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幕・68 餌のやり忘れにご注意ください
人数は騎士たちの方が多く、現れた異形の動きが遅いため、今は騎士たちの方が優勢に見える。
だが、簡単にはいきそうにない。
乱戦。暗がり。
そして、人工精霊ツクヨミの、せめてもの気遣いか、映像向こうの音が聴こえない。
それらのせいで、状況を正確には把握できなかった。
ただ、騎士たちが手間取っているようなのは分かる。
理由は分からないが、異形を、制圧しかねていた。先ほどから一向に、数が減らないのだ。
(攻撃は通っているようなのに、…倒れない?)
そして、異形側の戦意が異様に旺盛だった。
戦闘の玄人、騎士たちでさえその程度の認識なのだ。戦場に立ったこともない人間が、状況を理解できるわけもない。
無言で見上げていた者のうち、文官の何人かが異形から目を背けた。そのうちの一人が、
「報告では、聖女さまが北へ向かったようです。悪魔の気配がすると仰ったとか」
せめて声だけは冷静に、報告。
「そう言えば、宴に聖女さまも参席するんだったね」
映像を見上げたまま、リュクスが考えに沈むように言葉を紡ぐ。
「…あれらが悪魔なら、聖女さまが向かえば、それで解決するだろうけど」
宰相・リュクスが考え深げな顔で映像を見上げる。
「本当に、あれらは悪魔なのかな」
その、可愛らしいが鋭利さを潜ませた緑眼に、深みが増した。
映像の中の何かを見定めようとする態度。
「聖女さまが感じたのは、ヒューゴの気配ってことはない?」
「…それはなんとも…」
リュクスの問いかけに、文官が困った顔になる。視線を転じ、リュクスはリヒトを見た。
「陛下はどう判断なさいますか」
「悪魔だ」
映像を見上げたまま、リヒトは断言。その上で、
「あれらは悪魔だが…『本物』とも違うな」
謎かけのような台詞に、周囲に居並ぶ顔に疑問符が浮かんだ。
何を納得したのか、リュクスは難しい顔で頷いている。
彼らの近くで、将軍リカルドが顔をしかめた。
「これは…おかしいですな」
呟いた彼は様子を窺うように、皇帝を見遣った。
落ち着き払った顔で映像を見上げていたリヒトはリュクスを一瞥。
同じものを察した風情。
それ以上何も言わない彼らに反応したのは、皇帝の近くで椅子に座っていた皇后だ。
「おかしい? 何がですの、将軍閣下」
彼女の右隣には、皇子が控えている。
お利口に立っているだけだが、その眼差しは兎に向けられていた。
皇后には、皇女もいるが、さすがに幼いため、連れてきてはいないようだ。ただ。
幼い、というのみならず、皇后は皇女をほとんどいない者のように扱っているという密かな噂もあった。
皇后は金に赤い房の付いた扇で口元を隠し、平然と映像を見上げている。
生々しい戦場の様子に青ざめる様子もない。ひどく冷静だ。
しっかりしていると言えば聞こえはいいかもしれないが、盤上の駒でも眺めている風情というのか、聖女と同じ金髪に碧眼であると言うのに、印象は真逆。
このような場面で悲鳴を上げて倒れられては皇后として面目も立たない以上、それで正解と言えなくもないのだが、常に厳格な皇帝のそばに彼女がいると、皇室が非情に映り過ぎて逆にバランスが悪いとリュクスなどは正直に思う。
(本来なら、メリッサ皇妃殿下か…他国の貢ぎ物なんて言われてさえいなければフィオナ皇妃殿下が最適なんだけど)
前者は柔和で優しげな雰囲気を持ちながら、芯のある女性。
後者は強情なようでいて、情の厚さを向き合った者にしっかりと感じさせる女性だ。
自信に溢れた気高さも持ち合わせており、リヒトの隣に相応しい。
だが今いない相手を考えていても仕方がなかった。
ただ、現在、皇帝の足元に可愛いらしい兎がいるのは、むしろいい緩衝材と言えなくもない。
まさかこんな場合を考えて、ヒューゴはツクヨミを兎にしたわけではないだろうが、いい仕事をしてくれたものだ。
ツクヨミの仮の姿がなぜ兎なのか?
ちょっとした好奇心でリュクスはヒューゴに尋ねたことがある。
答えは、こうだ。
―――――月には兎がいて餅をついているんだよ。
ツクヨミを作り上げることで、疲れ切っていたヒューゴは、眼をしょぼしょぼさせながら妙なことを言った。
悪魔に睡眠など必要はないはずだが、寝るのが趣味などというヒューゴは、よくこうして眠そうな様子を見せている。
そんな状態で言った台詞だ、よく考えてのことではないだろうが。だからこそ、本音のはず。
つまりヒューゴにとって、ツクヨミという名は月を表すもので、そこに兎が棲むからツクヨミは兎。
基礎知識もないままに、そこまで察したリュクスの洞察力は褒められて然るべきだったろう。
―――――ふーん? 月に兎が棲むなんて、どこから聞いたの。見たの? って、うわあ!
―――――リヒト。俺お腹すいた、ごはん…。
この場合問題だったのは、必要もない眠気で半分意識を飛ばした悪魔が、腹を空かせていたことだ。
あわや、側にいたリュクスは、その餌食になりかけた。
優しい微笑み、底抜けに甘い声、うっとりとこぼれる吐息の感触。
正直に言おう。
その気もないのにその気にさせる、それは、――――――超ド級のエロさだった。
―――――リヒト! ペットに餌やり忘れてる!!
咄嗟に、リュクスは悲壮な声で叫んだ。そして。
やって来たリヒトには、いきなり殺されそうになった。
オリエス帝国の歴史に、最も馬鹿げた理由で皇帝に殺された宰相として名を遺す寸前、リカルドに危うく助けられた。
その間にリヒトはヒューゴの腕に捕獲、リュクスは難を逃れたことなど、今となってはいい思い出…とも言えないが。過去の話だ。
今、隣で、救世主リカルドは皇后の問いに答えている。
「は。あれは、悪魔ではありませんな。…私の経験上、としか申し上げられませんが」
「では、何と見ます? 魔獣かしら?」
「私が今まで見てきた中で、何に一番近いか、と申しますと」
このまま皇后との会話を続けていいものか、と問う目でリカルドはリヒトを一瞥。
リヒトは無言でリカルドを見返した。止めない。
リカルドは小さく息を吐き、
「…麻薬に溺れた者に近いように感じます」
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