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第2話
その日は二人の結婚記念日だった。二人が初めて出会った日、その日付を入籍日にしようと二人で決めたのだ。
結婚記念日には手料理を作り、仕事は忘れ二人きりでゆっくり過ごすというのがここ数年の二人の通例だ。
できれば料理を作るところから二人でやりたかったが、今年の結婚記念日は平日金曜日。当然陽介が準備するつもりだった。
朝、修一の出勤を見送る際に、
「今日は何時頃帰れそう?」
「ん? ああ、できるだけ早く帰って来るよ」
そう言葉を交わした。急いでいたから、食べたいものがないか聞きそびれてしまった。
後でリクエストはないかメッセージを入れておこう。久しぶりに二人でゆっくりと過ごせるのだ。お喋りしながら食事をして、酒を交わして、その後は当然セックスをする。それも久しぶりだ。
ーー最後にしたのはいつだっけ。確か……三週間以上前か。
これはセックスレスなのでは? とやりきれない思いにため息が出そうになる。その最後のセックスだって、果たしてセックスと言えるのだろうか。
仕事で疲れていて、かつ睡眠不足の修一の体調を気遣いお互いのモノを扱き合っただけだ。
それはそれで気持ちよかったが、挿入の伴う行為に比べたら充足感は圧倒的に少ない。
ーー今日は久しぶりにできる! ローションは古いから買い直しておこう。ゴムは……久しぶりだし許してくれるかな。……いや、一応買っておこう。
久しぶりの触れ合いを想像すると心が踊る。発情期ではないΩは濡れないから、ローションは必須だ。コンドームなしの行為を修一は嫌がるが、陽介に寂しい思いをさせている負い目があるここ数年は許してくれることもある。
ーー早く帰れるよう昼休みのうちに買いに行って。メッセージも入れておこう。帰れる時間分かったら教えて、何か食べたいものは? と。
相変わらず忙しいようで既読マークは付かない。
勤務中、看護師に「先生、今日はご機嫌ですね」「記念日だからって分かりやすすぎますよ」とマスクで顔が隠れているにも関わらず揶揄われた。自分が夫をこの上なく愛しその結婚記念日が今日であることは、職場で時折我慢できず惚気てしまうせいでスタッフには前々からバレている。
ーーそんなに露骨に態度に出ているだろうか。目元がニヤついているのか?
信頼できる若先生、と患者に言われるイメージを崩すわけにはいかない。キリッとせねば、と両頬を叩き気合を入れる。
ーーニヤつくな。平常心で……。
あまりの高揚感に、気を抜くと真面目な表情が保てなくなる。ニヤニヤしながら診察する医者などもってのほかだ。
陽介は心を鬼にして、午後の診察に臨むのだった。
いつも通り夕方6時には診療時間を終えカルテ整理をする。今日は私達が施設を締めますから先生は早く帰って下さい、と気を利かせたスタッフに急かされ白衣から通勤着に着替えた後、クリニックを出た。明日は通常ならば診療日だが有給を取っている。
ーー修からの返信は……来てないか。既読も付いていないな。
忙しいのだろうか。修一は仕事中はあまりプライベート用のスマートフォンを見ない。だが今日くらいはこまめに見てくれてもいいじゃないか、と少し失望した。
仕事ならば仕方ないかと自分を慰める。まさか忘れてないよなと一抹の不安が頭をよぎるが、そんなはずはないと思い直す。
二週間前、朝食のときに今日が結婚記念日であると二人で確認したし、今朝だって声をかけてメッセージも入れた。今までだって修一は結婚記念日を忘れたことはないしこれからもきっとそうだ。
ーーとにかく、早く買い物して帰ろう。修が好きなチーズ入ハンバーグと、唐揚げと、マッシュポテト作って……野菜も食わせなきゃな。具沢山のミネストローネと、美味いって言ってた生ハムのサラダも作るか。作りすぎだって笑われるかな。
初めて修一に手料理を振る舞ったとき、できる男と思われたくて張り切ってあれもこれもと作った陽介に、修一は照れたように、困ったように「ありがとう。嬉しいけど、こんなに食べられないって」と笑っていた。
それでも陽介がせっかく作ってくれたのだからとおいしい、おいしいと言いながら食べきってくれた。
せっかくの初めての家デートだったのに、その後は満腹過ぎてセックスどころではなかったのが、今では二人の定番の笑い話だ。あの頃の甘い思い出が脳裏に蘇る。
これから二人で過ごす時間を想像し、舞い上がりそうになる気持ちを抑えて陽介は帰路についた。
「……遅い」
夜10時を回った。料理を作り終わった後からずっと握りしめているスマートフォンには修一からの連絡はまだこない。既読も付かない。何度か電話をかけてもコール音の後に留守番電話に繋がる。
「なんだよ、ひとこと連絡くれたっていいだろうが」
一分もあれば遅れるとか、何時に帰るとか電話なりメッセージなりで伝えられるのだ。それすらないとは。
「酷くないか……」
愛する夫だが怒りがこみ上げる。せめて今日くらいは時間を作ってくれてもいいんじゃないのか? 一年に一回のこの日くらい、仕事を調整できないのか。
ーー腹が立ってきた。先に少し飲むか。帰ってきたらたっぷり埋め合わせをしてもらうから。
せっかく夫を出迎えるのに、不機嫌な顔を見せたくない。気分落ち着けようと、二人で飲もうと思って用意してあったワインをよそにいつもの日本酒に手を伸ばす。
そして連絡一つよこさない夫に憤然とした思いを抱きながら、陽介は修一の帰宅を待った。
「ただいまー……」
帰宅した修一の、深夜ゆえ抑えた声が真っ暗な玄関に響く。
時刻は深夜3時。
「おかえり」
「おぉ……、 びっくりした。ただいま、起きてたのか」
いるなら電気くらいつけろよ、驚かせないでくれ、と軽い調子で陽介を責める。
「……遅かったね。仕事、忙しかった?」
「あー、仕事はいつもよりか早く終わったんだけどな。瀬田さんいるだろう? 新しいパートナー弁護士の。麻雀やろうってうるさくてさ。所長もノリノリだし。あの人たち弱いのに好きなんだから、勝たせるのも一苦労だっての」
付き合わされる方はつまらないよと苦笑いを浮かべて靴を脱ぎ、コートをスタンドに掛けてリビング手前の修一の自室に入っていく。陽介は黙ってその後ろ姿を見つめる。
「なかなかアガってくれないから、こっちがアガリを見逃してやるんだよ。それで流れるんだけど俺がノーテンですって言ってるのに手牌覗き込んできて」
クローゼットの前でジャケットを脱ぎネクタイやタイピン、財布など小物を仕舞っていた修一がこちらを振り向いた。
「『如月くんさぁ、ここで僕の捨てたアガリ牌見逃してるよねぇ。どういうことかな?』」
と、上司のモノマネらしき間延びした言い方でおどける。
「言い訳もできないし、そこから毎回手牌チェックされてな。『次に接待麻雀したら、減俸だからねー』だと。パワハラだろそりゃ」
再びクローゼットに向き直った修一が笑いながら話す。つまらない、と言っているがなんだかんだ楽しんでいるのだ。陽介も大学時代に嗜んだからその気持ちは分かる。
「……言う割には、楽しそうだね」
「接待抜きならな。……そうだ、今度お前も一緒にやるか? 所長が一度お前に会って見たいって言ってたし」
「……どうかな、俺が行くのは」
「無理にとは言わないよ。イケメンで医者で背が高くて家事完璧でパートナー思いの優しい旦那なんて存在するか、もしいるなら立証してみろだと」
本当にここにいるのに、なあ? と陽介に笑いかける修一に、ぐっと胸が締め付けられるような感じがした。
「だから今度お前も来いよ。麻雀じゃなくて、飯でもいいからさ」
「……そうだね」
私物を所定の場所に収め、ワイシャツとスラックスだけの姿になった修一がリビングに向かう。陽介はその後を追った。
「それにしてもこんなに遅くまでどうしたんだ。普段は寝てるのに、もしかして待っててくれた? 嬉しいけど無理するなよ」
ガチャリと、修一がリビングのドアをあける。
「あれ、飯作っててくれたのか。悪い、気づいたらスマホの電池切れてて連絡できーー」
なかった、と言い終えることなく修一は言葉を詰まらせた。
目の前にはダイニングテーブルに並べられた溢れんばかりの冷めきった料理と、口の開いたワイン。グラスは二つあり一つにはすでに注がれている。
「あ…………そうか、今日は……。ごめん、陽介ーー」
リビングの入口に立つ洋介に振り返り、血の気が引いたような顔で修一が謝罪する。
「……忘れてた?」
「それは、その………悪かった、本当に」
「いいよ、別に。……結婚記念日なんてつまんない麻雀以下の存在だもんな」
「そんなことは思ってない! そろそろだな、とは分かってたけど今日だったとは……せっかく用意してくれたのに、本当にすまない」
珍しく慌てたふためいた様子で謝罪を繰り返す修一を尻目に、ダイニングテーブルについた陽介は飲みかけのワイングラスに口をつける。ワインボトルはすでに残り僅かだった。
「もう今日じゃないけどね。……疲れてるんだろ。もう寝たら?俺はまだ飲んでるからさ」
「……俺も一緒に飲んでいいか。よければ、その……食事も」
「もう冷めてるから美味しくないよ。食べなくていいから」
「そんなことない、旨そうだよ。俺の好きなメニューばっかりでーー」
そういって向かいの席に付き、ナイフとフォークを取ろうと伸ばした修一の手を、陽介の手が乱暴に払いのけた。
「いいって言ってるだろ!」
ガチャン、と食器が壁に当たる音が響く。振り払った手がワインボトルにあたり、床に落ちる。重い音がして、溢れたワインが辺りを汚した。
「……陽介」
「一人にしてくれないか、お願いだから……片づけはやっとくから……」
一人になりたい。あんなに帰宅を待ちわびた修一の顔を見たくない。修一に顔を見られたくない。自分は今とてつもなく醜い顔をしている。怒りが収まらないしいい加減に酔っている。一人になって頭を冷やし、冷静になるべきだ。そうでなければ自分は。
「……分かった。今日は自分の部屋で寝るから、寝室は陽介が使ってくれていい。……明日、ちゃんと話し合おう」
最後に、本当にすまなかったと謝罪を付け加え修一はリビングから出ていった。
二人の住むマンションは3LDKで、リビング以外の3部屋はそれぞれ二人の私室、残りは一緒に寝る寝室に割り当てられていた。
陽介は自分の晒した醜態に思わず頭を抱える。
「……うっ……う……」
目から熱いものが垂れてくる。止められなかった。叫びそうになる声を口に手を押し当てて堪える。
こんな情けない醜態は酔っているせいだ。いい大人の男が結婚記念日を忘れられたくらいで癇癪を起こし、馬鹿みたいに拗ねて泣くなんて素面ではありえない。
ーー落ち着け、落ち着け……。
こんな感情的になって泣くのはいつぶりだろう。子供の頃にはあったが遠い昔の出来事だ。嬉しくて、感動して涙が出たなんてことは修一と知り合ってから何度かあったが、こんなふうに怒りや悲しみややりきれない思いで泣くなんてことはなかった。
深呼吸をしてなんとか落ち着く。
ーーワインが染みになる。片づけよう……。
ワインボトルをテーブルに戻し、汚れた床を拭く。
ーー料理は……いいか、捨ててしまえ。
ハンバーグは冷めたせいで白い油が浮き出ている。揚げたてだった唐揚げは冷めて固そうだ。サラダは乾燥してしなびている。とてもじゃないが温め直して食べようとは思えないしラップをかけて仕舞うのも面倒だった。
ゴミ箱のフットペダルを踏み、空いたところに皿の中身を次々とぶち込んでいく。
ーー最低だ。
一人で舞い上がって、記念日を忘れられたくらいで不貞腐れて。おまけに、食べようとしてくれた修一の手を叩いてしまった。
ーー洗い物は明日でいいや。……もう寝よう。
今は何もしたくないし考えたくない。陽介は覚束ない足取りで、二人で寝るはずだった寝室に向かった。
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