」 　ゆっくりと発せられた父親の言葉にソールは小さくうなずいただけだ。 「シェリーはどこだ？」 「隣にいます」 　ソールの声を男は無視した。「シェリー？　シェリー！」 　声に反応して引き戸をあけたのはネッタだった。ソールは凍ったような表情のまま一、二歩あとずさり、部屋を出ようとする。クルトはあわててソールのあとを追ったが、ひろげた魔力の網にはまだ寝台の男の感情が響き、木の葉が舞うようにクルトのなかで言葉となってあらわれる。土地の恥さらし、裏切りもの……盗っ人。 　クルトは顔をしかめた。何かが変だった。父親の感情にほのみえるソールの像は、クルトが知る人物とはあまりにもそぐわない。 　ネッタの夫ライリーは、短い茶色の髪に顎髭を生やした中肉中背の男だった。年齢ははソールより少し上で、現在はソールの父メイヤーの事業をすべて取り仕切っている。事実上の後継者で、ネッタとのあいだに娘と息子がひとりずつ。一家は広場の正面に建つ店の階上に住居をかまえている。以前はソールの家族がここに住んでいたらしい。 「ソール、お父上は何か勘違いしていないか？」 　クルトは小声でたずねた。ネッタが出してくれた遅い朝食をとったあと、サイモンを食料などの調達に向かわせ、やっとふたりきりになれたところだった。 「勘違いって？」 　ソールは空になった皿を重ねながら聞き返す。 「その――もちろん俺は何も知らないが、たとえば学院での、あの事故とか……」 「ああ、その話か」ソールはあっさりいった。「父も母もすべてを知らされていないからな。禁書に関する事柄は部外秘だ。父も母も僕と友人の過失で火が出て図書室が燃え、損害が出たと教えられただけだ」 「噂が伝わったとか、そういうことも？」 「噂？　噂は――いろいろあった……はずだ」 　ソールは遠くを見るような眼つきをする。 「話はおひれがつくものだし、王立学院の秘密主義は有名だからな。先代のカリーも、僕が学院の宝物を盗もうとしたとか、そんな話を客から聞いたといっていた。父には商業ギルドのつながりもあったから、不肖の息子が何をしでかしたか調べようとしたはずだ。正確なことを知っているとは思えないが」 　なるほど。納得がいくとはいわないまでも、盗っ人という語はそこから来たのかとクルトは思った。だがソールの事件はあくまでも事故として処理されたはずだ。 「ソール、誤解があって今の状態になったのなら、この機会にすこし話したらいいんじゃないか？」 「何を？」 「少なくともソールは何も盗んではいない」 「それは」急にソールの声が大きくなり、はっと口をつぐんだ。 「――そうか。きみには視えるんだったな」 「いや、視ようと思ってみたわけじゃ……」 　クルトはあわててつぶやいたが、ソールの口元がかすかに歪むのを見逃さなかった。 「気遣いは感謝する。でもいいんだ」 「ソール」 「あのとき父は学院に損害賠償を申し出て、断られた。一方当時の僕は施療院でまったくの役立たずだ。彼のプライドはさぞかし傷ついたことだろう。僕と父はあまり似ていないんだが、ここだけは想像がつく。僕もプライドだけは一人前だからな。起こした事件が何だろうとこれは変わらない」 「ソール……」 　クルトは言葉をつなごうとして失敗した。ソールは首をめぐらせて立ち上がり「お母さん」と呼んだ。足音が聞こえ、ふりむくとソールは何事もなかったように部屋の戸口に立つシェリーに話しかけている。 「大丈夫ですか？　休まないと……」 　だが母の両手はドレスを覆うエプロンを握りしめていた。思いつめたような視線がクルトとソールを行き交った。 「ソール、あの……クルトさんにお願いをしていい？」 　クルトが何も口にする前にソールはうなずいていた。 「父を診てほしいんでしょう？　クルト、申し訳ないが、いいかな？」 「俺は問題ない。ソールも」 　クルトは即座に答えたが、ソールはすでにシェリーを追い越している。彼女の肩越しに「僕はサイモンを手伝ってくる」という声が響き、板を踏む靴音が遠ざかる。 　シェリーが申し訳なさそうな表情でクルトをみつめた。 「ごめんなさい」 「いえ」 「ソールとはいつからお友達なの？　若いのにこんなところまで来てくれるなんて」 　ソールと俺は単なる友達じゃなくて恋人同士で、一緒に暮らしています。そう答えたいのをクルトは押しとどめる。 「俺が学生のときからです」 「あの子がひとりでなくてよかった」 　ひっそりとつぶやかれた言葉をクルトは聞き逃さなかった。 　ソールの父、メイヤーの容態は危険だった。以前呼んだ治療師が「遅すぎる」と告げたという話をクルトはメイヤーの手を握っただけで理解した。クルトにできるのは痛みをとることだけだった。 　死が近い患者は施療院でもみていた。体の痛みは心にも傷を残し、それは本人だけでなく家族にも伝わる。痛みがおさまったメイヤーは柔らかな表情になり、うとうととまどろんだ。眠る彼をみつめながら、ソールに対する誤解を解けないだろうかとクルトはしばし考えこんだ。苦痛がない状態なら耳を貸してくれるのではないだろうか？　それともこれは魔力の濫用、王国の魔術師として禁じられた事柄にあたるのだろうか？ 　そっと引き戸がひらいた。ネッタが「お茶にしましょう」とささやく。 　廊下に出ても人の気配は感じなかった。クルトにメイヤーを託したシェリーも今は休息をとっているのだろう。お茶と一緒にマフィンやハムの厚切りが出され、空腹だったクルトは遅い昼食のかわりにとありがたくつまんだが、ソールの姿はどこにもみえない。 「ソールは？」 　たずねるとネッタは肩をすくめた。 「夫が話があるといって店に呼んだの。たいした話じゃない、メイヤーの事業は彼が受け継いだから、単なる確認だと思うわ。終わったら来るでしょう」 「ソールは――メイヤーに勘当されたと聞いてますが」 「ええ、そうよ」ネッタの視線が泳ぐようにゆれた。 「私も聞いていいかしら」 「どうぞ」 「治療師として正直なところを聞かせて。彼は――メイヤーはまだ……」 　精霊魔術で命の限界を知ることは不可能だ。この力は条件によっては体内の組成を変容させられるが、命そのものは不可触である。とはいえ何もわからないかというとそうでもない。人間の内部にある魔力の根源にどのくらいの輝きが残されているか。クルトはこれを視ることはできた。 　施療院では視えても話さない。だが……クルトは小さくため息をついた。 「時間はほとんどない」 　ライリーのところからソールが戻ったとき、クルトは入れ違いでメイヤーのそばにいた。魔力で痛みを抑えるのにさほど消耗はしなかったが、ソールが先に祖父の家に戻ったと聞いて落胆したのはたしかだ。クルトはひそかに願っていたのだった。ソールと彼の父に、和解とまではいわなくとも、せめて会話くらい交わしてもらえないものかと。 　痛みが消えたせいかメイヤーは表情が戻り、声もはっきりと出るようになった。この活力が一過性のものなのをクルトは知っていたが、シェリーは嬉しそうだった。笑顔になった彼女をおいてクルトはソールのもとに――彼の祖父の家に戻った。 　扉をあけるとサイモンは長椅子で居眠りをしていて、ソールは外套を着たまま暖炉の前に座りこみ、炎をみつめていた。クルトを見上げて「おかえり」という。 「ありがとう。疲れただろう？」 　クルトはうなずいてソールのそばに座った。 「大丈夫か？」 　たずねると砂色の髪がクルトの肩をかすり、暗色の眸が細くなった。 「何が？」 「メイヤーだ。もう時間がない」 「……そうだな」 　ソールはため息をつく。 「父にとって僕はずっと前に死んだも同然だし、僕にとって父は……何なんだろうな」 「ソール、俺は」 「きみを失望させてすまない」ソールはうつむいたまま小さくつぶやいた。「僕は……だめなんだ。彼の前に出るとみじめな気持ちになる。昔ここを離れたときはいつか――と思っていたが、そのいつかはもう来ない」 「ソール」 「僕は失敗した」 　立ち上がって戸口に向かうソールをクルトはあわてて追いかけた。 「ソール、行くな」 「僕は川をみたい」 「明日にしよう。もう遅い」 「川を……みたいんだ」 　ソールは子供のようにくりかえした。クルトは肩を抱きよせて強引にふりむかせた。暗い眸がかすかにうるんでクルトのまなざしを映す。 「川はあとだ。ソール、もう寝よう」 　手をとって隣室へと引っ張るとソールはのろのろとついてきた。渋る彼の靴を脱がせ、さらに上着を脱がせようとすると、ソールは根負けしたようにクルトの手を払った。肌着になって毛布の下に潜りこむ。 「クルト」 「―――ん？」 　横になったとたん襲ってきた眠気にクルトは大あくびをした。病人に何時間もついて魔力を使っていたのだから、当然のことではある。 「悪かった」 「何が？」 「その……」 　眠気のためにクルトはソールの言葉を聞くことができなかった。恋人の背中に腕を回し、肩のくぼみに頭をのせたのを最後に意識が途切れた。 　知らせが来たのは夜半を過ぎたころだった。扉を叩いたのはネッタではなく村人のひとりだった。メイヤーは真夜中に一度目覚め、付き添っていた妻のシェリーとすこし話をしたという。最後に疲れたといって眼を閉じると、そのまま息をひきとった。