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幕・58 悪魔殺しの密約
× × ×
オリエス帝国――――――皇后グロリア。
彼女は、どのような女性かと聞けば、誰もがまずその容姿を讃える。
眩いばかりの黄金の髪に、煌めき、燃え上がるような碧眼。
肌は白く、きめ細やかで、二児の母とはとても思えないほど若々しい。
大輪の薔薇のように華やかな女。
だが、一歩間違えれば、強烈な生命力は業火のようにも人目に映る。それも、彼女の場合は、自分もろとも相手を燃やし尽くす炎だ。
一言で、苛烈。
その日、彼女は聖女と向き合っていた。
場所は、後宮内における自身の宮殿。
聖女は、皇后のような女を前にすれば、ますますはかなげに見える。にもかかわらず。
押し負けた印象は、受けない。一国の皇后と、聖女は対等に向き合っていた。
彼女たちの間には、花の装飾を施された愛らしく小さなテーブル。
ただ、そんな可憐な装飾も、二人の間に漂う、白人を交えるような緊迫感を打ち消すには力不足だった。
室内には先ほどから、沈黙が続いている。
もう会話が終わったのではないかと思わせる程度には、長い。だがどちらにも席を立つ様子はなかった。
果たして。
長い沈黙を経て、聖女は伏せていた眼を、そっと上げる。
「…完全に、魔力を封じることができる時間は、長くて三十分ほどです」
彼女の、凪いだ海のような碧眼に映るのは、この国の最高位に就く華やかな女。
「あら」
聖女エミリアの、柔和だが一本強い芯の通った眼差しを受けたグロリアは、紅で彩られた唇を吊り上げた。
友好的で優雅な微笑。だが冷たく感じるのは、感情が読めないせいだ。
笑っているのに、笑っていない。
笑顔の仮面を被っている、そんな印象。
「聖女とはいえ、神聖力はその程度なのですね」
がっかり、と言外に声を響かせる無礼な物言いに、だが、エミリアは冷静に返す。
「お恥ずかしい限りです」
「よろしくてよ。期待もしておりませんし、それで、十分でしょうから」
二人の周囲には、誰もいない。
傲慢で無礼な物言いに青ざめるものも憤るものも部屋の外だ。
会話が聴こえる心配もない。ただ。
―――――見えないだけで、聞き耳を立てている者はいた。
「後学までに」
それに気づいているのかいないのか、もしくは、いても差し支えないと判断しているのか。グロリアは気軽に尋ねた。
「オリエスの皇宮に施されている結界がなければ、どれほどの間可能ですの?」
「半日は可能です」
ふっ、と皇后は息を吐いた。
今度ははっきりと、あざ笑うように。
「陛下は努力もなく、呼吸するように、ずっと神聖力を使っておられるのに」
「オリエス皇帝は、特別な方ですから」
神聖力は、人間の身で扱えることすら、奇跡だ。
と言うのに、現皇帝は、歴代を顧みても、また別格だった。嫉妬も湧かない。
いっきに、グロリアは退屈したという表情になる。
聖女が挑発に乗らないからだ。
彼女は確認も面倒と言う態度を隠さず、エミリアに告げた。
「次の宴、約束通り、わたくしが招待状を送りますわ。どうぞ、参加なさって? 代わりに約束は守ってくださいな」
「感謝致します」
エミリアは深く頭を下げる。
「それで、この短剣」
机の上に目を向けて、グロリアは尋ねた。
「どちらが持つのがいいと思います?」
視線の先には、華やかな装飾が施された短剣がある。しかし、その刀身は。
闇のような、漆黒。
同じくそれを見下ろしたエミリアの目に、微かな嫌悪が浮かんだ。
厭な気配がするのだ。
これはおそらく―――――悪魔に関わるもの。
「魔塔謹製、…ですか」
信用ならない。
薄気味悪い。
不快。
日頃、清廉潔白で、きれいごとしか口にしない聖女のそんな表情を、グロリアは面白がる態度を隠さなかった。
「神殿と魔塔の仲が悪いことは知っておりますけれど、この度はある意味、利害が一致するのではなくて?」
エミリアの不快を愉しみながら、グロリアはあえて、魔塔という単語を強調する。
「だいたい」
奇麗に爪を塗った手を打ち合わせ、彼女はコロコロと笑った。
「悪魔を殺したところで、誰が咎めると言うのかしら?」
面白い遊びでもする態度で、グロリアは短剣に手を伸ばす。
「ですが、聖女さまには難しいと仰るなら、よろしくてよ、わたくしが」
「いえ」
小動物が肉食獣の足元から獲物を掠め取るように素早く、エミリアは短剣を取り上げる。
並んで置かれていた鞘も取り上げ、その中へ丁寧に刀身を納めた。
手を伸ばした姿勢のまま、皇后は、立ち上がった聖女を見上げる。
「以前からのお申し出、お待たせした分、わたしが実行致します」
「そう」
あっさりと手を引き、グロリアはゆったりと背もたれに身を預けた。
「…よろしく頼みますわ」
感情を完璧に隠した笑みを見せた皇后に、エミリアは一礼。
「失礼致します」
袖の中に短剣を隠し、常と変わらない楚々とした所作で、部屋を後にする。
彼女が扉を閉めて出て行った後、グロリアは鬱陶しそうな表情を浮かべた。
「お綺麗そうなふりをしながら、―――――…陛下のために、ねえ。虫唾が走るわ」
グロリアは窓の外へ目を向ける。
しばらくして、二人の従者を連れ、宮殿を離れていくエミリアの姿が見えた。
「悪魔を殺したいのは、自分のためでしょうに。気に入らないんでしょう? あの男の一番側にいる悪魔が」
グロリアは立ち上がり、誰もいないのをいいことに、大きく伸びをする。
「まあいいわ。わたくしにとっては、あの男の絶対的な守護の壁である悪魔が邪魔。悪魔の排除、この点においては同じ気持ちだもの」
ただ、その後のことは、聖女と真逆の立ち位置に、皇后はいた。
彼女の望みは一つ。
―――――現皇帝の排除。そして。
バタン。
派手な音を立て、部屋の扉が開いた。飛び込んできたのは、小さな影。
「失礼します、母上…っ」
声が耳に入るなり、皇后の表情は、がらりと変化した。
「まあ、殿下?」
室内へ飛び込んできたのは、彼女の息子。皇子、セオドア・オリエスだ。
彼こそが、オリエス皇帝の第一子。
息を切らせた彼の姿に、皇后は母親の顔で微笑む。
「どうされました? 今はお勉強の時間では?」
「今、終わった!」
うるさげに言い放つなり、母親から感じる笑顔の圧が増し、素早くセオドアは言い直す。
「いえ、終わりました。聖女が来たって聞いたのだけど…」
きょろきょろと室内を見渡し、皇子は肩を落とした。
「遅かった…」
「機会なら、またありますわ」
皇子に近寄り、グロリアは手を差し出す。不思議そうにその手を見下ろすセオドアに、
「気分転換に、お散歩でもしませんこと? 南のお庭がきれいですのよ」
言って、皇后は息子の手を握った。
セオドアは面倒そうな態度になる。
「花ですか? ならルナをお連れ下さい。僕はそんなもの…」
二歳の妹の名を出した皇子の言葉は、皇后を見上げながら、尻すぼみになった。青ざめながら頷く。
「お供します」
「楽しみね」
微笑んで外へ向かいながら、グロリアは誓いを新たにする。
皇帝は、早急に排除しなければならない。
この皇子のために。
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