19 / 215
幕・19 ただ、共にいるために
悪魔はリヒトを見つめる、印象的なその目を、何やら感動したように細め、うきうきと。
―――――かわいいな。きれいだな。地獄にはもったいない。
腹の底がくすぐったくなってくるような言葉を真面目に並べ立て、一つ頷いた。
―――――地上への道を探そう。一緒に。お前は明るい日差しの中で、生きるべきだよ。
そんなお前は、きっともっときれいだろう。
見てみたい、と。
見せてくれ、と。
想像するだけで幸せそうに、悪魔は告げた。刹那。
リヒトはきっと、―――――…堕ちたのだ。
――――――これが、理由だ。リヒトの。
生きる理由。
リヒトがこの世にしがみつくのは、ヒューゴの存在があるからだ。
今だって、リヒトは命を誰かに望まれてはいない。
むしろ、死を望む相手の方が多い。
なのに。…ヒューゴは。彼だけは。
望まずリヒトに縛られながらも、リヒトの生を望んでいる。心から。
心を取り出して、見せてもらう必要もなく、ヒューゴの行動、その仕草一つで、その程度は読み取れた。理解した。
たとえば、リヒトが再び、地上へ帰還したばかりの頃。
子供だった彼は、ヒューゴに満足な精気を与えられなかった。
ゆえに『食事』の足りなかったヒューゴは、彼の悪魔の力を望むままに存分に振るうことはできず。
にもかかわらず、そんな日々の中でも。
リヒトを守るため、ヒューゴは。
彼を庇って、リヒトの目の前で、体中を串刺しにされたことだってある。
痛いと怒声を上げながらも、真っ先にリヒトの無事を確認したような、…そんな、相手だ。
ただ、この成り行きには少し、おかしなところがある。
出会った時、求められるまま、確かに、リヒトは癒しの力を使った。
ただしそれは、―――――神聖力である。
神聖力は、正しく悪魔を死に至らしめる唯一の力。
それが『癒し』であったとはいえ、受け容れられるはずがない力だった。悪魔である以上は。
…実際、後から聞いた話だが。
その時、リヒトが使った癒しの力は、余波を受けた悪魔を数体、刹那に死に至らしめていたらしい。
それを。
(ヒューゴは受け入れた。ちゃんと、癒しとして)
彼が変わり種であることは、最初から分かっていたが。知れば知るほど、妙な悪魔だった。
ゆえに、ヒューゴに対する神殿の警戒も高いのだ。
ともすると、神聖力が通じないかもしれない、変異種の悪魔として。
彼らは時に、嫌悪、もしくは畏怖を込めて、ヒューゴをこう呼ぶ。
―――――聖なる獣。
そんな存在、あるものか。
(でもそんなこと、僕には関係がない)
厳しい表情で、リヒトは私室を横切った。
先刻の、浴室での『食事』ののち、ヒューゴは解放している。奴隷棟にある自室へ戻した。
リヒトはまだ仕事が残っているから、腹が満ちたなら、今日はもう退がっていい、と。―――――本来なら。
リヒトはベッドを横目にした。
これからが、睦み合いの本番なのに。
毎日、『食事』は浴室からベッドへ移動して続く。
それが終われば、二人は抱き合って眠った。
ヒューゴはリヒトと向かい合って、寝入るときには決まって、その掌の中にリヒトの尻を鷲掴む癖がある。
ヒューゴは何一つ隠さず、堂々、リヒトの尻が好きだと公言する男だ。
眠りながら幸せそうに感触を満喫しているような様子に、止めろとも言えず、もう好きなようにさせている。
とはいえ、一晩中尻肉を揉みしだかれたリヒトの身体は、ほとんどずっと発情している状態だ。
一応眠れてはいるが、毎朝勃起したものを無意識にヒューゴの足へ擦り付ける感覚で目覚める。
リヒトにとっては、尻は撫でられただけで腰砕けになりそうな性感帯だ。
それを一晩中ねっとり揉みしだかれるのだからたまったものではない。
しかもどのタイミングでつけているのか、毎日キスマークや噛み痕がリヒトの尻に残っている。
これでよく身体が保つと思うものだが。
睡眠不足になったり、精気を吸われすぎてやせ細ったりと言った症状は、リヒトにはひとつもない。
どころか、毎日食われ続けているにもかかわらず、リヒトは健康体だった。
健康――――というだけにとどまらず、力に満ち溢れていた。
気力・体力共に充実し、調子がいい。以前より、ずっと。
そのことに、皆気付いている。
そのからくりの仕掛人はおそらく、―――――ヒューゴ以外にいない。
彼はリヒトを『食って』いるとき、何か細工を施しているのは間違いない。
…つらつらと考えているうちに。
浴室で、狂うほどの絶頂を味わったばかりなのに、また新鮮な肉体に変わったかのように、リヒトの性器が兆しかけた。
18の頃から毎日丹念に育てられ、大きくなった乳首が、服の下で、びんと張り詰める。
ズボンの中で、陰茎がむくりと起き上がった。
先端から、気の早い汁がじゅわりと滲むのを感じるなり、舐めてほしいとばかりに、腰を突きだしてしまったことに気付く。
慌てて、ぐっと堪えれば、今度は尻が淫らに蠢いた。
―――――早くヒューゴのあの、逞しいもので、身体の奥をガンガンに突いてほしい。
ヒューゴのモノを考えただけで、口中に唾液が溢れた。
尻肉をヒューゴの両手で割り開いてもらい、揉みしだかれて。
彼の賞賛を浴びながら、幾度も果てたい。…ごくり、喉が鳴る。乾いた者のように。
脚の間に手を伸ばしかけ、リヒトはかろうじで手をとめた。
きちんと服を着こんだばかりだ。また汚すわけにはいかない。
大きく息を吐きだし、苦労しながら熱を逃がした。椅子に座る。
しばらくして、無造作に、引き出しの中から小石のようなもの取り出した。
それを、リヒトは広い机の上に置く。そうして、
トン・トン・トトン。
一定の間隔を開けて、机の上を指で叩いた。一拍、間を置いて。
『…獲物は罠にかかりましたか』
落ち着いた男の声が、石から響いた。
同時に石が奥から緑の光を放ち、石の表面でそれが波紋を描くように明滅する。
リヒトは驚くこともなく、淡々。
「ああ。情報は正確だった。さすがだな」
『お褒めに預かりまして光栄です』
恐縮した態度のようで、その声には喜悦などいない。芯まで醒めている。
いやそもそも、感情などないかのような響きの声だ。
「あとはまろび出るのを待つだけだ」
『では、今夜中に始末がつきますね』
「代償を払おう」
対するリヒトの声も、どこか石像を思わせる冷たさだ。
『お気遣いなく』
そのときはじめて、相手の声が引き裂かれたかのように歪む。
『いえもし、代償が頂けるなら、できるだけながく―――――あの方に傷をつけた悪魔を苦しめてください』
「言われるまでもない」
応じたリヒトの声に、微かに熱がこもった。
『ではこれで失礼。ああそうだ…、挨拶を忘れていました』
丁寧なようで、カミソリのように鋭い声がすぅっと室内の薄明かりを切り裂くように響く。
『一秒でも早く貴方が死にますように』
氷のような声を最後に、小石の輝きが消える。同時に。
―――――バチンッ!
リヒトの周辺で、何かが弾けた。
ばちばちっと火花めいたものが闇に散り、焦げ臭いにおいが漂う。
「ふん」
リヒトは鼻を鳴らし、立ち上がった。
「毎回毎回…、呪いなど効かんといい加減悟ればいいものを」
室内を横切り、壁に立てかけてあった剣を手に取る。同時に。
―――――ノックの音。
「入れ」
「失礼致します」
顔を見せたのは、リカルドだ。
だが扉のところで立ったきり、中へ入る様子はない。
「首尾は」
「上々かと…騎士団は既に包囲網を完成しております」
「よろしい。私は少し、寄り道をしてから向かう」
―――――ヒューゴには、私室で仕事をこなしてから眠ると伝えてあった。変に素直なところがあるあの悪魔は、それを信じているだろう。
今後のリヒトの移動に、彼はしばらく注意を払わないはずだ。
室内をぐるりと見渡し、リカルドは首を傾げた。
「ヒューゴはご一緒ではないのですね」
「将軍」
リヒトはにこり、微笑んだ。
ただし、その黄金の目は笑っていない。
「…奴隷の仕事が一つだけだと思うか?」
リカルドは生真面目そうな目を瞬かせ、あ、と小さく声を漏らした。
「まさかヒューゴは、昼に言った以外、…他にも」
言いさし、途中で言葉を止める。
何とも言い難い表情になったものの、結局彼は、頭を下げた。
「それでは先に、待機しております」
「ああ、あとでな」
脇へ避けた彼の前を通り過ぎ、リヒトは廊下へ出る。
待機していた近衛騎士が四人、その周囲に従った。
迷いない皇帝の足取りを見送り、リカルドは嘆息。
彼とて、ヒューゴの存在は危ういと感じる。だが、その危うさがあるからこそ、リヒトが聡明な君主であることも、察していた。
ゆえにリカルドはヒューゴの存在を受け入れている。あの、哀れで、変わり種の悪魔を。
なによりも、
(あの方は、私の命の恩人でもあるしな…)
そしてそれは、リュクスにとっても同じだ。
リヒトもリュクスもリカルドも。
そのままであれば、惨めさ極まる非業の死を遂げていたはず。
汚名を着せられるかもしくは、欲深い者たちの意のままに、存在すらなかったことにされた。それを。
―――――なあ、リヒト。
今でも、覚えている。
リヒトに呼び掛けた、悪魔の声を。
―――――コイツを助けよう。コイツは、ここで死んでいい奴じゃないよ。
ゴミのように投げ捨てられたリカルドは、その言葉のおかげで、今、ここにいる。
リュクスにしても、似たようなものだったろう。
それでもリュクスはまだ少し、足掻いているようにみえるが。
リカルドは無言で踵を返した。
たとえあの、冷酷なリュクス・ノディエでも、ヒューゴは切り離せない。
リヒトから。オリエス帝国から。なぜなら。
リュクスが、言ったからだ。
―――――リヒト。君が皇帝になったなら。
皇帝になるなどごめんだと、後継者の盤上から早々に降りようとしたリヒトに、未来の宰相は悪企みを囁いた。
―――――君は何をしたっていい。悪魔をそばに置くのもね。文句を言うヤツがいれば。
あの童顔に、子供のように無邪気な笑みを浮かべ、唆した。
―――――全員、首を斬ろう。
だから、リヒトは皇帝を目指したのだ。そして。
その地位を、もぎ取った。
ただ、ヒューゴと共にいるために。
即ちリュクスは、リヒトを皇帝にするために、ヒューゴを餌にした。
…で、ある以上は。
外へ出たリカルドは、頭上を見上げた。
空に浮かぶのは双子月。
今宵は、満月。
月は、地上の者たちの思惑など知らぬげに、月光を存分に降らせ、草木を濡らしていた。
ともだちにシェアしよう!