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幕・39 縺れきった矛盾

陰気で、嫉妬深い女だった。そのくせ、プライドが高くて、誰かを頼ることもできず、最後は一人で死んだ。 それなりに優しく愛情もあったが、それらの言動はすべて裏目に出た。 愛情から放たれた言葉も、態度に原因でもあったか、相手を突き放すように響いたらしい。 周囲の評価は、冷たい女。 ただ、心の中ではいつも泣いていた女。 ―――――どうしてわたしは他人を傷つけてしまうんだろう。 厳しい態度の裏側で、幼子のように泣きじゃくっていた。 それでも、平和な時代に普通に生きて、普通に死んだ。 …いや。 ―――――普通の死、だったろうか? 彼女の死の瞬間を思い出そうとするなり、いつも目の前が真っ暗になる。 頭蓋骨がひしゃげるような感覚。 眼球が飛び出すかのような圧迫感。 背に、腹に、胸に、連続する鈍痛。 肋骨が折れ、手足があらぬ方向へ曲がり、―――――…冷たい嘲笑を聞いた気がする。 気付けば、頬に何かが伝う感覚。 手をやれば、ぼたぼたと涙が伝い落ちていた。 ヒューゴは泣いていた。 次第に、息すらろくに吸えなくなる。 苦しい。 (怖い。怖い。怖い) 大丈夫だ、今のヒューゴは悪魔。簡単には死なない。 簡単には殺されない。 なのになんだろう、この、―――――…恐怖は。 叫び出してしまいそうだった。 これ以上、部屋の中にはいられないと、足掻く心地で転移する。 気付けば、朝陽をふんだんに浴びる、屋根の上にいた。 いつの間にか、日の出の時間だったようだ。 身体を縮こまらせながら、太陽が昇る方へ強張った顔を向けた。 いつも、ヒューゴは一人になりたいとき、ここに来る。 ヒューヒューと喉が鳴った。 心音が乱れ、気管が狭まり、目の前が暗くなる。 (畜生が) 悲鳴を上げないように、自身の拳を噛んだ。 (違う。この恐怖は俺のものじゃない。俺は怖くなかった。親に食い殺されそうになった時だって) 自分を保て。 言い聞かせながら、奥歯を食いしばる。 その上で、ヒューゴは自分で自分の頭を殴った。 痛みに、少し冷静さが戻ってくる。 その思考の隙間に、また、女の声が響いた。 ―――――やさしくしたい。 そのために、強くなければならない。 そのためには―――――■■は不要。 すすり泣くような、声だ。 強く焦がれる何かを、それでも掴みに行く勇気がなくて、力なく諦めたような。 臆病な、意地っ張り。 ヒューゴは、肩で大きく息をつく。だんだんと、理由の見えない惑乱が消えていく。 その中で。 ―――――でも。 女は、どこか、疲れ果てた声で続けた。 ―――――もう二度と、生まれたくない、生きたくなんてない。 はっ、とヒューゴは息だけで笑う。 だったら、願いはかなったじゃないか。 (お前は強くなった。その上悪魔として誕生した魂に、来世はない) 彼女は、悪魔としての今の生すら望んでいなかったのだろうが。 叩きつけるように心の中で叫んだ時には、もう、日向美咲の声は遠くなっていた。 ヒューゴは、涙で濡れた頬を拭う。 大きく息を吐きながら、立ち上がった。気分が悪い。 もやついた胸元を、片手で強く掴む。 それで嫌な気分を握り潰してやろうとばかりに。 「願いはかなったろうに…チッ」 ヒューゴは舌打ち。やりきれない顔で空を仰ぎ、独り言ちる。 「泣くなよ、もう」 あの女は、泣きながら死んだのだ。 もう終わったことは、上書きできない。 ヒューゴは誰かの―――――哀しい泣き声は嫌いなのに。もうどうやっても、助けてやれない。 それでも、この、とうの昔にいなくなったあの女は。 その凝り固まった、生への呪いで、いつかヒューゴを殺すだろう。 ヒューゴは強い。 強くなった。 他の誰かが彼を殺そうと思っても、それは難しい話だろう。 だからヒューゴを殺すとしたら、彼の内側に潜む彼女の怨嗟しかない。 悪魔は、自身を殺す可能性のあるものを、当然のこととして、先に仕留めようと動く。 これもまた悪魔の本能だった。 ゆえに、ヒューゴを知る者には想像もできないことだろうが。 ヒューゴは、自身で自身を殺すかもしれないという、縺れきった矛盾を抱えた悪魔でもあった。 理解して、いるのに。 どうしてか、急き立てられるような心地で、思う。 (いつか俺は、真っ向から対峙するんだろう) 彼女の記憶と。 ヒューゴは逃げられまい。 おそらく、彼女の化け物めいた孤独は。 ヒューゴを殺す前に、リヒトに牙を剥くだろうから。 だったら、―――――立ち向かう以外の道はない。 ヒューゴは頭を一度振って、強く拳を握り、不敵に呟いた。 「いいさ、なんだろうと、かかってこいってんだ」 世界中がリヒトの敵だったあの頃から。 もう決めているのだ。 必要とされる限り、リヒトはヒューゴが守ると。 …今となっては。 ヒューゴの力など、リヒトは必要としていないだろうが。 思うなり、また、彼の耳に、鈴の音が届く。 まずは、目の前の刺客たちの始末が優先だった。ヒューゴは大きく伸びをする。その時にはいつもと変わらない表情で。 「さて、お仕事お仕事」 軽快な言葉を残し、ヒューゴは屋根の上から姿を消した。

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