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幕・54 ふたりきりなら意味はある

室内へ進んだ二人の背後で扉が閉まった。 部屋の奥へ進むリヒト。 ヒューゴは踵を返し、定位置として、扉横の壁に背を預ける。 自室奥の机へ向かいながら、リヒトは振り向いた。 ヒューゴの顔を確認し、少し考え込む顔になる。ヒューゴが嘘をついていないことは、すぐ分かったのだろう。 「…では、いかにヒューゴとて」 疑問符だらけの視線をリヒトに向けるヒューゴに、リヒトはどこか安心した様子で念を押した。 「御使いを気の毒に思って助けるなどと言う真似はしないな?」 またなんだか、言葉のニュアンスが変わった気がする。 『いかにヒューゴとて』という言い方も気になるが、『気の毒に思って』というところも引っかかった。…そこから、連鎖的に。 ―――――あんなんひでぇだろ、いくら御使い相手でも、やっちゃだめだ。 遠い昔、自分が思ったことが、こだまのように、意識の中へ響き返ってきた。 同時に、ぶわりと記憶が蘇る。 暗い地獄の底。 散らされた純白の羽。 千切れかかった翼。 拷問のような凌辱を受ける―――――…。 「…ぁ」 ヒューゴは小さく声をこぼした。 たちまち、リヒトの眼差しから、温度が抜ける。 「助けたって意識はねえけど」 リヒトの顔から表情が消えたのを真正面に見ながらも、ヒューゴは正直に答えた。 「俺がやったのは、捕らわれた御使いを一人、楽園へ投げ返した、それだけだ。そういうことなら、あった。三千年くらい前…だったかな」 あまりに古い記憶過ぎて、蘇った光景はすぐ朧になる。 「けどなんでそんな、昔の、突拍子もないこと…」 言いさしたヒューゴは黙り込んだ。 今回、神殿の者―――――聖女と共に、御使いがやってきたはず。 その御使いが、…何か、三千年も昔のことを言及したとしか思えない。 そして、どういうわけか。 ソレがリヒトの逆鱗に触れた、ようだが。 ヒューゴは眉をひそめた。 「御使いに何を言われたんだ?」 それとも。 (あの時の御使いが現れた、とか?) 思う端から、いやまさか、と否定。 そうなれば、相手はわざわざヒューゴに会いに来たということにならないだろうか? だとしたら、ますますわからない。 悪魔に何の用があるのだろう。 この強固な結界内を訪れてまで、昔一瞬縁のあった悪魔に会おうとする理由など想像もつかない。 「ヒューゴが知る必要はない」 実際、ヒューゴとしても、興味はない。 もう、半ば死体のようだったあの時の御使いが生きていると知れたなら嬉しいかもしれないが―――――。 ヒューゴは少し待ったが、不貞腐れたようなリヒトは、それ以上語ろうとしない。 なら、今はそれにこだわっているより。 「それより、リヒト」 ヒューゴは首に巻き付いた神聖力の鎖を指さした。 褐色の肌の上、それは繊細で妖しいひかりを放っている。 「俺はお前を一人ぼっちにしたいのかっ?」 憤然と訴えた。 とはいえ、ヒューゴにとって自明の理であるその言葉は、他の者にとっては、にわかには理解しがたいことだった。 証拠に、不機嫌そうだったリヒトは、しばし考え、 「…なんだと?」 異国の言葉でも聞いたかのように、難しい顔になる。理解不能と態度で告げ、 「何を言いたい」 先ほどよりもわかりやすく、その表情に困惑が滲んだ。 「なぜ僕が、ヒューゴを一人にすると思う」 一を聞いて十を知るタイプのリヒトに通じなかったことで、ヒューゴは自身の言葉が足りないことに、すぐ気づく。 どう説明すべきかと悩みながら、 「これだよ、これ」 見える者には見える、見えない者には見えない、神聖力の鎖をさらに見せつけるように大股に執務机付近のリヒトへ近づき、ヒューゴは言った。 「この間、いったん、全部外したろ?」 「解いたな、確かに」 「それで、また巻き直しやがったろ?」 神聖力を巻き付けたのは無自覚で、外すことすらできなかった昔ならともかく、今のリヒトは、外すことを意図的にできるだろうし、巻くことも意図的だろう。 果たして、リヒトは素直に答えた。 「そうだな、できるだけ、厳重にぐるぐる巻きにした」 厳重にぐるぐる巻き…ヒューゴは荷物だろうか。 だいたい、それ、娘には猥褻物みたいに言われたぞ。違う、そこではなくて。 言葉を選びながら、ヒューゴは言う。 「コレ、あれからちょっと、性質が変わったみたいなんだよ」 「…ほぅ?」 リヒトは揶揄する態度で、黄金の目を細めた。 縛り付けるような禁欲的な空気をまとっているくせに、そういう仕草には滴るような色気がある。 媚びはない。 男性的な、支配者の誘惑だ。 女たちは、こういうところに参ってしまうのだろう。特にあの聖女など、イチコロだ。 幸か不幸か、皇后や皇妃たちとの間には、政治と言う重い壁が立ちはだかり、互いに分厚い仮面が邪魔をして、男と女と言う立場で彼女たちと皇帝が向き合う機会はないのだが。 それはともかく。 表情の一つも見逃さないように、濃紺の瞳でリヒトを真っ直ぐ見つめ、ヒューゴは告げる。 「単純に束縛してんじゃなくって―――――封印しにかかってるぞ」 リヒトは目を瞬かせた。本気で意表を突かれた風情。 ヒューゴは顔をしかめた。 ―――――本当に幼かった、昔ならいざ知らず。 ヒューゴを縛する神聖力の鎖、それが有する力の意味合いが変わったことに、しかけた張本人であるリヒトが自覚していないとは思えない…のだが。 (この様子だと…まだ自分自身の心ってものが、まだ完全に把握できていないってことか?) 力を操れるようになったとしても、それを突き動かす原動力である心が不確かであったなら、起こる結果もまた、ギャンブルのようにならざるを得ない。 つまりは、ヒューゴは相変わらず明日命を握り潰されていたとしても、不思議はない状態と言うことだ。 なに、リヒトと一緒にいる間、ずっとそうだった。 今更驚きはしないが。 内心、涙目になりながら、やけっぱちで自分自身を褒めた。 (俺の忍耐力に乾杯!) ひとまずリヒトへ、噛んで含めるように、ヒューゴ。 「封印が何か、分かるか?」 ヒューゴは、立ったままだったリヒトの胸の中心に、指先を押し当てる。 「異空間に、対象物を閉じ込めるってことだ」 ヒューゴにとっては死ぬより悪い。 束縛の最たるもの。 「リ ヒ ト は」 ヒューゴは、リヒトの胸の中央を指先でぐっと押しやった。たいした力は込めていない。 が、リヒトはわずかに後退した。 「俺を、一人ぼっちにするつもりか?」 ヒューゴとしては、今以上に自由がなくなるのはごめんだ。 ゆえに、リヒトが意図的に行った細工なら、彼との関係を見直さなければならないと思ったわけだが。 リヒトの表情に、一瞬、叱られる幼子の面影が過る。 反射でヒューゴが怯んだ、その時。 「…一人ぼっち、か。そこへは封印した本人も、行けないのか?」 「封印ってのは、そんな生易しいものじゃないんだよ」 何者かが出入り自由なら、それは封印とは呼ばない。 「封印を、お前、鳥籠みたいなものだと思ってるなら、とんでもない勘違いだからな。中を覗き込む隙間なんかないんだ。みっちり埋まってるんだよみっちり」 「それは―――――…、すまない」 リヒトは素直に謝罪した。珍しく、反省したようだ。 「そんなつもりはなかった」 「もう少し考えてから神聖力を使ってくれ」 「そうだな、ふたりきりでないなら、意味はない」 「…そう、だな?」 ふとヒューゴの脳裏に疑問符が浮かんだ。

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