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幕・43 御使い
見れば、確かにエミリアは平然と先を進んでいた。
悠然として見えるが、いつもの彼女を知る者が見れば明らかに気が急いている。
ユリウスたちは全く違う何かを感じているに違いない。それも仕方なかった。
エミリアは人間で。
ユリウスは御使いだ。
…そして、サイファは。
ユリウスはもう一度、サイファを見遣る。
一見、何事もなさそうにしているが、堪えているのではないか。
人間のエミリアはともかく、彼はユリウスと同じものを感じ取っているはずだ。案じられるが、ここで落ち着いて問答する時間などない。
大きく息を吸って、ユリウスもエミリアに続いた。
謁見の間に一歩踏み込むなり。
静謐で冷たい、霊妙な光輝が降り注いだ。一瞬、ユリウスの息が詰まる。
すぐ、理解した。
これが、オリエス帝国皇帝、そのひとの、力。
彼は謁見の間、奥の席で、ただ黙って座っている。それだけ…それだけで。
感じる視線すら、重い。
これほど濃密な神聖力は、御使いたちの間でもかつて感じたことがなかった。…そのくせ。
(獣の、におい、が)
濃密な神聖力の端々に、獣が牙を立てたかのような気配が滲んでいる。しかもそれは、
(自ら望んで…深い部分にまで噛みつかせたような)
歓喜しながら、神聖力が、自身を冒涜する牙を受け入れているような背徳的な雰囲気があった。
両立しないものが両立している。
その様子は、恐ろしいような違和感をユリウスに生じさせた。
御使いであるからより一層、眩暈がするような異質な感覚だ。にもかかわらず、神聖力が圧倒的すぎて、それにさえ耐え切れず、顔もあげられない。
謁見の間に敷かれた絨毯を、しずしずと進んでいたエミリアが、不意に、その中途、崩れ落ちるかのように膝をついた。
御使いほどでないにしろ、人間にも、この感覚は耐え切れまい。
むしろ、そこまで歩けただけでも褒められるべきだろう。
岩にでも圧し潰されたかのようにその場に平伏する聖女。
とはいえ、一筋の屈辱もない。
望んで敗北を受け入れ、負けることに歓喜するかのような態度だ。
この世で最大の光輝を浴びる機会に、エミリアは喜悦にうち震えながら持ちうる最高の敬意をもって口上を述べた。
「…オリエス帝国の太陽に、ご挨拶申し上げます」
続いて、ユリウスとサイファもその場に膝をつく。優美に、迅速に。
彼らは頭を垂れながら揃って口を開いた。
「「オリエス帝国の太陽に、ご挨拶申し上げます」」
ユリウスにとっては、その一言にすら、最大の力を要する。
あまりの畏怖に、背を向けてこの場から逃げ出してしまいたい衝動を、必死で殺した。
サイファに至っては。
(――――いくら、本人の望みとはいえ、連れてくるのではなかった)
一面において、これほどの神聖力は、彼にとって毒に等しい。
だが、ユリウスには、サイファを横目で伺う余裕すら残っていない。
その、状態で。
「汝らに光の加護があらんことを」
どこか一点、氷のような冷ややかさを残した声が、玉座から降ってきた。刹那。
完全にユリウスの身体はその場に縫い止められる。
たちまちのうちに、彼の身体の奥底から沸き上がったもの。それは。
―――――至福。
気付くなり、愕然となる。
ユリウスの心臓が激しく脈打ち始めた。
(これは…あぁ…、これは…っ)
息が止まるかと思う衝撃に、ユリウスは翠玉の目を見開く。
おそらく、顔から血の気が引いていただろう。
隠しようもなく。
――――――――――恐ろしいことに気付いたからだ。
その事実に、気を抜けば、震えだしそうだった。
その間にも、皇帝リヒト・オリエスの言葉は続く。
「面を上げよ」
(いや、気のせいかもしれない。あり得ない、あってはならない…確認、しなければ)
ユリウスは奥歯を食いしばった。大きく息を吸い、細く長く吐きだす。
本能でひれ伏そうとする肉体に意識して力を入れながら、頭を持ち上げた。
―――――遠い玉座に座す、そのひとは。
黄金の目をしていた。
真っ先に印象に残るほど、引力を持った瞳だ。
オリエス皇室の血筋たる証。髪は漆黒。肌は白皙で、若々しい。端正な面立ち。
老獪な策略家の印象もある皇帝だ、もっと老けたイメージがあったのだが、予想外の若さに一瞬呆気にとられた。
ただしそれは、未熟さにはつながらない。
気高く、洗練された雰囲気は、帝国の主と呼ばれるに相応しい思慮深さを感じさせる。
とはいえ。
それらすべての思考を脇へ寄せる衝撃に、ユリウスは束の間、表情を取り繕うのを忘れる。
(…これは)
間違いない。この皇帝は、明らかに―――――。
思いさし、慌ててユリウスは表情を消した。
皇帝に見とがめられたかと、ひやりとしたが。
「聖女エミリア。巡礼の旅、ご苦労だった」
皇帝の視線は、聖女の上にあった。
「神殿の者として、当然の務めでございます、陛下」
鈴が鳴るような声で、エミリアが応じる。
弾む少女の声に合わせるでもなく、皇帝は淡々と頷いた。
「これからも民の心の安らぎに貢献してくれ。各地の様子はどうだったか?」
「笑顔が増えたように感じます。子供たちの様子も健やかで、―――――すべては陛下のご威光の賜物でしょう」
会話が続くうちに、ふと、皇帝の黄金の目が、聖女のもう一人の連れ―――――サイファへ向いた。
彼の表情からは何を考えているかは読めない。ただ。
不意に、皇帝は話題を転じた。
「ところで、今日の貴女の従者は御使いと考えていたのだが」
言うなり、黄金の目がユリウスを一瞥した。
完全に、見抜いた目だ。
神殿側は、御使いについては、何も告げていない。
ただ、聖女が従者を二人つれて挨拶に伺うと皇帝の都合を打診しただけだ。
楽園の御使いが訪れると推測したのは皇帝側で、御使いが誰かを見抜いたのは皇帝である。
御使い。
背に翼持つ、楽園の種族。
とうの昔に世界から姿を消した神に、未だ仕え、神が遺した世界の理を守護する存在。
彼らは本来、人間の都合の配慮する必要などない。
にもかかわらず、今回、ユリウスがこのような回りくどい手段を取らなくてはならない理由は一つ。
ここが、オリエス皇宮内だからだ。
他に類を見ないほど強力で緻密な結界に守られたこの場所は、ほぼ異世界と言ってもいいほど特異な環境下にある。
正式な手順を踏まなければ、敷地内へ一歩踏みいることすら難しい。その上。
どうやら結界は、皇帝が玉座に座るとき、より以上に完璧に作用するようだ。
(魔塔の住人が見れば、この結界は機密の塊で垂涎の的というが…確かに魔法使いが見れば、大はしゃぎだろうな)
そのためか、真っ当な手段であっても、魔塔の者は基本的に皇宮への出入りの許可が下りにくい。
神殿の者も同じだが。
「欺くつもりはございませんでした」
聖女の返事は、淡々としたもの。
皇帝の反応は、予想通りだった。むしろ、彼らが気付かない方がおかしい。
少しだけ予想と違ったのは。
皇帝は状況を受け流し、知っていて気付かないふりをするだろうと神殿側の誰もが考えていたこと。
ただし、神殿側が御使いの同席を告げなかったのは、故意だ。
ゆえに聖女は真っ先に、―――――言い訳をした。
「本日は、実際、わたしの挨拶のみのつもりでありましたゆえ」
しかし、彼女の言葉途中、
「―――――聖女エミリア」
静かだが、刃の切っ先じみた皇帝の声が割って入った。
「今、私はあなたに発言を許した覚えはない」
空気は穏やかなまま、増した重圧に、
「…ぁ、」
エミリアは、か細い呟きをこぼす。蒼白になった。
折れそうな小柄な体を縮こまらせ、再度平伏。
「お、お許しを!」
―――――確かに。
先ほど、エミリアは、皇帝の言葉を途中で遮った。故意でないとはいえ、不敬だ。
神殿のやりように、彼女にはどうやら後ろめたさがあるようだ。
それゆえの対応の間違いに、皇帝はそれ以上言及しなかった。
許しも、与えなかったが。
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