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幕・45 漆黒の翼

「さて」 ユリウスの戸惑いを面白がる態度で、王侯貴族然とした面立ちに、サイファは珍しく薄い笑みを浮かべる。 「直接聞こうではないか。会えたなら」 どこか、挑むように言って―――――不意に、サイファは真顔で目を上げた。 「ああ、だめだ、そろそろ―――――ユリウス」 急いた呼びかけに、どうした、といちいち尋ねるまでもない。 ぞわり、ユリウスの全身が悪寒に泡立った。 ―――――頭上に広がる天全体が巨大な目玉となって、ユリウスを見ている。 そんな、心地に。 恐ろしいような焦燥に腹の底を焼かれ、刹那。 ―――――パンッ。 泡が弾けたように、切り取った空間が元に戻った。 いや、ユリウスが、脱兎の勢いで、術を解いたわけだが…、解かなければ、どうなっていたことか。 どん、どん、と太鼓でも叩くような強さと大きさで、ユリウスの心臓が鼓動する。 (なんだ?) おそらく、あれが―――――魔竜。 オリエスの皇帝を守護する存在。 (見られている、『目』の感覚ですらあれなら、本体はいかほど) 見られている感覚すら、生々しく、一歩間違えれば即座にユリウスの命は吹き飛んでいたに違いない。 サイファも、同じ恐怖にさらされたはずだ。…にもかかわらず。 横目にしたサイファの横顔は、どこまでも毅然としていた。 彼は声も震わさず、皇帝に向かって言葉を続ける。 「かつての、御使いと悪魔の大戦をご存知でしょうか?」 周囲の騎士たちは、さすがに教育が行き届いている。 目を見交わすこともなく静かに控えているが、戸惑った気配は伝わった。 彼らにとって、それは神話だからだ。 皇帝は何の反応も示さない。構わずサイファは言った。 「その折、私は地獄で捕らえられました。そして、十年、―――――十年の間」 それが長いのか短いのか。 屈辱と恐怖の記憶は、遠く、―――――だが、受けた傷は、消えることはない。 「私は悪魔たちに嬲られ続けました」 生々しい絶望が、サイファの穏やかな声の奥底に黒くにじんだ。 ただ、死を待つ日々だった、とユリウスはかつてサイファから聞いたことがある。 経験がない以上、迂闊な発言はできず、ユリウスは黙って聞くことしかできなかった。 …その、贖罪のつもりがあったのかもしれない。 サイファが、オリエスの皇宮へ同道することを許したのは。 サイファも気付いていたはずだ。ユリウスが彼に抱いた後ろめたさに。 そして、サイファは遠慮なく、そこへつけ込んだ。 「そんな中、どういう気紛れか」 終わることのない悪魔たちの饗宴。だが御使いの性質上、自死もできない。 命が終わる様子もない、ひたすら耐える日々の重みが、声から伝わったのか。 周囲の沈黙が重くなる。 「私を楽園へ投げ返した悪魔がいたのです。そしてようやっと、私は故郷に帰れました。ところが」 安堵する間もなく、サイファは次の絶望の中に投げ込まれた。 「地獄から無事解放された私を、他の御使いは悪魔の手先と罵り、疑い、」 …当時、そうなるのは必然と言えたかもしれない。なにせ。 地獄に捕らえられ、楽園に戻った御使いは一人もいなかったのだ。 そんな中、―――――サイファ一人が。 大変だったな、大丈夫か、とほんの少しの労りでいい、それすら、サイファには与えられなかった。 彼に与えられたのは、棘だらけの言葉と絶対の拒絶。 「―――――楽園から追放しました。結果」 跪いていたサイファは、ゆらり、立ち上がる。 控えていた騎士たちが、警戒に緊張を走らせた。その中心で。 ―――――サイファは、翼を開いた。 御使いの翼は通常、純白である。白、以外にはない。しかし、サイファの翼は。 「―――――漆黒…」 謁見の間にいた誰かが、呟いた。視線が集中する中心で、サイファは。 ひとつも臆さず、静かに皇帝を見上げた。 その眼差しは、敗者のそれではない。 王者のように堂々と、そして、…高貴だった。 「私は、堕天したのです」 (…拷問だ) かつてそれを、見て見ぬふりをしたユリウスは一度強く目を閉じる。 サイファはそれを責めたりはしない。彼に味方をすれば、ユリウスも危なかった。 だがユリウスはそれゆえに。 ―――――サイファの願いを強く跳ねのけることはできない。 この地上に生きる人間ならば、幼い頃に聞いたことがあるはずだ。 悪魔と通じ、楽園から追放された御使いの話を。 いわばサイファは、人間にとって、生きた伝説。 しかも薄暗く凄惨な内容の物語の主役―――――正義を踏みにじる裏切り者だ。それが。 堕天した御使い。この世で、たった一つの存在。 彼以前にも、以降にも、堕天したものはいない。 …だが、真実は。 楽園に住み御使いたちの、…狭量さが起こした過ちとも言える。 サイファは清廉で、今もそれはほぼ変わらないのに、ほとんどの御使いたちはそれを認めようとしない。裏切り者と呼ぶ。 本当の裏切り者は、楽園で暮らす御使いたちだという事実から目を背けて。そして。 何一つ変わらないようで、堕天してから、サイファは何かが変わってしまった。 容姿もその一つだ。 昔のサイファは、銀髪に、空色の瞳をしていた。肌も白く、雪のようで。今や。 褐色の肌に、黒髪、銅色の瞳だ。一夜のうちに色が転じた、とサイファから聞いたことがある。 ユリウスの視界の隅で、エミリアの小さな背が震える。 堕天した者と共にあり、この場へ連れてきたことへの嫌悪と後悔のためだろうか。 それを感じたのだろう、サイファは言葉を付け加える。 「私のことを神殿は知らず、聖女もまた、今が初耳のはず。隣にいる友人を脅して私はこの場に参りました」 堂々とした姿に、全員が意識を奪われていた。 瞬く間に、サイファは場の主導権を握ったのだ。 ユリウスは内心舌を巻いたが、 (皇帝がどう出るか) ―――――人間ならば、堕天した御使いを好意的にみられるわけがない。ところが。 「手間暇かけて私に会って、何を望む」 最初以上に、サイファに興味を持った様子もなく、若い皇帝は冷淡に応じた。 驚き騒ぎ、追い立てられるよりましだが、こうまで落ち着き払っているのも不気味だ。 最近の人間は皆こうなのかともユリウスは思ったが、周囲の騎士たちの反応からして、そういうわけでもないようだ。 だが、騎士たちの反応も、妙に二分されている。 単純に、漆黒の翼に戸惑ったが特に反発なく受け入れている組と、見るなり、嫌悪をあらわにした組とに。 前者は半年前まで続いた戦に参戦した側で、後者は居残り組だったことを、ユリウスは知る由もない。 全ての者の注視の中。 その問いを待ちわびていた、と言った態度で、サイファは一言、告げる。 「悪魔」 皆が、固唾をのんで見守る中、サイファが口にしたその一言に。 不意に、皇帝の黄金の色に熱が宿った。いや、初めて色付いた、と言う方が正確かもしれない。 それまでは単に美しい宝石だったモノに、命が宿ったような、急激な変化。 その一言で、皇帝はすべてを察したようだ。 いずれにせよ。 今日、神殿の人間と共に御使いが訪れる、と皇帝側が予測した理由も、その悪魔にあることは最初からはっきりしていた話だ。 ―――――先日、皇宮を中心に生じた魔力の波動。 死者すら叩き起こすかのような強大な存在感。 それを、無邪気と言えるほどたやすく解き放ったのは。 楽園において、おそらくは悪魔の中でも上位に位置する者と推測された。しかし、正体は知れなかった。たた。 消去法の結果、出てきた答えはひとつ。 魔竜。 情報はひとつもオリエス皇宮からもれなかったが、地獄の情報を得ることができれば、その答えには簡単に至る。 悪魔の内、『混沌』や『灼熱』をはじめ、上位に位置する悪魔は地獄で健在であり、その存在を誇示していた。 そして、特に隠し事が必要とも思っていない大勢の悪魔たちは、平気で地獄の情報を漏らした。曰く。 ―――――どうやら、魔竜は不在らしい。 地獄の底にあると言われる魔竜の結界が不動であることから、確かめることまでは誰もできないが、魔竜の守護を受けた一族が結界から外へ出ず、不気味な沈黙を続けていることも何やら疑わしい。 一説ではその死すら囁かれているようだが。 サイファは改めて、言葉を紡いだ。 「陛下が縛った悪魔が、私が知る…私を地獄から助けた悪魔と同じか、確かめたく、参りました」 真っ直ぐなサイファの言葉に、皇帝が目を細めた。表情に浮かんだのは、明らかに。 ―――――不興。 正直なところ、ユリウスは面食らった。 サイファにしてもそうだろう。今の台詞の何がいけなかったのか。 単純に、確かめたい、と言っただけだ。 もし人間が誰かに「あなたの知り合いが私の知り合いかどうか確かめたいのですが」と言ったところで、それの何が相手の気に障ると言うのか。 ただしもちろん、ユリウスもサイファも表情に出すことはしない。 正直に驚きを顔に出したのは、エミリアだ。ただ、彼女の驚きは。 皇帝の反応に対するものか。サイファの言葉に対するものか。どちらかは分からない。 すぐ、皇帝の顔から表情が消える。 サイファの目的など、どうでもいい、と、目が言っていた。 いっきに、霜が降りたようになった空気の中、皇帝は静かに告げた。 「客人はもうお帰りのようだ。案内を」 唐突な宣言に、呆気にとられたのは、神殿側の三人ばかりではない。騎士たちもだ。 皇帝は、会わせるつもりがない、どころか、話をこれ以上続ける気はないと言ったわけだ。 それは、びっくりするほど狭量な返事だった。 皆が反応しかねている間に、皇帝が席を立つ。遅れて、騎士たちが反応した。 「本日の謁見は、ここまで」 壁際に控えていた騎士たちが、びしりと姿勢を整える。 「帝国の主、皇帝陛下に、敬礼!」 止める間もなく、あっという間に、皇帝は謁見の間の奥へ消えた。 とたん。 ―――――いっきに、重圧が消える。期せずして、安堵のため息がそこここで重なった。 すぐさま、謁見の間の巨大な扉が開かれる。 そこから入ってきたのは、先ほど案内を勤めた侍従だ。彼が近付いてくるのを尻目に、 「…ユリウスさま」 よろり、立ち上がったエミリアが声をかけてくるのに手を貸しながら、ユリウスは謝罪した。 「申し訳ありません。結果として、エミリアさまも騙す形になりました」 ここで、命があるだけでも僥倖、そんな心地に、ユリウスはサイファを睨んだ。彼は素知らぬ振りで翼を仕舞い込む。 「反省しろ」 「君たちには責が及ばないようにしたさ。この上で、無事帰してくれるとは。皇帝陛下は寛大だな」 「分かった。まったく、反省していないんだな」 二人のやり取りに、エミリアははかなげに微笑んだ。 「すべては神の御心のままに。それよりも」 外套を被りなおすサイファに目を向け、恐々、エミリアは囁く。 「場合によっては」 儚げな容姿の中、瞠った大きな目にサイファを映し、エミリアは純朴な態度で告げた。 「お力になれるかもしれません」 彼女を見下ろしたユリウスは目を細める。 清らかな聖女の態度の裏で。 ―――――煮えたぎるような憎悪を感じたからだ。 「もし、お力になれたなら」 まるで無害に、エミリアは善良そのものの微笑みを浮かべた。 「あの悪魔を、帝国から追い出してくださいますか」

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