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幕・40 ヒュウガ・ミサキ

× × × ―――――決めた、俺の名前はヒューゴな。とりあえず、名前が必要ならそう呼べ。 リヒトとの契約を受け入れると決めたヒューゴの切り替えは早かった。 明るい顔で、ヒューゴはそんなことを告げる。 (ああ、これは、昔の記憶だな) リヒトは冷静に考えた。 静かな気分で、目の前で笑うヒューゴを見つめる。 昔から、ヒューゴを見つめて思うことは、決まっていた。 好きだ。格好いい。見るたび、感動する。 それこそ、リヒトに魔法をかけたのではないか。 いや、ヒューゴに魔法がかかっているから、ここまで格好いいのだろうか。 夢でも見ることができるなんて最高だ。 出会ってからこれまで、リヒトがヒューゴに飽きたということは一度だってない。 見るのも話すのも触れるのも。 ―――――え、ヒューゴっていうのが誰の名前かって? 最初から人間の姿だったかのような、表情豊かな悪魔は、リヒトの問いかけに、きょとんと首を傾げた。 格好いいのだから、それだけでもう十分なのに、なぜ、こう、ふしぎと可愛いところがあるのだろうか、この男は。 抱きしめたい。 と思ったら、記憶の中の小さなリヒトはぎゅっと、大人の姿を取った彼の足にひっついていた。 ヒューゴは嬉しそうに笑った。 ああ、しかしここから先は、聞きたくない。 聞いたのはリヒトだ。分かっている。答えが返るのは当たり前。それでも。 耳を塞ぎたい。 ―――――いや、ヒューゴって名前の誰かがいたってわけじゃないぞ。大体、悪魔に名前はない。 ヒューゴの言い方からして、そのように感じたから、リヒトはそう聞いたのだが。 ヒューゴは違うと言う。 それなら、今、即席で考えた名前なのか、とこの時のリヒトは尋ねたはずだ。 聞きたくないのに、会話は続く。 ―――――即席っつーか…まあなんだ、知り合いの、女の名前を参考にして作った。 女。 この会話を思い出すたび、リヒトは腹の底がもやもやする感覚に嫌な心地になる。 子供の頃は、それでもまだよかった。 気分が悪くなるだけで、理由に気付かずにいたから。 なにより。 悪魔に名前はないと言ったのは、ヒューゴだ。ならばその女は、…人間、ではないだろうか。 ―――――きれいな女なのかって? まっさか! 感情表現が乏しいリヒトが不貞腐れたことにも気づかず、ヒューゴは笑い飛ばした。 ―――――陰気で、日陰の草みたいに元気のない、嫉妬深くてどうしようもない女だよ。 言いながら、心底嫌そうな顔になる。なのに。 ―――――名前は、ヒュウガ・ミサキ。日に向かって美しく咲くって意味の名だ。…名前負けだよなあ。 そう、呟いた時だけ。 懐かしそうな、かなしそうな顔になった。 すぐ、分かった。 その女が、ヒューゴにとっての特別だと。 俯いたリヒトがなかなか顔を上げないのに、ようやく契約者がへそを曲げたことに気付いたヒューゴが慌ててご機嫌を取ってくる。 覗き込んでくる濃紺の瞳の美しさに、リヒトが見惚れた隙を突いて。 ヒューゴは、ひょいとリヒトを抱き上げた。 飄然と歩き始めたヒューゴにしがみつきながら、リヒトは決意する。 その女のところへは、ヒューゴを絶対に帰さない。 ―――――けど、たとえそのヒトがヒューゴの特別だとしてもさ。 その女の話をリュクスに零した時、彼は首を横に振った。 ―――――ヒューゴは悪魔でしょ。誰も愛さない。だって、愛は、…。 言いさし、リュクスは言葉を途中で止める。 言いにくそうに、上目遣いにリヒトを見上げた。 リヒトは黄金の目を細める。 …そうとも、愛は。 恐怖によって悪魔を縊り殺す。 かつて、リュクスがいつもの調子で、ヒューゴに尋ねたことがある。 ―――――悪魔の弱点ってなんなの? ―――――悪魔を殺すモノのことを訊いているなら、世間に流布している通りだ。 ヒューゴはけろりと答えた。 あまりに容易く返された言葉に、逆にリュクスは胡乱そうな顔になる。 それに、愛、など。 実際的な力のない、簡単に踏み躙られる、弱いものという印象が強い。 ―――――愛? 本当に? でも、そんなものがどうやって悪魔を殺すの。 その時ばかりは、ヒューゴの表情から陽気さが消えた。 表情の消えたヒューゴの眼差しというのは、本当に、怖い。 一瞬見ていたものが怯んだことに、彼が気付いたかどうか。 ―――――その言葉を口にするな。聴くだけで鳥肌が立つ。 警告というには穏やかな態度だったが、周囲に釘をさすには十分な態度だった。 ―――――悪魔の、それに対する恐怖心は、自身を殺すに足るモノなんだよ。 ―――――恐怖? なんで、そんな、…恐怖なんか。 人間にとって、それは恐れるようなものではない。 どうやって恐れると言うのか、その気持ちの方が分からなかった。 ―――――俺の推測だけど。 すぐ、飄々とした表情に戻ったヒューゴが、言葉を選ぶように台詞を紡いだ。 ―――――悪魔が悪魔として誕生した理由が、ソレにあるんだと思う。 ―――――恐怖が、悪魔を生むって? …斬新な解釈だね。 自身を殺すものだから恐れるのではなく、愛を拒絶し、恐れた魂が、悪魔になる、とヒューゴは言ったわけだ。 リュクスは肩を竦めた。 ―――――悪魔の弱点を、そんな簡単に教えちゃっていいの? ―――――ばーっか、教えるも何も、世間の常識だろ、そんなもの。それに、 ヒューゴはからりと笑って告げた。 ―――――悪魔を必要とする人間がいるかよ。

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