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幕・21 うわさ話
何が分かっていないと言うのか。
分かっているとも、と力強く頷くヒューゴ。
「俺は陛下の奴隷だから、他に奉仕するのはいけないって話だろ」
こくこく何度も頷くエイダン。
なのにまだ、鳶色の瞳は落ち着かない。ヒューゴは念押しするように続けた。
「今日は仕事しないで済むようにうまく切り抜けるさ」
ひとまず宥めよう、と肩を叩こうとヒューゴはエイダンに手を伸ばす。
とたん、エイダンは兎のように跳ね起きた。
明らかに、避けられた。
この手をどうしよう、とヒューゴが悩んでいる内に、
「着替えるなら、ぼくが行った後でお願いします…っ。では、お先に!」
そのまま、自分の着替えを腕に抱え、脱兎のごとく更衣室の外へ飛び出す。引き留める間もない。
とりあえず見送り、ヒューゴは空を切った手を引き戻す。
昼、リュクスたちから指摘されることで問題点に気付いたヒューゴだが、正直なところ、そんなに大騒ぎすることだろうかと内心首をひねっているのも確かだ。
そういうことよりも、ヒューゴが悪魔だから、その他大勢の人間と関わることに、一番の問題があると思う。
奴隷のために用意された、浴場で働く、濡れてもいい薄い衣服に着替えながら、ヒューゴは状況を整理。
確かに、妙な空気ではある。
はじめは、単純に嫉妬だと思った。
ヒューゴが、上の者から分不相応に贔屓されていると感じた者たちが、嫌がらせで仕事を押し付けてきている、そんな風に。
昔はよくあったことだから、別に不思議にも思わなかった。
(けどそれにしては、確かに危険だよな)
指摘されて気付いたが、昔と違って、今のヒューゴは『陛下の奴隷』として立場が定着している。
端的に言えば―――――ヒューゴは皇帝陛下のモノなのだ。
奴隷長は、それを無断使用したことになる。
問題だ。これ以上なく。なにせ。
奴隷長の行為は、皇帝の権威に泥を投げつけたとも解釈できる。
が、ヒューゴの立場を本当に奴隷長は知らないのか、となれば。…怪しい。
知った上での行いではないのか、とヒューゴは思うのだ。なにせ、
(仕事として、配置される場所がな…)
基本的に、ヒューゴの行動範囲は、現在、皇帝の周辺である。
となれば必然的に、身分が高い者たちと顔を合わせるのが日常だ。
周囲で立ち働く者も、侍従や侍女、騎士など、即ち、皇宮の中でも貴族たちに直接仕える者たちである。没落した貴族という人物もいた。
今ヒューゴがいる浴場は、下男・下女たちが使用する場所だ。即ち。
普段、ヒューゴが顔を合わせない者たちがいるところ。彼らは、『陛下の奴隷』という存在があることを知ってはいるが、その顔までは知らない。
ちなみに、押し付けられる洗濯作業は、大量だが、一人でやれ、と言われている。
総合的に見て、奴隷長がヒューゴにしていることは、地味な嫌がらせ、という感覚が強い。
となれば、別の問題が出てくる。
(命懸けで嫌がらせなんかするもんかな?)
奴隷長の行動には、どういう理由があるのか、やはり読めない。
ヒューゴは、桶と布を手に取った。適当に香油と石鹼を選び、桶に放り込む。
ちなみにこの石鹸は、ありがちだが、数年前にヒューゴが第一号を作成、安価で一般に流通させないか、と提案したものだ。悪魔の姿の時は全く気にならなかったのだが、人間の姿でいるときは、やはり、風呂と石鹸は欠かせないという意識が強い。
これも前世の記憶のせいだ。
ちなみに、ヒューゴは悪魔として生まれる以前、つまりは前世だが、この世界の住人ではなかった。文明の進んだ異世界である。ゆえに。
十年以上前、リヒトと共に人間としての生活を始めた頃、衛生上の環境の悪さに驚いたものだ。
一から改善、施設を構築するのは困難だったろうが、幸い、この世界、ある程度の下地はできていた。
だからこそリヒトが権力に近づいていくたびに、ああならないかなこうならないかなとまとわりつきながらダメもとで訴えてみたところ。
未来の宰相の方が食いついた。
(あの時ほどリュクスの目が輝いたことってないよな)
その時のリュクスほど、しつこいものはなかった。仕事が増えると文句を言いつつ嬉しそうだったりもした。
意外な話だが。
いつも文句ばかりのあの男こそが、民の幸せに関して、もっとも関心を示し、尽力する。
それこそ、人生を賭していると言ってもいい。
(とりあえず今は、うまくやり過ごさないと)
湯気の立つ浴場に足を踏み入れたヒューゴは、周囲を見渡した。
浴場ではあるが、前世とは違って、裸の人間はいない。
皆、身体にまとわりつかない程度の、下着同様の薄布をまとっている。
感覚としては、、プールに近い。
部屋のバスタブでは裸になるのだろうが、公共の場所ではそうではなかった。
ゆえに、男湯、女湯という区切りはなく、今も男女ともに湯を使っている。
昨日までなら気楽に、お背中流しましょうか、と寄って行くところだが、今日は湯気に紛れているほうが無難だろう。と思ったのだが。
「あら、そこの」
早速声をかけられた。若い女だ。無視するわけにもいかない。…いかないが。
昼にあのような指摘を受けて、ここで流されるのはただの愚か者だ。
普通に入ってきたヒューゴは、そこでようやく魔法を使うことにする。
「…おかしいわね」
近づいて来ようとした女は、途中で足を止めた。
「奴隷がいたような気がするんだけど…はあ、まあいいわ」
ヒューゴがいる場所に目を凝らしたものの、すぐに彼女は諦め、浴槽の淵に腰掛ける。
足だけ湯につけ、身体が重い荷物のような動き。
お疲れのご様子だ。
ヒューゴが咄嗟にかけた魔法は簡単なものだった。周囲の、彼に対する認識が鈍くなるものだ。
ヒューゴに対してだけ、皆が近眼になるようなものだと思ってくれていい。
場を離れようとしたところで、先にいた女に、別の女が近付いてくる。
「今日はお疲れ様~…」
ため息交じりの台詞だ。聞きながら、思う。
本当にお疲れ様。
ヒューゴが顔を巡らせれば、皆似たような様子で、けれど男女関係なくこの場所で寛げているようなのはよかった。
「…本当にね。歩くのはいいけど、同じ場所を何往復もさせられるのはきついわ」
何があったか、いかにもくたくた、といった様子で、やってきた女が先にいた相手の隣に座った。
彼女たちを尻目に、ヒューゴは時間を潰すのにちょうどいい場所はないかと視線を巡らせる。
「あ、そう言えば、同じ場所を移動してたんだったら…見た?」
その間にも、女たちの会話は続く。声が潜められた。
それだけで何が通じたのか、相手がもう一方に顔を寄せる。
「…あれよね? マズいわよねぇ?」
まずいと言いつつ、目が輝いていた。にっと笑って、二人の声が揃う。
「隠れたつもりで丸見えの、…逢引現場」
―――――おっと?
これはまた、女性が好きそうな話である。さすが、皇宮。あらゆる場所にうわさが絶えない。
「お相手って、あの方でしょ。身分違いもいいところ」
「侍女の方は、バレたら処理されそうよね。フィオナ妃に」
―――――フィオナ?
どうやら彼女たちは、フィオナ・ハディスの宮殿の下女らしい。
そしてフィオナの宮殿の侍女が、隠れて誰かと会っていた。
(ふん?)
だからと言って、なぜフィオナが処分するのか。
彼女自身に艶聞はなく、その上恋愛に関しては枯れていると公言する女性だから、侍女が男を寝取った、寝取られた、と言うような話ではあるまい。
いや、侍女同士の女の争いなのだろうか。
「でもただの火遊びでしょう? 前は違う侍女と一緒だったって誰かが言ってたし」
「本気になったら気の毒よね。相手の方はフィオナ妃殿下の兄君だもの、いずれ国に戻るだろうし」
「身分があるから見逃されても、侍女の方はそうもいかないじゃない」
身分がある。その言葉に、ヒューゴは眉根を寄せた。
(…まさか、あいつ…)
脳裏に浮かんだのは、渡り廊下で顔を合わせた悪魔だ。
外見の特徴からして、フィオナの兄だろうと思われる人間の皮を被っていたあの悪魔が、侍女を誘惑した、…となれば。
なにやら嫌な予感がした。
(あの野郎はいつから皇宮に来てたんだ? いや今はそれより)
早急に顔見知りの警備の騎士たちと連絡を取った方がいいだろう。
ヒューゴは持ち場を離れることになるが、放置すればフィオナ・ハディスの宮殿が危険だ。
いや、既に危地の真っ只中かもしれない。
(フィオナのことだから、そう易々と暴挙を許さないだろうが)
彼女は慎重で、警戒心が強い。
ただその分、一度懐に入れたものにはとことん甘くなる傾向にあった。
ましてや今回、訪れたのは彼女の実の兄だ。フィオナは情が深い。
実の兄を、簡単には疑えないだろう。そんな人間の心を。
―――――弄ぶのが、悪魔。
ヒューゴは一度、瞑目。
自身への非難を受けた心地になりながら、ヒューゴが踵を返すなり。
「ヒューゴはいるか!」
浴室の扉が開き、騒々しく入ってきた男がいる。奴隷長だ。
タイミングが悪い。
(ちゃんと仕事やってるかの確認に来たのか?)
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