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幕・46 ソラ

× × × 太陽が真上に差し掛かる時刻。 ヒューゴは、騎士の訓練場近くの湖で、ぼんやりと一人、膝を抱えてしゃがみ込んでいる。 ボーっとしているようで、そこはかとなく、しょんぼりとした雰囲気が漂っていた。 日頃、元気いっぱい駆け回っている犬が、耳と尻尾を垂らして周りの様子を窺いながらもお利口にお座りしている風情。 そこは皇宮の敷地内でも、滅多に人が来ない場所だ。 要するに、人気のない隅っこ。 皇宮では今まさに、皇帝の謁見時刻である。 その間、ヒューゴはここでおとなしくしていないといけない。 もちろん、その理由はヒューゴだって理解している。 神殿の人間が来るからだ。 数日前。多分御使いも一緒に来るよ、と議題の口火を切ったのはリュクス。 彼の話が進むにつれ、周囲の視線が気忙しくちらちらとヒューゴに向けられる。 そのとき、室内にいたのは。 子犬のように可愛らしい容姿の宰相閣下。 彼の部下たち。 及び将軍の代わりに同席した副将軍と数名の騎士団長。 そして、皇帝リヒト。 皆若いが、海千山千の、要するに、煮ても焼いても食えない男たちである。 そんな彼らが。 気付かないふりすらできかねる態度で、ヒューゴにはらはらとした視線を向けていた。その目にあるのは、恐怖でも突き放す冷酷さでもなく、…気遣い。 珍しい光景だ。つまりは。 …それだけ目に見えて、ヒューゴがしょんぼりしているということ。 妙な空気に満ちた会議中、表面上、リュクスがいつも通りの口調で淡々と一つの議題を締めくくった。 「だから彼らを刺激しないように、ヒューゴにはいつの通り遠くで待機しててほしいんだ」 こういう時、ヒューゴは子供のように素直な男である。 気の抜けない相手が一人でもいれば感情などおくびにもださない。しかし、この場は気心の知れた相手ばかりだった。 元気のない様子で、極力表情を消したヒューゴがこくりと頷くのに、 「…言っとくけど、コレいじめじゃないからねっ?」 空気に耐えかねたようにリュクスが声を張り、ヒューゴを真正面から見た。 きゅっと唇をへの字に引き結び、分かっている、と頷くヒューゴ。 「ん」 声にも態度にも張りがない。 場に居合わせた何人かが、何も見ていない聴いていないと言う態度で目を逸らした。 リュクスにしても、気安い人物ばかり揃っているからこその発言だ。そうでなければもっと冷たく事務的にこの議題は終了していただろう。 「だったらそんなしょんぼりした顔しない! 毎回毎回、ぼくがワルモノみたいじゃん…」 やりにくそうに、リュクスはぶつぶつ言う。 「分かってる」 元気がないなりに、頑張って、ヒューゴ。本音では。 ―――――家の中にいたいのに、外に追い出されちゃうの? なんでどうしてと訴える子犬に似た心境である。でも我慢。 「分かってるならさー…その、しょんぼり感をなんとか…ああぁ、ほらそこ、リヒト、いえ、皇帝陛下? 怖い顔こっちに向けないでくれますかねぇ、仕方ない話って、皆で決めてるルールでしょ」 そう、神殿関連の人間が来れば、そして御使いも同席するようなら、ヒューゴは皇宮の隅っこに身を潜め、出てこないこと。 これは、昔に決めた彼らのルールである。 なにせヒューゴは悪魔なのだから。 ―――――そんなわけで、ヒューゴは今、ここにいる。 (そりゃ、相手は神殿なんだから、オリエスの皇帝陛下に問題が起こるとは思わない。問題が起こるのは、悪魔が同席した場合だ) つまりは、ヒューゴに問題がある。だから神殿の人間が来るときは、リヒトのそばにいることを諦めた。理性では、納得もしている。 でもかなしい。寂しい。そして、心配は心配だ。 とはいえ。皇宮の巨大な結界内である以上、誰もヒューゴの目からは逃れられない。 それでも。 変に見張っていたら御使いにバレそうな気がして、それもできないから、逆にヒューゴは落ち着けない。 (座りが悪いっつーか…) わずかの間でもリヒトから完全に感覚を離すのは、リヒトが、やり過ぎた神殿に粛清を行った後、久しくなかったことゆえに、糸が切れたたこみたいな感覚で、そわそわする。 (なんてことだ。なにも、することがない。じゃあ寝ようかな。でも心配) ヒューゴの思考が、二転三転を繰り返した。忙しない。表情の変化もめまぐるしい。 (いや大丈夫大丈夫、リヒトは強いし、騎士たちもすんごいんだから…) 落ち着かない心地のまま、なんとなく湖の水を覗き込むと、 「…」 迷子じみた、泣きそうな顔が映り込み、ますます気が滅入る。 肩を落とし、拗ねた子供の声で呟いた。 「あー早く謁見時間終わらないかなー」 そのとき頭上を、訓練場から流れる雄々しい声が風に乗って駆け抜ける。とたん、閃いた。 (久しぶりに、ああいう場所で混ざって鍛錬とか、いいんじゃないの) 他人に混ざって身体を動かせば、気もまぎれる。 よっしゃとばかりに明るい顔で立ち上がるなり。 『―――――お父さん』 不意に、涼やかな呼び声が耳に届いた。 自然と、ヒューゴは動きを止める。顔を上げた。湖を見遣る。とたん、濃紺の目に映ったのは。 ―――――ザァアアアァァ…ッ 湖の上。人の高さにまで持ち上がった水柱。 それがみるみる、ヒトの姿を象って―――――。 現れ出でたのは。 『お久しぶりです』 長い髪をアップにし、鮮やかなドレスを身にまとった、大人びた美女。 その姿すべてが水でできているとは思えないほど、血肉をまとった感に現実味があった。 青銀の髪に、紺碧の瞳。 月のように豊麗な美貌、そして、圧倒的な上品さ。 見るなり。 ヒューゴの精悍な顔立ちに、満面の笑みが弾けた。 「久しぶりだな、ソラ。俺の娘」 いかにも大切に、その名を呼び、ヒューゴは彼女と向き合う。 ソラと呼ばれた女は、嬉しそうにそっと微笑んだ。

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