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幕・23 君の悲鳴を私以外に聞かせてはいけない

誰が見ても、ヒューゴは長身で逞しい肉体を持つ戦士と答えるだろう。 だがこうして湯気と汗で薄布が張り付いた身体を見れば、よく分かる。 筋肉を鎧のごとくごつごつとまとっているわけではなく、身体のラインはしなやか。 手足や首筋など、筋の隆起が見られる部分には、ふと目を吸われるような色香がある。 それらが戦場で躍動した時、死神を前にしたような恐怖の中にも、得も言われぬ花があった。 それらを意識した様子も気付く気配もなく、どこまでも自然体のヒューゴは、ちょっと視線を横へ流す。 「ご報告が必要と考えておりませんでした」 正直に言えば、聞かれなかったから答えなかったのだ。 だがこのような場でそんな答えは許されない。とはいえ、なんとなく後ろめたい。 隠し事のつもりはなかった。 ただ、話さないで済むならそれに越したことはないと思っただけだ。 「…ではこの七日間、ここで奴隷の仕事をしていたことを認めるのか」 尋ねるリヒトの声は静かだった。 もう日数まで把握しているのなら、誤魔化すこともできないだろう。とはいえ、 (だからなんだってんだ) ヒューゴとしては、奴隷の仕事をこなしていただけだ。 「はい」 正直に答える。 見上げる先で、リヒトの目が細められた。 冷たいと感じるほど、整った顔立ちに、表情はない。 見て取るなり―――――ヒューゴの背に悪寒が走った。ようやく、悟る。 ―――――今のリヒトは危険だ。 「ヒューゴ」 逆らってはならない。 「はい」 なんでも素直に応じなければ、とヒューゴは素直に返事をした。 ただ、おそらく。 (…心構えをしなくては) なにせ―――――こういうときのリヒトは、ひどく残酷だ。 「…手を出しなさい。両手だ。違う、掌を上へ向けて。そう」 ヒューゴは、握ったままだったリヒトの手袋を自分の腿の上に置く。 そうして、水を両手で掬い上げるような形で、リヒトへ掌を見せて差し出した。 その掌の上にリヒトはそっと自分の手を置く。 ヒューゴが手袋を脱がした方の右手だ。 そうしておいて。 「君の悲鳴を私以外に聞かせてはいけないよ、ヒューゴ」 いきなり、訳の分からないことを言うなり、リヒトは。 「ぐ…っ」 ヒューゴは危うく上げかけた声を喉奥へ押し込んだ。 今、目の前で。 リヒトの右手が触れた部分から、猛烈な神聖力が放たれたからだ。 悪魔の身体を、神聖力にさらすなど、ほとんど死ねと言っているような拷問だった。 ただしリヒトは器用なもので、触れた部分にだけ、神聖力を作用させている。 (いやこんな、器用とか、そう言う問題じゃ…) 痛みで、ヒューゴは、は、は、と短く息を弾ませた。肩が大きく動く。 それを見下ろしながら、リヒト。 「でなければ私は、聞いた者の鼓膜を全部割いて回らなければならない」 聞く? 何を。 すぐには頭が回らなかったヒューゴだが、寸前の会話を思い出し、強く奥歯を食いしばった。 (…悲鳴) リヒトの言葉に、胃の腑に氷が落ちた気分を味わったのは、ヒューゴだけではなかったろう。 聞いていただろうに、近衛騎士たちは直立不動。 どこを見ているとも知れない目を、真正面に向けたまま微動だにしない。剣を持った人形のよう…だが。 彼らは、リヒトの命令一つで、どんなことでもやってしまう存在だ。さすがに空気のように思うことはできない。 その間にも、ヒューゴの肌がただれていく。 肉が焼け落ちる。 嫌な、においがした。 苦鳴を飲み込むヒューゴの喉仏が上下する。苦痛を堪える彼の全身から、汗が噴き出した。 「他の人間に触れた場所だ、奇麗に浄化しないとな」 そう言いながら、リヒトが見ているのは、苦痛に満ちたヒューゴの顔だ。 激痛に緊張しきったその身体は、気の毒なほど強張っていた。ヒューゴの顎先から、汗の雫が滴る。 最中に、リヒトは冷静に周囲へ命令。 「ヒューゴの肌を直に見た者の目は潰せ」 ここでヒューゴが口を挟めば、もっとひどいことになる。 経験から、ヒューゴはそう判断したが。 「奉仕を受けた者は、全身の皮膚を剥ぐように」 あまりの命令に、思わず前へ身を乗り出す。 「陛下…っ」 その、わずかな動きだけで、確実に。―――――リヒトの中でまた、残酷な怪物が大きくなった。 思わずヒューゴは首を振る。横に。 (違う、庇うってんじゃない、ただ、これは俺の浅はかな行動のせいだろ) それを思い知らせるために、リヒトはこういう行動に出た。ヒューゴへの罰だけでは、ヒューゴの身に沁みないと思ったから。 黄金の瞳の冷たさに、リヒトの考えをいやでも理解した、けれど。 ごくり、からからになった喉を、むりやり湿らせる。 考えろ。考えろ。考えろ。 ―――――なにをどうすれば、リヒトが満足するか。 「次の、戦勝の宴に」 とはいえ、どう頑張ったところで、思いついたのは拙いもので。 それでも、ここで黙り込む方が、一番の悪手だったから。 懇願に似た気分で、表情で、ヒューゴは小さな声で言った。 「…俺を、共に、お連れ下さいませんか…?」 視界の隅に映るヒューゴの手は、もはや骨が見えている。 痛みでまた、ヒューゴの全身が震えた、その時。 「―――――…皮を剝ぐのは撤回する。目を潰すのもだ」 「…陛下」 「だから、ヒューゴ」 呼びかけ、リヒトは。 …どこか控えめだが、本当に嬉しそうに、微笑んだ。 「宴を、共に」 それは―――――寸前に、残酷な命令を下した人間とは思えないほど、幼い笑みだった。 目にした誰もが幸せになるような。 (…あぁ、こんな風に、笑うから) ヒューゴはリヒトをどうしても、…どうしても。 半ば絶望したような心地で、ヒューゴは頷いた。 なにより彼を打ちのめしたのは。 リヒトがヒューゴにとっては、何の価値もないだろうと思うことに、思わぬほど喜んだことだ。 ヒューゴは宴に出たくない、と気持ちのまま常に即答してきたし、リヒトはそれに対して何も言わなかったが。 (出て、ほしかったのか) 正直言おう。 ヒューゴにとってそれは、岩で殴られる以上のショックだった。 ヒューゴはそれを、想像もしなかった。 気付いてもいなかった。 リヒトの気持ちに。 あんなに長く、一緒にいたのに。…そもそも。 リヒトには五人もの妻がいる。 それを押しのけて、まさか自分が、という気持ちもあった。勿論、今回だってそうだ。 伴うのは奥方の一人…になるはず。 ―――――宴を共に、とは、まさかパートナーとしてというわけではないはずだ。きっと。 「…ふむ。終わりだ」 ぐるぐる考えている間に、リヒトはヒューゴからすっと手を離した。 とたん、肩を、背を、全身を使って、ヒューゴは大きく喘ぐように息を吸う。 刹那。 その両手が、見る間に再生した。 骨に神経が、肉がまとわりつき、瞬きの内に肌に覆われ、爪が生える。 もしヒューゴが獣の姿―――――悪魔の身体だったなら、このまま自分の巣穴に飛び込んで、痛みが引くまで掌を舐めまわしているところだ。 全身を串刺しにされるような痛みに震えるヒューゴに、構わず右手を差し出すリヒト。 大きく息を継ぎながら、ヒューゴは無言でその手に、それでも丁寧に手袋をはめなおす。 「立て」 容赦ない命令。 ひかない痛みにまだ荒い息を吐きながら、ヒューゴはそれでもふらつかないように立ち上がった。 みっともない姿をさらすことだけは、幸い避けられた。 「ついて来い」 ヒューゴが後ろに従うことを疑わない態度で、リヒトが踵を返す。 命令に慣れ、先頭に立つことしか知らない支配者の背中だ。 そこにどうしても、遠い昔に見た幼子の背中を重ねてしまって。 ふ、とヒューゴは息を吐く。 背筋を伸ばして後に続いた。

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