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第1話

知る人ぞ知る小洒落たバーのカウンター席に座っていると、酒と煙草とほんのり甘い匂いがして、高い天井からはやわらかな光が降りてくる。 あまりの居心地の良さに思わず長居してしまう客も多いと聞く。壁と床に備え付けられた間接照明がモダンな雰囲気を醸し出していた。 「恋はまことに影法師、いくら追っても逃げて行く」 ちょうどいいタイミングで、ロックグラスと丸い氷が触れ合って、カランと心地よい音色を奏でる。それがまた妙に芝居がかった演出に見えて、耐え切れずに吹き出してしまった。 慌てて口を塞ぐももう遅い。他の客から既に注目を集めてしまっていた。すみませんと軽く会釈し、ウイスキーコーク片手に恋愛を語る間抜けた顔の高橋を軽く小突く。 「何、急に。劇団にでも入るつもり?」 冗談のつもりで言ったのだが、それもいいかもな、と冗談とも本気ともつかない口調で返された。 もしも本当に恋が影法師で、追っても追っても逃げて行くというのなら、おれはどうすればいいのだろう。些細な疑問が引っかかる。 「恋は影法師…なんて、いかにもシェークスピアらしいよな」 「ああ、シェークスピアか。何?最近のお気に入りなの?」 「テレビでやってて。興味あったから何本かDVD借りちまってよ。面白いぜ。観るか?」 「時間があればね。でもほんと何でもすぐ影響受けちゃうよね」 高橋とは俗に言う、幼馴染というやつだ。保育園からの付き合いになる。長年にわたって染み付いた習慣や癖がそう簡単に抜けるはずもなく、惰性で続ける意味のない会話にも、二人の今の関係にも、もうすっかり慣れてしまっていた。 溶けかけた氷をカランと指で弾く。ほんと何してても様になるよな、と羨ましいくらいに整った顔を見つめた。毎日のように見ているはずなのに、この顔だけは少しも飽きる気配がない。この世界にも不思議なことはあるもんだ…と関心する。 とはいえ、おれの視線に気づいていないふりをして、黙々と酒を煽るだけのつれない態度は、全くもって気に食わないのだが。 カランカランカラン…とドアに付けられた鈴が鳴る。入店を知らせるその音につい入り口あたりに視線を投げてしまった。 「あれ。高橋と小林じゃん。お邪魔しちゃった?」 嫌という程よく知った男だ。原田とは高校からの付き合いになるが、気を遣う必要のない間柄だった。 ガサツというか、緩いというか。なんせ、原田の寛容すぎる懐の広さには頭が上がらない。おれの高橋への気持ちを知る、唯一の人物でもあった。 「マスター、ジントニックお願い」 馴れ馴れしく隣へ座る原田を目で諫め、そろそろ帰るか…と腰を上げる。 長年の付き合いともなれば、どうやら考えていることが同じらしく、高橋も勘定を早々に済ませ、帰る準備を整えていた。 「俺が来たからって早急に帰ろうとすんなよな。そこまであからさまな態度取られると、さすがのおれでも泣くぞ。ほんとおまえらっておれのこと嫌いだよな」 「勘違いしてたら気の毒だから、一応言っといてやるけど、別に嫌ってはねえよ。おまえを嫌えるほど、そう大しておまえに関心ねえからな」 「でもまあ、反りが合わないのは確かだよね」 いつものように憎まれ口を叩き合う。たわいないこの関係が好きだった。 「相変わらず二人ともおれを傷付ける天才だわ」 原田がわざとらしく目頭を押さえるので、またそれが芝居染みて見え、ついつい笑ってしまいそうになる。ぐっと笑いを堪え、高橋の影に隠れた。 すると、いきなり大きな腕に強引に引き寄せられた。突然の出来事に危うく心臓がひっくり返りそうになる。 …顔が近い。 「帰るぞ」 耳元での囁きに、ぞくりと背中に何が這う。少しの身動ぎに、赤く染まった頬を隠した。原田がやれやれ…とでも言いたげに首を振る。 端から不戦敗なのだ。惚れたら負けというけれど、おれはこいつに心底惚れている。勝てる要素はどこにもない。 幼い頃から抱いていた感情が恋愛対象としてのそれだと気付いたのは、中学に入ってからだった。その頃に初めて抱いた劣情を今も変わらずに抱いているとしたら、高橋はおれをどう思うのだろうか。 軽蔑されるかもしれない。拒絶されるかもしれない。そう思うと言い出せるはずもなく、この思いは墓場にまで持って行こうと心に決めていた。 そうすれば、昨日と変わらぬ今日が、今日と変わらぬ明日が、ずっと続くと信じていた。 「恋はまことに影法師、いくら追っても逃げて行く」 「またその台詞?気に入ってんの?」 帰り道、思い出したかのように突然始まる座興。 耳触りのいい低音が心地よく胸に響く。ああ、好きだな、と改めて思う。こいつを好きだと思うこの気持ちだけは、抑えることも、忘れることも、もうどうすることもできなくなっていた。 「こちらが逃げれば追ってきて、こちらが追えば逃げて行く」 「え…?」 「さっきの続き」 どきりとした。一瞬でも高橋の言葉のように思ってしまった自分が嫌になる。何を期待しているんだ…と自分の浅ましさに心底呆れた。 追ってきてもらえるなんて、あるはずないのに。ややこしいこと言うなよな、と心の中で悪態をつく。 ずっと追いかけてきたんだ。これからもきっと追い続けるのだろう。 一回り大きな背中が、逃げも隠れもせず、目の前に確かにいる。今はそれでいいじゃないか。それ以上を求める必要なんてどこにもない。 今ある充分すぎるほどの幸せを噛み締め、そっと空を見上げた。 「曇ってんだから星なんて見えねえよ」 高橋が足を止めて振り返る。気怠そうに待っていてくれるその姿に、何故だかホロリと涙が出そうになった。今が幸せすぎるのに、これ以上の幸せがどこにあるというのだろうか。 「帰ろう」 「うん!」 高橋の側に駆け寄ると、アスファルトに落ちた影が僅かながらに重なった。それに気付いた高橋が訝しげに目を細めたことにおれは気付かない。 寄り添って重なる二つの影が、二人の背中を追っていた。

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