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幕・24 1でなければ、もう0

× × × ついて来いと言ったものの、脱衣所にヒューゴを置いて、リヒトはすぐ立ち去った。 ―――――着替えたら、ヒューゴはすぐ来るように。 と言い置いて。 リヒトがどこへ行く、とも。 ヒューゴはどこへ行け、とも。 説明も命令もなかったが。 (契約者の居場所なら、分かる) というのに、先ほどはリヒトの接近に気付かなかったのだから、お笑い草だ。 だからと言って、リヒトにもプライバシーがある。ずっと監視するなど、できたとしても論外だ。 なんにせよ、今回は、リヒトの居場所を探る必要はなかった。 離れた場所にいても、突如、皇宮に発現した異常は誰の目にも明らかだったからだ。 日も落ちた夜の世界に、邪悪な咆哮が轟いた。 後宮の一角。 東側にある、宮殿、そのてっぺんに。 真っ黒の悪魔が張り付いていた。 筋肉も筋も骨格も歪な、異形の化け物が、蝙蝠に似た翼を打ち広げ、地上の人間たちを威嚇している。 窮鼠の態度ではない。 余裕綽々、優位に立つ者特有の見下す態度で、牙を剥き、嘲っている。 皇妃、フィオナ・ハディスの宮殿だ。 ヒューゴがそこにたどり着いた時、宮殿の庭には、まばらに騎士たちが点在し、警戒に当たっていた。 その中の、一部が。 「なりません、妃殿下!」 宮殿の壁に張り付こうとするフィオナを、侍女たちと共に押しとどめている。 何が起こっているのか、宮殿の奥で守られるべきフィオナの手には、戦斧。 毅然としていながら、必死の態度で、フィオナは周囲の者たちを蹴散らすような声で言った。 「退きなさい、離れなさい!」 次いで、その眼差しを、頭上へ向ける。上から覗き込んでくる悪魔を睨みつけた。 なんと、フィオナは、悪魔に立ち向かおうとしているのだ。 止める騎士や侍女の行為が正解だ。 ヒューゴが知る限り、彼女は無謀な女ではない。 情が深くとも理性的で、このような場合には騎士にいっさいを預ける方が利口だと判断するはずだ。それが。 (何が起きた) ヒューゴが眉をひそめるなり、 「私が助けなければ…返しなさい、悪魔!」 彼女の怒声に、ヒューゴは咄嗟に悪魔の、長い鉤爪がついた手を見遣った。 夜闇と距離などものともしない彼の視界が、そこに見たのは。 ―――――皇子、ディラン・オリエスの姿。 青ざめ、意識がないのか、ぐったりとして動かない。 首の後ろ、襟部分を鉤爪の先に引っかけられ、吊り下げられたような体勢にもかかわらず、ピクリともしない。 …そこで、はじめて。 ヒューゴの中で、情報がつながった。 (―――――なんで、気付かなかった) あの悪魔が神聖力の話を出した時に。 (…対象は、ディラン・オリエスだったわけか) 少し考えれば、分かったはずだ。にもかかわらず。 ヒューゴは、リヒトのことしか考えていなかった。 ディランの可能性を、想像もしなかった。要するに。 端から、ヒューゴの関心は、リヒトにしかない。1でなければ、もう0なのだ。 (こういうところが、…結局) ヒューゴは、悪魔なのだ。 いくら、人間の中に混じって、人間らしく振る舞っても。 底が、酷薄にできている。 考えてみれば、前世から、…このような傾向があったかもしれない。 だがあの頃はまだ、後悔も反省もあったのに。 ここまで理解しながら、ヒューゴには「そうか」程度の認識しかわかなかった。 …ただ。 怒りは、ある。 悪魔に対する。これは、本物だ。 幼子であるディランから、神聖力を奪うのは容易かっただろう。 ただし誰にも知られないためには、傷つけるわけにはいかない。 ましてや、精気を奪うなどもってのほかだ。 ディランはまだ子供だ―――――ただ、夢を使えば。 精神的に追い詰められた人間が、恐怖に震え、全力で逃亡する際、放つ力は。 悪魔にとって、最高のご馳走だ。 ましてやそれが神聖力持つ者から放たれたとなれば。 (ディラン殿下の様子がおかしかったのは、だから) 悪夢を見せられ続け、憔悴していた可能性が高い。 実際、彼が弱っていることは感じ取れた。 朝の、あの時間にもっと気を付けていれば、とも思うが。 (しょせん、俺は悪魔だ) ゆえに、他者から頑なに一定の距離を保とうとしてしまうのは、ヒューゴの習慣だ。 「ヒューゴ!」 騎士たちが掲げる松明の合間から、リカルドが顔を出した。 「将軍閣下」 リヒトはどこにいるのか。 探ったヒューゴは、―――――宮殿の上を睨み上げる。 そこにのしかかるのは、悪魔の巨体。 (人の身から見れば、大きい…けど悪魔全体から見れば、まだ小さい方、だな) 「陛下は…まさか」 リヒトがどこにいるかは、大体、分かった。リカルドが真剣に頷く。 「いつも通りだ」 ヒューゴはいっとき、瞑目。 リヒトはいつも、前線へ出るのを躊躇わない。君主としては、減点だ。安易に、その身を危険にさらす行い故に。 しかし過去、それによって否応なく騎士たちの士気が高まったのも事実。そして、この場合には。 (悪魔の隙を突ける) 例によって、リヒトは今、悪魔の近くにいる。 宮殿の上で、支配者のように勝ち誇る悪魔は、油断しきっているだろう。 皇帝が直接出向くとは想像もしていないに違いなかった。 ―――――間近にいるその気配を感じ取れてもいない。 この状態で、リヒトから遠慮のない一撃を受ければ―――――ただしその一撃で、確実に仕留める必要がある。 悪魔には翼があった。 空中へ逃がせば面倒なことになる。 なんにしろ、その一撃のために問題となるのは。 ディランの存在。 悪魔が逃れるにしろ、消滅するにしろ、あそこにいては、危険極まる。 おそらく、リヒトは、だから言ったのだ。ヒューゴに。 ―――――すぐ来い、と。 考えている時間はなかった。 ヒューゴの感覚の先で、リヒトが軽々宮殿の上へあがったのが分かる。 ヒューゴにはこんなにはっきり感じ取れるのに、あの悪魔は。 自身を易々と消滅させる力を持つ者が身近に現れたことに、気付いてもいない。 リヒトには、何かを待つ様子がなかった。 何を察したのか、地上のフィオナは半狂乱だ。 しかし、どこまでも負ける気配はなく、強く叫んだ。 「私の息子を、返しなさい!」 状況が、ここに至るまでに、何が起こったのか。 正体を現すよう、わざと悪魔が刺激された可能性がある。 それはおそらく、昼の会話が原因だ。 ならば、ヒューゴにも責任がある。 ヒューゴは一度、深く息を吐いた。次いで。 「行きます」

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