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幕・59 儀式の時間
× × ×
騎士服を身に着けて、ヒューゴは宮殿の廊下を進む。
あと少しで戦勝の宴が始まる時刻だ。
いつも行き交っている侍従や侍女たちの姿は見えない。
こんな押し迫った時間に、ヒューゴは何をしているのかと言えば。
―――――主従の儀を行うために、謁見の間へ向かっている。
これほどぎりぎりになったことには、理由があった。
ばかばかしい理由が。
ヒューゴの服が仕上がらなかったのである。
脳裏をよぎるのは、数日前までの惨状。
続く、リヒトのダメ出しに次ぐダメ出し。
回を重ねるごと、職人たちが浮かべる悲壮さは、壮絶になって行った。
皇帝の、冷淡な「このようなものをヒューゴに着せろと?」と言う言葉すら次第に消え、面倒そうなため息しか最後には聞かなくなった気がする。
…ただの騎士服なのに。
どの程度を求めているかは知らないが、妥協しろ。
キレかかったリュクスが言うのに、リヒトはしぶしぶ頷いた。
そうして、今。
ようやくヒューゴは謁見の間の扉前に立つことができた。
…そう、ようやっとたどり着いた。
遠い旅路を辿って、遥かな目的地にとうとうたどり着いた気分。非常に感慨深い。
ヒューゴは扉前で足を止めた。
同時に、扉の左右に控えた騎士が、手にした長槍を、扉の前で交差させた。
さあ、儀式のはじまりだ。
彼らは何も言わない。待っている。
待つ。
何を。
思う端から、答えは泡が浮き上がるように、自然と胸の内に生じる。
―――――ヒューゴの心構えが整うその時を、だ。
何を見極めたか、しばしのちに、彼らは槍の交わりを解いた。隙のない、整然とした動き。
次いで、謁見の間の扉が、彼らの手で押し開かれた。
足元には、赤い絨毯。
その果ての玉座に、座すのは皇帝。
絨毯を挟み、左右に控えるのは、廷臣たちの群れ―――――と言いたいところだが、貴族たちを刺激することを考慮したか、立っているのは、ヒューゴと顔見知りの貴族や騎士が数名のみ。その中には、当然、宰相リュクスと将軍リカルドがいる。
こんな場所を設ける必要はない、リヒトと二人でやれば終わりじゃないか、とヒューゴは言ったのだが、リュクスは厳しい顔で告げた。
―――――ダメだよ。節目節目は気持ちの切り替えのためにちゃんとしないと。
マメというか、配慮のできる男である。
腰に剣を佩き、近衛騎士の服に身を包んだヒューゴは、臆することなく、颯爽と謁見の間を進んだ。
そう、今ヒューゴが着ているのは、近衛騎士の服だ。ただし特注である。
リヒトがまたダメ出しを出そうとしたものだが、ヒューゴから見ればかなりいいと思う。服は。
ただ、着ている者に似合わないだけで。
デザインは基本、近衛騎士団のものだが、似て非なるもの。
とはいえ、服の方がかなり真面目を押し出すデザインで、ヒューゴとしてはやりにくい。
ただ、せめてもの反抗とばかりに、立て襟を寛げ、そこから奴隷の皮の首輪を覗かせていた。
―――――それ、外さないの。
尋ねたのは、リュクスだ。
ある意味完璧主義の彼の目には、ヒューゴの姿は、あべこべに映って落ち着かないのだろう。
―――――別にいいだろ、俺は俺だし。奴隷だろうと騎士だろうと悪魔だろうと。
とたん、リュクスの目から、苛立ちが消えた。
ヒューゴの言葉に、彼の姿がしっくりきたらしい。ただし、ヒューゴが剣を取るなり。
兎みたいに、飛んで離れた。
瞬く間にその背を部屋の端の壁にくっつけた姿は、見ものだった。
―――――怖い怖い怖い、ちょっと、剣は、お願いだから、今は持たないで!
ワガママもいい話である。騎士に剣を持つな、などと言う宰相など聞いたこともない。
―――――剣聖が、面白がってヒューゴを徹底的に鍛えた弊害が、こんな形で出るなんて昔は想像もしなかったよ…!
怯え方すら賑やかなのに、ヒューゴは逆に感心した。
―――――俺を騎士に任命しようって男が、腑抜けたこと言うなよ。
―――――腑抜けでも何でも、妻や子供のためにもぼくは自分を守る方を選ぶ。
まるでヒューゴが立っているだけで、何もしないでいてもすぐさま死んでしまうと言いたげだ。
呆れたヒューゴはしぶしぶ剣を離した、…というような一幕が、楽屋裏であったのはさておき。
何の緊張も気構えもなく、あっさりと玉座近くに至ったヒューゴは、その場で玉座を見上げた。
リヒトが、優雅に玉座から立ち上がる。
ヒューゴは、黙って立ったまま、それを見上げた。
ヒューゴの視界の端で、リュクスが焦ったように無言で口を動かすのが見える。
跪け、と言っているのはなんとなくわかった。
主従の誓い、騎士の誓約、儀式の作法。
寸前まで叩き込まれたのだ、すべて、頭に入っているが。
(なんか、儀式の作法全部が空っぽって言うか、…手応えないんだよな)
しばし、玉座のリヒトと見つめ合う。
儀式をやるのは簡単だ。ただしどうも、気持ちが入らない。熱がない。
儀式の形式は、他人事として何度か目にしたことはあるが、純粋に格好いいな、と思ったし、もちろん、嫌いではなかった。
だが、ヒューゴという存在にはそぐわない気がした。
(悪魔だからか?)
なんにしたって、形式通りにやらなければならないということはないだろう。
ヒューゴは、自分なりの方法で儀式をやろうと思った。
リヒトを見上げ、ニッと笑う。
それも束の間。
―――――表情を改めた。
瞬時に、まとう空気も変わる。
たちまち、周囲の人間が、ぎくりと竦んだ。
いや、寸前までのヒューゴにも、一歩引いた様子ではあった。
下手な動きをすれば、一瞬で命が刈られる、そんな緊張感に満ちていた。
今は、それ以上に。
ぐっと踏ん張っている風情。
少しでも気を抜けば、意識を失う、そんな態度だ。
魔竜としての片鱗が、ヒューゴの人間の姿から、浮き彫りになったせいだろう。
ほんのわずかだとしても影響力は強い。
平然としているのは、リヒトぐらいだ。
一見、リカルドも表面上は平静に見えた。ただしその手は、剣の柄にかかっている。
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