20 / 215

幕・20 ご奉仕します。

× × × 夜の皇宮を横切りながら、ヒューゴは真剣に思う。 あの頭の回る連中が、洗濯以外の仕事はさせられなかったのかと聞いてこなかったのは幸いだ。 誤魔化せた自信がない。 皇宮の中でも外部に近い場所に設置された、大衆浴場。 今では当たり前のような建物になっているが、できてまだ三年くらいだ。 その奇麗な外観を見上げ、ヒューゴは満足げに頷く。 ―――――風呂は正義だ。 バカなことを真剣に思った彼こそが、何年もこの公共設備を熱望し、ついには議会を通過させた熱血風呂バカである。 そのための上下水道施設。いや、だけではないが。 ちなみにここは、時折、平民にも開放される。ただし。 奴隷は使用できない。 ならなぜ奴隷のヒューゴがここへ来たのかというと―――――仕事だ。 これから、風呂場で寛ぐ下男・下女たちに奉仕する。 彼らは基本的には部屋のバスタブで汚れを落とすが、時にこうして浴場へ顔を出す。そこで彼らに奉仕するのは、奴隷だ。 マッサージをしたり。 身体を流したり。 大体の者にとっては、奴隷の性別がどちらだろうと関係はない。対等ではない、同じ人間でもない、まさしく道具のような存在だからだ。 時に、卑しい者たちと蔑み、特に貴族の中には、触れられることすら嫌がる者もいるが、大抵の者は便利な道具として奴隷を使うことに忌避感はない。 ヒューゴがここへ来たのは、命令されたからだ。奴隷長に。 もちろん、さすがに分かっている。 (…命令に従うふりして、仕事はしない方がいいだろうな) 「え…ヒューゴさん…っ?」 名を呼ばれ、目を向ければ。 先に更衣室にいた、よく挨拶を交わす小柄な奴隷が、ギョッとしたようにヒューゴを見て固まっていた。 金のクセ毛に、鳶色の瞳。少女のようだが、少年だ。 くるくるとよく立ち働く彼は、いつも懸命だから、見ていて気持ちがいい。 その可愛らしい顔が、ヒューゴを見るなり、真っ青になる。どうやら彼も、言われるまでもなく分かっているようだ。 ―――――ヒューゴが皇帝以外に奉仕するのは大問題だと。 「よ、エイダン。これからこっちの仕事か?」 極力ヒューゴは何食わぬ態度で挨拶した。微笑む。つられたように、エイダンも微笑んだ。 「いえ、ぼくは終わり…じゃなくてですね?」 浴場用の薄い衣服に着替えようと、ヒューゴは自分の服に手をかけた。 その手を、エイダンは両手で掴んで止める。必死の形相。 とたん、自分の手を見て、彼の顔は紙色になる。 火傷でもしたように、飛んで離れた。 「すみません! 陛下にはご内密に! 触ってません、触ってませんからっ!」 真剣に叫び、その場でエイダンは土下座する。すごい勢いで床に額をぶつけた。 ヒューゴは慌てて膝をつく。 「大丈夫だ」 できるだけ安心できるような声で告げた。 「いくら俺が悪魔でも、触ったからって、どうにもならないから」 『そういう』気分で触れてきたときだけ、ヒューゴの身体は相手に媚薬めいた作用をもたらすが、基本的に人間がヒューゴへ向ける感情というのは、負に傾いている。 恐怖、悪感情、異種族への好奇心。 無論、エイダンに至っては悪感情などないだろう。 彼にとってのヒューゴはちょっとした知り合いという立ち位置だろう。妙な雰囲気になるわけもない。 「い、え…、そういう話、ではなくて、ですね…?」 床に額を押し付けたまま、エイダンがふるふる震えている。 小さい身体を小さくして、ますます小動物そのものだ。 まばらに散っている周囲の奴隷たちが、なんだなんだと視線を向けてくる。 かわいそうだが、そろそろ顔を上げてもらうか、とヒューゴが口を開くなり。 エイダンはがばりと顔を上げた。涙目だ。 口をへの字に引き結んでいる。 命懸けの反撃に出る小動物、と言った雰囲気に、なぜか向き合うヒューゴの方が手に汗握った。 「こ、こんな場所にヒューゴさんが来られるなんて…」 エイダンの反応の理由は分からないが、とりあえず、うんうん、聞いてるから頑張れ、とヒューゴは頷く。 励まされたように、少し強い口調になって、エイダン。 「まるで、…まるでっ、ぼくらと同じ仕事するつもりって感じでいらっしゃいますけど…へ、陛下はこのこと、ご存知なんですかっ?」 「知らね」 けろっとしたヒューゴの答えに、がくり、肩を落とすエイダン。 希望の糸を断ち切られた風情。 ヒューゴは何かを間違ったらしい。だが理由が分からないから励ましようがない。 「なら、陛下のご命令とか罰とかそう言うわけでもない、と―――――…あぁ…。じゃ、どう、して…」 「奴隷長の命令なんだよ」 隠すことではない。ヒューゴは素直に答えた。 「真っ向から逆らうわけにいかないだろ」 ヒューゴは奴隷である。 いかに『陛下の奴隷』であろうとも、奴隷は奴隷だ。 上位の者には逆らえない。 それに大抵の人間は、反発するから残酷になるのであって、素直に従う者にはそうでもない。中には、例外ももちろんいるが。 (あの奴隷長は違う…真っ当な方だ) 高齢だった前任者に対して、今の奴隷長は壮年ほどの年齢だ。 年齢的にも気性は落ち着いている頃だろう。 その上彼は、神殿にも熱心に通っているし、お祈りも欠かさない。今時珍しい信仰心の篤さである。 (ああ、だから、悪魔が嫌い…とかって話か?) 「…奴隷長の…?」 膝をついたヒューゴの前で、緊張しきった正座のエイダンはきつく眉根を寄せた。 「そう言えば、今の奴隷長は外部の方ですね…」 考え深げに呟く。 「ヒューゴさんのことを、あまりご存知ではない、…のでしょうか」 「いや、正しく理解してるだろう」 人間に捕縛された悪魔など、人間の道具、奴隷以下の存在だ。 まだ大した権力のないリヒトに仕えていた頃は、ヒューゴには結構色々あった。 当時を考えれば、仕事をたくさんあてがわれる程度は可愛いものだ。 ヒューゴの答えに、エイダンは激しく首を振った。横に。 「いいえ! ヒューゴさん、今までこのような仕事はされていませんでしたよね?」 「戦闘奴隷って立場だからな。けどもう、大きな戦争終わって半年経つし」 ヒューゴの言葉はエイダンに届かない。 ヒューゴの言葉を遮り、真面目に呟くエイダン。 「これはとんでもないことです」 「ああ、もちろん、分かってるさ」 エイダンの言いたいところも分かる。ヒューゴは頷いた。 「このまま従い続けるのは、立場上マズいってな」 「分かってらっしゃるのですね…っ」 祈るように両手を組み、エイダンは涙目でヒューゴを見上げた。 ヒューゴは安心させるように微笑む。 「俺は悪魔なんだし、人間には不快だろ?」 たちまち、エイダンの表情が不安に曇った。 絶対このヒト状況よく分かっていない、と確信した風情。なぜだ。

ともだちにシェアしよう!