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第1話 番外編01 三日月と果実。      17,080文字

                  ***  神殿の外にある浴場施設からでてくると、あたりはすっかり暗くなっていた。空には三日月がはっきりと輝き、今日は周囲の星までよく見えている。  街から離れた丘のうえは民家や店などなく、街を見下ろす形で建つ神殿の前方には果樹園と、背後には森林が広がっていた。すんと空気を吸い込むと、土と植物の香りが混じった湿っぽい匂いが鼻につく。  この匂いのもとは植物が発する化学物質だという。化学物質は植物が自身を守るために微生物を攻撃するのに発しているものなので、毒の一種にあたる。毒といっても人間にとっては知れている量なので、体に取り込んでも害になることはない。むしろ人間にはこの匂いはリラックス効果をもたらすのだ。  匂いを楽しみながら神殿に続く石畳を歩いているうちに、イアンは湯上がりの身体がよりいっそう寛いでいくのを感じた。  今日は心身ともに疲れ果てていた。  国の政策でこの神殿への騎士団の常駐があっというまに決まったのは、皇太子の侍従ロカイによって施策のための指針が(おおむ)ねつくられていたからだ。  昨日ギアメンツとの茶席で宝とともに聞いばかりの話は、自分たちが帰ったあとすぐに行われた臨時議会で可決したという。その内容は一昔前の神殿騎士団の制度を踏襲したものではあるが、要所要所で合理的かつ効率のよいように見直しがされていた。  それをつくったのはロカイだ。彼は頭脳と洞察力が突出して秀でており、この国では彼の右に出るものがいないと云われているくらいの才物だった。  そのロカイの推薦でイアンは、神殿騎士団の団長に選ばれてしまった。  任命された騎士団長の仕事はやりがいがありそうだし、給与もぐんとあがる。イアンとしては好機到来といったところだが、――それにしてもだ。癖の強いギアメンツやバリッラエルだけでも手を焼いているというのに、これまた皇太子の侍従であるロカイにまで気に入られたのだとすると、このさきが思いやられる。 (やっかいなひとに目をつけられたものだ……)  好意を得たり、仕事にたいし正当な評価をしてもらえることは、イアンとしてもたいへんありがたい。しかし彼らはなにぶんにも王家とそれに関係する人間だ。性分上どんなに不満があっても立場のせいで平等で接することができない人間(ひと)たちと関わるのは、苛立ちが募る。いっそタロウのように自分も奔放にできるのであれば、どんなに気楽なのだろう。  昨日、宝といっしょに招かれたお茶席から帰る際に、ギアメンツに封筒にはいった書類を渡されていた。夕方、宝を部屋にある魔法陣で見送ったあと、すぐにそれに目を通して、そこに書いてあった神殿の暫定警備の案に沿った人員の候補を選出しておいた。そして今朝は各騎士団長を交えての、即席の会議だ。  前日にロカイから武官を通じて彼らにも話しは届いていたようだが、直属の上司であるパネラの機嫌の悪さといったらなかった。イアンは今回、五十路(いそじ)を超えた彼の階級を飛び越して、二十歳にも満たない若造の分際でいきなり、宮廷騎士団長や第一騎士団長と肩を並べることになったのだ。  今日イアンは五日ぶりに第三騎士団の騎士舎に出勤したのだが、クロゼットのなかに入れておいた遠征用のサーコートがずたずたに引き裂かれていた。自分以外でこのクロゼットを開けられるのは、予備の鍵を管理する団長のパネラだけだ。  伸し掛かる悪意に顔を歪めはしたが、それでも舌打ちひとつで憂鬱な気持ちを払拭させたイアンは、そのあと騎士館に移動した。そこで自分の親の歳ほどの各部隊長に囲まれて、午前中に神殿騎士団の人選について意見を擦りあわせ、そして選出した騎士のなかから同意するものを選び神殿へ移動させ終わったのが昼のことだ。そこからまた神殿でのミーティング。  さっそく警備を神殿のあちこちに配置して退勤したのちに、イアンはサーコートを損失した報告のためだけに、またいちど王宮へと戻っている。  すべてが終わって神殿に帰ってきたのは、神官たちの夕食も終わったような遅い時間だった。  イアンはついでだと、出かけるまえとは入れ替わっていた騎士たちの様子をチェックして回り、それから軽く夕食をとって、いまやっと風呂に浸かって人心地ついたところだった。  長い脚をさばきながら神殿の西の戸口をくぐったイアンは、部屋までの長い回廊で大きく溜息をつく。  ひとことぐらい毒づいてやりたいが、さすがに神聖なこの建物のなかでは(はばか)られた。それに自分はここに従事することになった騎士たちのリーダーなのだ。だれも見ていないとしても、軽率な態度をとるわけにはいかなかった。  腹立たしいパネラの顔を脳裡から払うようにして、イアンは首を振る。するとつぎに頭に浮かんだのは、この状況を生み出した諸悪の根源である幼馴染の顔だ。  ギアメンツが分厚い封筒を自分の胸にトンとぶつけるようにして差し出して来たときの、あの忌々しげなにやりと笑った顔が忘れられない。  イアンは小さく舌打ちをすると、自分に与えられた部屋を目のまえに、顔をあげた。ちょうどそのとき、部屋のドアが内側から僅かに開いた。

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