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幕・41 呼んだ?

―――――悪魔を必要とする人間がいるかよ。 単純に、当たり前の天気の話でもしているかのように、そう言ったヒューゴに。 心臓をえぐられたような心地に、ヒュッと鋭くリヒトは息を吸った。拍子に。 目を瞠る。 その視界一杯に広がったのは、ベッドの天蓋。 「…あ…」 ドッ、ドッ、と深く強く、怯えたように心臓が鼓動するのを感じながら、リヒトは大きく息を吸いこんだ。 ―――――ここは、皇帝の寝室。 朝だ。 (夢…) どっと冷や汗をかきながら、リヒトは冷静に状況を思い返す。 昨夜は、ヒューゴの部屋のベッドで行為に及んだはず。 いつここへ戻ってきたのか。 運んだのはヒューゴ以外にはいないだろうが。 早朝の空気の中、リヒトは気怠げに起き上がる。部屋の中はしんとして、誰もいない。 反射でヒューゴを探す視線を周囲に向けるが、姿はなかった。つい、舌打ち。 ―――――また妙な仕事でも押し付けられているのだろうか。 …いいや、大丈夫だ。 あんな、お仕置きをしたのだ。もう、繰り返しはしないだろう。 奇麗に清められ、パジャマを身に着けている自分を見下ろし、リヒトは嘆息。 窓へ目を向け、囁くように呼ぶ。 「…愛している」 「呼んだか」 ほぼ間髪入れず、背中に体温を感じた。 背後から抱きしめられる。 一瞬、本当に心臓が止まるかと―――――…死ぬかと思うほどリヒトは驚いた。 呼んでいない。 だが、呼んだ。 ヒューゴは正しい。正しくなくていい時に限って。 「呼んだ? 僕が?」 驚きすぎたせいか、リヒトの声は冷酷なほど冷えていた。 「なんだ、違ったか?」 特にリヒトの態度を気にした様子もなく、ヒューゴはからりと笑う。図太い悪魔だ。 「名前呼ばれた気がしたんだけど」 つい、リヒトは唇をへの字に結んだ。 ヒューゴの体温。ヒューゴの匂い。…ヒューゴの、声。 それだけで、身体の奥が疼く。乳首がじんとしこった。 反射的に、リヒトの唇から熱い息がこぼれる。 「…呼んだ」 不貞腐れた声に、ヒューゴは弾むように言った。 「だろ? おはよう」 何が楽しいのか、ヒューゴの声は明るい。 それだけで満たされる。幸福だ。抱き返したい。だが、それはできない。 ―――――愛している。愛している。愛している。 いくら心の中で繰り返しても、愛は。 リヒトが愛する者の命を奪う。 それでも、愛している。禁じられた分、気持ちは肥大する一方だ。 思うたび殺して、殺し続けて。 毎日死んで、毎日蘇って。 もう胸の一部が凍り付いたようになってしまっているのに。 「…おはよう」 挨拶を返せば、上機嫌に後ろから頬擦りされた。 「リヒトは可愛いなー。俺がいないと着替えもできないんだもんな。だから呼んだんだろ」 ものすごく勘に触る台詞に、それでも、引き剥がすことは、もったいなくてできない自分にリヒトは呆れる。 「その程度で誰が呼ぶか」 厳しい声で、リヒト。 ヒューゴの能天気さに腹が立った。 「じゃ、なんで呼んだんだよ」 ヒューゴが唇を尖らせる気配。リヒトは低く唸るように言った。 「頭を使え」 「え、使ったからこそ、着替え要員が必要だと思ったんだけど」 ハッとリヒトが鼻で笑えば、ヒューゴはむくれてしまう。 「ちぇ。じゃあ何の用事?」 聞きながら、ヒューゴは後ろからリヒトの頬へキス。 次いで、元気よくベッドから降りた。 「自分で考えろ」 そのキスひとつで苛立ちは静まったが、リヒトは素っ気なく応じる。 「むぅ」 ヒューゴはむくれたが、それ以上は食い下がらなかった。 「それより、ヒューゴ」 寝台の周囲を覆っていた厚い布を開いていくヒューゴを見ながらリヒトは尋ねる。 「どこへ行っていた」 「久しぶりに刺客が来てたからさ。片付けといた」 丁度いい朝の運動、とばかりにヒューゴは伸びをしながら部屋を横切り、今度は、窓のカーテンを開ける。 朝の光の中でベッドの上のリヒトを振り返った。 この、どういうわけか、嬉しくてたまらないと全身で伝えてくる笑顔は、昔から変わらない。 眩しい。 ヒューゴはつい、目を細めた。 …本当に。 その姿は、世界一、格好良くて。 けれど何を伝えることもできず、リヒトは喉を詰まらせた。 だからせめて逃げられないように、束縛する。その程度は、許してほしい。 母が亡くなって、世界中がリヒトの敵だった頃からこんな笑顔で側にいた、ヒューゴは。 何度も周囲から、酷いことを言われた。 ―――――奴隷として、ひどい扱いを受けた。 悪魔と知れ渡ってからは、役立たずの悪魔と呼ばれて、奴隷以下の扱いもされた。 …種族が違う化け物ならば何でもしていいだろう、それが、ヒューゴを酷く扱った相手の言い分だ。 無論、十分に力をつけたリヒトは、その全員に、然るべき処分を与えた。 かつて、ヒューゴを守れないリヒトが力のなさに悔しくて泣いた時、ヒューゴの言うことは、いつもきまっていた。 ―――――こんなの、痛くもかゆくもない。俺は悪魔だから、頑丈にできてる。 壊せるものなら壊してみろ、といつも果敢に笑って。 ヒューゴが冷酷な暴力に折れたことは一度もない。 もっとも。 ヒューゴに、一番ひどいことをしているのは、リヒトだろう。 その事実から視線を逸らすべく、リヒトは話題を変えた。 「片付けた…だがヒューゴのことだから、殺してはいないのだろう」 リヒトが言えば、ヒューゴは視線を横へ流して頭を掻いた。 「リュクスに言われてるからな。殺したら情報取れないだろって。だから牢に放り込んでる」 言い訳のようにヒューゴが言うのは、いつものことだ。 戦場以外でヒューゴは一度も、誰かを殺したりはしなかった。 命令があったとき以外は。 その態度はまるで、命を尊んでいるようだ。悪魔なのに。 「そうそう。鉢合わせた騎士が何人かいたんだけど、そいつらは殺せって主張だったんだ。宥めるのに苦労した。苦情があがってきたら、情報優先だったってことで話つけといて」 どうやら少し、小競り合いがあったようだ。 「分かった」 聞き取りはリカルドの部下に任せれば問題ないだろう。 窓際で、控えるように立っているヒューゴを見遣り、ふと眉をひそめてリヒトは言った。 「何をしている」 「ん?」 不思議そうに首を傾げたヒューゴに、リヒトは堂々と命じる。 「着替えさせろ」 「なんなのっ?」

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