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幕・61 不穏の前兆

× × × 「ちょっと待て、エイダン」 呼ばれたエイダンは、駆けていた足を止め、振り向いた。 金のクセッ毛が揺れ、その前髪の間から見えるに鳶色の瞳に映ったのは。 見張りの騎士。顔見知りだ。 どこの見張りかと言えば。 ―――――皇宮の敷地内、その北には、罪人を収容する地下牢がある。 無論、その使用は一時的なものであり、長期間罪人が入れられるわけではない。 なにせ、場所が場所。 皇宮内だ。 そこに長く、罪人を収容するわけがない。身分が高い罪人ならば別だろうが。 ただし身分の高い罪人専用の牢は、別に用意されていた。東と西にそびえる豪奢な塔がそれだ。今は使われていない。 そして、この地下牢も普段は使われていないのだが。 ―――――今は様相が違った。 先日まで続いていた戦争の捕虜たちが、ここに収容されているのだ。 大きな戦争は半年前に終わっているが、まだ小競り合いは多い。今回の捕虜たちもその結果の産物である。 幸い、小競り合いの数は次第に減っていた。 今後は、捕虜も減って、最後にはいなくなるだろう。 彼らはしばしこの地下牢で過ごしたのち、北部の極寒の地か、南部の荒野へ送られる。労働力として。 いずれも厳しい環境と聞く。 奴隷に落とされないだけ、ましかもしれないが。 哨戒の騎士が入れ代わり立ち代わり交代で周囲を行き交い、出入り口を見張る人数も増えている。 普段、この辺りでは見ない光景だ。 とはいえ、小さな変化にいちいちビクついたり、ついて行けないようでは皇宮ではやっていけない。 「はい、何か御用ですか?」 そんな中、明るい声を上げ、大きな空の籠を背負ったエイダンは、にこやかに振り向いた。 目端がきき、頭の回転が速く、よく動くエイダンは、仕事が多い。そこかしこで重宝されているためだ。 だからこそ、色々な場所で名前を憶えてくれている人間がいる。 毎日、この外れの棟で生活する騎士たちの生活の際にでる汚れものの回収も、日常の仕事の一環である。 今はそこに、捕虜たちの汚れものの回収も加わり、結構忙しい。 ゆえにこれから、エイダンは地下牢へ入るわけだが。 騎士に呼び止められた時、少し違和感を覚え、はてと内心首を傾げる。 ―――――ああ、そうだ。いつもより、見張りの人数が少ない。 (一人だけって…いいのかな) こんな場所の見張りは最低でも二人一組になるのが通例ではないだろうか? だがエイダンは奴隷である。知ったような口は聞けない。 「…ああ」 畏まって言葉を待っていると、顔見知りの騎士は悩むような、と言うよりも、エイダンの笑顔に毒気が抜けたような声を出し、首を横に振った。 「お前ならうまくやるだろう。…汚れものを回収に来たんだろう?」 「はい、すぐ洗い場へ持って行きます」 皇宮の中心は宴本番と言うこともあり、華やかだが、そんなもの、エイダンには関係がない。 いや、上等な料理の食べ残しが回ってくるかもしれないから、それが唯一の楽しみだ。 「通れ」 「ありがとうございます。では、失礼致します」 柵を開けてもらい、見張りの仕事に戻った騎士の横を通り過ぎる。 エイダンは慣れた足取りで階段を駆け下りていった。 牢が設置された通路は暗い。魔法の明かりがわずかに明滅しているだけだ。 汚れものの回収に来たと大きな声を張り上げる必要はなかった。 ここに来てもう数日が立つのだ、時間が来れば、捕虜たちは汚れ物を通路へ勝手に投げ出している。 それらを拾い上げ、エイダンはひょいひょい籠の中へ入れて歩いた。 最初は怒鳴りつけられもしたが、エイダンの首輪を見るなり、彼らは舌打ちしてそっぽを向いてしまう。奴隷風情を見下すのは、どの国でも同じだ。 知識もない卑しいものに、何を言ったところで仕方がないと諦めてくれたのだろう。 奴隷には、どこへ行っても発言権はないし、影響力もない。 (奴隷って言っても、ヒューゴさんは別だけど) いやもう、ヒューゴは奴隷ではない。騎士だ。本日の儀式をもって、正式に。 今は儀式の最中だろう。 騎士の制服を着たヒューゴは、きっと格好いい。 (って言っても、怖くてあんまり近寄れないんだけど…) ヒューゴは面倒見のいい兄のような存在で、恩人だが、エイダンは彼が怖い。 どう頑張ったところで、ヒューゴが悪魔という事実は、変えられないからだ。 だからといって、どうしたってエイダンはヒューゴを嫌いにはなれない。 ゆえに、ヒューゴが騎士になったことが自分のことのように嬉しいのも本当だ。 一時、皇宮の謁見の間へ意識を馳せたエイダンは、すぐ、自分がいる地下牢へ意識を戻す。 牢は一つ一つが大きく、複数が一緒に入れられ、雑魚寝をしているのが現状だ。一番奥に個人用の牢があるが、今回は使われていない。 ただ主導者らしき男がいて、彼はいつも、難しい表情を浮かべていた。 だとしても、実際、エイダンには関係がないし、興味もない。 いつも通り、仕事をこなすだけだ。奥まで行けば終わり。表に取って返して、洗い場へ走らねばならない。洗い物が終われば、次の仕事だ。 きびきび歩き、籠がいっぱいになったところで、奥まで来た。 踵を返そうとしたところで。 ―――――ギィ。 出入り口の扉が開く音がした。 エイダンは一瞬、動きを止める。あの騎士が入ってきたのだろうか、と思ったが。 そんなわけがない。 見張りの騎士は余計なことはしない。 中から呼ぶ声もなかったのだ。 ただの暇潰しに中をうろつくなどと言うのは悪趣味だし、それでは見張りの仕事をこなせない。 なら、誰が。 エイダンが咄嗟に、奥の牢へ続く扉の中へ滑り込んだのは、勘としか言いようがない。 エイダンはここに仕事でいるのだ、誰に恥じる行いもしていなかった。 それでも、直感が告げていた。 ―――――隠れろ。 嫌な感じがしたのだ。 昔から、その勘には非常に助けられている。 今日も勘が命じるままに動いたエイダンは、扉を少しだけ開けて、そこから外を覗き見た。 こうまで薄暗いのだ、そんなことをしたところで、見つかる危険はない。 そっと覗き見た先に、男が二人、通路で佇んでいた。

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