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幕・38 毎日かわいい

× × × 外はまだ薄暗い。夜明け前だ。ヒューゴはふと顔を上げた。 場所は皇帝の私室。その奥にある天蓋付きのベッドの上。 眠る皇帝のすぐそばで、ヒューゴは胡坐をかいている。 ベッドの周囲を覆う、分厚い布、その向こうを見通すように濃紺の目を細めた。 ばかにした態度で鼻を鳴らす。 ただしそんな様子にも、容赦なさよりも、悪戯小僧が見せるような愛嬌の方が勝る男だ。 ムッと唇を尖らせる。 (まだ諦めの悪い連中がいるんだな) 皇帝の宮殿は、幾重もの結界で守られていた。そのすべてが。 破壊されるか予期せぬ侵入者を感知した時、ヒューゴに鈴が鳴るような音を届ける。 たった今。 もっとも外側の結界が、その音を届けた。 (破壊…じゃないな。侵入者か) 無論、ほかならぬ皇帝の宮殿の結界だ。 簡単に皇帝の私室へは近づけない仕組みになっている。が、折角気付いたのだ。 うるさくなる前にヒューゴが片付けても問題あるまい。 動こうとして、寸前。 習慣の動きで、目がリヒトに向いた。…よく寝ている。 今回の交わりは、いくらリヒトでも少々こたえたようだ。 それでもヒューゴには、こうして無防備な寝顔を見ているだけでも兆しそうになる程度には余裕がある。 が、悪魔の体力に人間をつきあわせるわけにはいかない。 昨夜の行為の後。 奴隷のベッドへそのまま寝かせるわけにもいかず、リヒトの身を清めて、ヒューゴはこちらへ運び込んだ。 いつも感心するほど整ったリヒトの面立ちを、まじまじ見つめ、ヒューゴはうむと満足げに頷く。 昨日は可愛かった。今日も可愛い。明日もきっと、可愛いだろう。 リヒトが眠っている間、いつもならヒューゴもその隣で寝入っている。 だが今日は、落ち着かない気分のまま、ベッドに腰かけていた。 理由なら自覚している。昨夜、神聖力の鎖が解かれ、本性の竜体となったからだろう。 視線が刺激になったか、ベッドについたヒューゴの手に、リヒトが顔を摺り寄せてくる。 …幼子のように無防備だ。とたん。 悪魔の本能がむくりと頭をもたげる。 拍子に、すぅとヒューゴの濃紺の瞳から温度が抜けた。 良くない考えが、冷たい一陣の風のように脳裏をよぎる。 (もう、殺そうか) ―――――数刻前、待ち望んだ自由がすぐ手の先にあったせいだろうか。 一瞬で、気持ちがぐっとそちらへ傾いた。 リヒトさえいなければいいのだ。 彼さえ消えれば、その瞬間に、ヒューゴは自由だ。 契約破棄のペナルティはある。が、その程度はヒューゴなら耐え切れる。 す、とごく自然にヒューゴの手がリヒトの首に伸びた。 簡単だ。 これをねじ切ってしまえば。 もしくは、割れた果実のようにぱっくり一文字に傷を刻めば。 …ああ、それとも、先刻、ヤり殺してしまえばよかったのだろうか。 ならばこれから、もう一度この身体を、最後まで味わって―――――…。 思いさした時。 ふと、一つの思考が、ひらっと降った。 ―――――そしたらもう二度と、リヒトに会えなくなるんだな。 その思い付きは、一枚の花弁のような、ちっぽけな考え。なのに。 刹那、それはヒューゴの胸の奥へ思わぬほど深く刺さって。 致命傷を負った感覚に、湧き上がったのは、化け物じみた孤独と虚無。 たちまち、腹の底が冷えた。 瞬間、怯えて、必死で逃げ出すように思考が一転する。 だめだ。 リヒトは手ずから助けた命だ。 過去の自分の行為を無駄に、する、なんて。 ヒューゴは火傷でもしたような動きで、リヒトから手を離した。 言い訳じみた気持ちが悪魔の本能に懸命に蓋をする。 そうだ。言い訳だ。これは。 それでヒューゴは、自分の本音にすら、顔を背ける。本音、が何か…なんて。 ―――――リヒトと一緒にいたい。 分かっている。 知っている。 自分の気持ちからは逃げられやしないことを。 もちろん、縛られることは、本当につらいしかなしい。けれど同時に。 ―――――嬉しかった。 人間には疎まれ嫌われる悪魔のヒューゴを、縛り付けるほど必要としてくれることが。 それでも。 リヒトは人間で。 ヒューゴは悪魔だ。 種族が違えば、寿命も違う。 あっという間に大人になったように。 リヒトはあっという間に、死んでしまうだろう。 彼の寿命が尽きるときは、いつとも知れない。 その時を恐れながら待つより。いっそ。 ―――――自分の手で殺した方が、まだ心への負荷は少ないのではないか。 そう、思うから。 殺したいのも、本音だった。矛盾している。 …矛盾している、すべて。 こらえ性がない。 …幼稚なのだ、悪魔は。 それでも我慢、する理由は。 思いさした瞬間。 ―――――やめなさい。 冷酷な女の声が、頭の中でこだまを返す。 びくり、ヒューゴの肩が震えた。 毒ででもあるかのように、リヒトから距離を取る。 ベッドを揺らさないよう、床に降りた。 ベッドの周囲にかかった布をかき分け、這うように外へ出る。 そのままヒューゴは、逃げるように、壁へ後退。 ―――――わたしには資格がないわ。そうでしょう? 最終的に、部屋の隅で壁へ背を押し付け、ヒューゴは口元をおさえた。 ベッドの方へ向いたままの身体が震える。 冷や汗が噴き出した。 ―――――■■する資格も、■■される資格も。 子供に言い聞かせるようでありながら、呪縛のような、これは。 あの女の声だ。 …日向美咲。 ヒューゴの前世。

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