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幕・6 だって、一緒に居たかった。言い訳にもならないけど

× × × 本当に用を足したのかと疑われるほど早く、御不浄から出てきた皇帝は、宰相の執務室へ向かった。 外で待つように告げ、中へ入った皇帝の顔を見るなり、宰相は嫌そうに顔を歪める。 「…またイチャついてたの?」 無論、これは室内に彼ら以外の人間がいないからこそ言える言葉だ。 宰相、リュクス・ノディエは知っている。 皇帝のそばで常に影のように控えている、奴隷傭兵ヒューゴが年経た悪魔で、二人は懇ろの仲だと。 もっと言えば。 誰にも興味を示さない皇帝、リヒト・オリエスがあの悪魔一体に執着し、縛り付け、そのことで明日にも死ぬかも知れない悪魔を生かすために精気を食わせていることまで知っていた。 リヒトは自分の頬に手袋をはめた指先で軽く触れ、どんな時でも冷酷な厳しさを崩さない表情のまま、目を細めた。 何も言わないが、沈黙こそが雄弁な答えだ。 勘弁してくれ、とリュクスは額を押さえた。 …まあ、はっきり言おう。 この二人は、こう、…空気が濃いのだ。濃密。 度数の高い酒とでもいおうか、接することで生じる快楽の数値が天井知らずで、空気感に当てられる。 正直、交わった後で執務室に来ないでほしい。毒だ。 奥さんが恋しくなってたまらない。 彼らの周囲で喧嘩をしているカップルがいても、イイ感じにあてられて仲直りしました、というパターンもかなりの確率で生じていた。 ある意味、恋の魔法と言えなくもないが、…ヒューゴが悪魔であるせいだろうか? 「ちょっとは自粛してよね? ヒューゴは存在だけで、醜聞なんだから」 「だが彼がいなければ」 リヒトは気負いなく返した。 「リヒト・オリエス皇帝は存在しなかった」 リュクスは不貞腐れた表情になる。 事実だ。 秘されているが、公式の記録に残っていた。 リヒト・オリエスは二度、地獄へ落とされ、二度生還した。 同じ悪魔の手を借りて。 リヒトが幼い時分に死んだ母は、何度も同じ話を繰り返したものだ。 あなたは私の目の前で、地獄に落とされた。 続こうとして騎士に束縛された私は半狂乱で泣き叫んだ。 だけど、その目の前で。 地獄へ続く扉が閉ざされようとした刹那。 悪魔がその身を神聖力に焼かれるのも構わず、落とされた赤子を連れ帰った。 私の、母の、目の前へ。 その悪魔は、穏やかな夜空を思わせる、濃紺の目をしていた、と。 その後、リヒトの加護の手を強めた母が亡くなり、十歳の時。 また、リヒトは地獄へ落とされた。 赤子の時と同じ、政敵の仕業だ。 その頃は簡単に悪魔に食べられるようなリヒトではなかったが、地獄は人間にとって劣悪な環境だ。 食べるものもなく、濃い瘴気に弱りながらさ迷い歩いているうちに、…リヒトは出会った。 肉の削げた腕が痛んで眠れないんだ、と睡眠不足で苦しむ悪魔と。 本人はきっと深刻だったのだろうが、なにやら態度にユーモアがあって、憎めない悪魔だった。 その態度は、強大な力ゆえの余裕もあったろうが、彼は生来、寛容なのだろう。 ただ。 その傷跡は、どうやら神聖力でできた傷のようで。 地獄の底で引きこもっているんだ、という悪魔には、できるはずもない傷だ。 神聖力を持つ人間相手にのんびり話す、平然と構えた悪魔の瞳は。 濃紺だった。 穏やかな夜空を連想させる色。 信じられない気持ちでまじまじ見上げたリヒトに、彼は言った。 「十年眠れない程度はどうってことねえけど、ちょっとこの痛みを止めて、ぐっすり眠らせてくれたら助けてやらないでもない」 地上への道を見つけるまで、それから一週間かかったが。 今、リヒトはここにいる。 道案内をした悪魔と共に。 悪魔と過ごした短い間に、リヒトは心から願ってしまったのだ。 彼にそばにいてほしい、と。 それは悪魔にとって、それこそ生きながら焼かれるに等しい拷問だと知っていながら。 願ったのは、それだけ。 もう、今後も続く、一生涯、それしか願わないから。 許してほしい、と一言、告げて、神聖力で縛った。 言い訳ではないが、ほとんどリヒトの無意識の段階で、力は動いていた。 当然、悪魔は怒り狂った。 しばらくはそばにも寄れないほどだったが、やがて彼は泣いて懇願した。 十歳の子供に、巨体の化け物が、小さくなって。 自由にしてくれ。もうお前には、近寄らないから。 「そう案じることはないよ、宰相閣下」 リヒトは静謐な声で告げる。 「僕が死んだら彼も死ぬ。あの悪魔は、僕が、どこまでも連れて行くから」 リュクスの顔に、乾いた笑みが浮かんだ。 「はあ、わかりましたよ。異常なのはあの悪魔に対してだけで、皇帝陛下は他に対しては完璧にまともですからね」 慇懃に言う幼馴染に、リヒトは鷹揚に頷いた。 「では、仕事の話を進めようか」 ―――――頼むよ、解放してくれ。 なりふり構わず泣きじゃくって懇願した彼を、情けないとは少しも思わなかった。 むしろ、何事にも全力で真剣に向かい合い、片手間な対応を取らない彼を、好ましいと思った。 そのせいで、少し愚かになるときもあるけれど。 それも込みで、いとおしいのだ。 少し間抜けで、かわいくて。純粋で。きれいな生き物。 悪魔なのに。 自由を好む彼を、縛り付けたリヒトは残酷だろう。 だが、許せなかった。 彼の目が他へ向くのが。 気紛れな優しさを、知らない誰かに向けるのが。 穏やかな声を、どこかで囁くのが。 すべては、リヒトのそばで行われなければならない。 (誰が死なせるものか) 彼を生かすためなら、いくらでもこの身を食べさせよう。 リヒトが死ねばヒューゴは死ぬ。 そして、ヒューゴが死ねば、リヒトは死ぬだろう。 この身体はもう、すっかりヒューゴに飼い慣らされていた。 ―――――そばにいてくれたら、僕を食べさせてあげる。 それが、リヒトとヒューゴの契約。 まったく、救いようのない関係なのだろうが。 知らず、リヒトは微笑んでいた。 彼はリヒトの行動を、執着か子供の独占欲と思っているだろう。 これ以上逃げ腰にさせないためには、そう思わせているほうが都合がいい。 なにせ、悪魔は理解しない。 愛、など。

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