73 / 215

幕・73 悪魔が消えた

× × × 少し前、宴の会場では。 青ざめながらも、忠実に控えていた侍女に皇子を預け、皇后グロリアは宴席を後にした皇帝の後を追った。 「お待ちを、陛下」 皇帝リヒトに追いすがり、神妙な顔で声をかける。 ―――――悪魔が消えた! あの、邪魔者が! 内心、喝采を叫びながら、表面上は厳しく告げた。 「ここで皇帝が席を外すのは、好ましくありません」 宴の席に浮かんだ映像。 つい先ほど、その中で、聖女が悪魔を―――――退治した。…そう。 別に、聖女は殺人を犯したわけではない。あれは悪魔。聖職者はあれらを滅ぼすのが役目だ。 (よくやったわ、聖女サマ。清々した。あらでも、なかなか死なないものね?) さすが悪魔、命汚い。 胸の中央を刺し貫かれながらも、悪魔は敏捷に動いた。 聖女と距離を取り、振り向く。まるで無傷の時と同じ動き。 …獣、そのもの。 だが、聖女が悪魔を刺した、その光景を見るなり。 国の上層部に君臨する全員が、顔色を変えた。 言葉をなくした宰相。 子供のように空色の瞳を揺らした将軍。 集っていた彼らの部下も、一瞬意識を失ったように沈黙した。直後。 びくりと身を揺らし、我に返ったように、場に居合わせた全員が、皇帝を振り返った。 リヒトは、表情一つ変えていない。 だが、会場内の温度が、その瞬間、一気に下がったようだ。 誰も何も言えない中、映像の中で、血を流した悪魔が膝をつきかけ―――――消失。 「消せ」 命じながら踵を返すリヒトに、黙って兎が付き従う。 浮かんでいた画像は皇帝の命令と同時に消えていた。 会場から去るリヒトの動きに気付いていながら、誰も動く気配がない。 宰相は振り向くこともなく無言。 将軍も、状況を整理しかねるように片手で顔を覆った。 彼らに声をかけるより、まだ平静なグロリアが動く方が効率がいい。 ただ、それは表向きの話で。 ―――――皇帝が一人になる機会など滅多にない。 「…皇子をお願い」 リヒトがいっとき放った怒気に震えあがり、涙目になっている皇子を侍女に託し、グロリアは皇帝の後を追った。 もちろん、彼女とて、リヒトの尋常でない気配に、指先が氷のように冷えている。だが。 足を止めないリヒトに追いすがり、グロリアは憂いを残しながらも厳しい顔で言う。 「…どうか宴席へ、お戻りくださいませ。―――――陛下」 皇帝の心を案じ、胸を痛めながらも、忠言を口にする妻に見えるはずだ。 リヒトは足を止めた。だが、振り向かない。 彼がどう決定するかは、グロリアにとってはどうだっていい。ただ、グロリアは、皇后らしく行動するだけだ。 あの悪魔がいなければ、オリエス皇帝は、存外簡単に一人になる。 今がそうだ。 足元の兎が何だと言うのだろうか。 まさか室内に、あの雷を降らせるわけがない。それも、グロリアは皇后である。 内心、上機嫌で、これからどのように、生じるだろう皇帝の隙に踏み入るかを考える。 そう、隙ができる。 ならば、これまでのように、直接刺客を送るのは、愚行だろう。 どのような手段が最善か。 (…毒) おそらく、それが一番だ。 たとえ神聖力を宿すとしても、人間の身体である以上、万能ではない。 真綿で絞めるように、次第次第に毒をその身に沁み込ませる。できれば麻薬を使って、操り人形にできれば一番いい。 そう難しいことではない気がした。 これからも神殿や聖女と昵懇の付き合いを続ければ、神聖力に関する情報を手に入れることができるだろう。その対抗手段も調べられるはず。 また、一方で、魔塔ともいい関係を続けていきたい。 …そう、分からないのは、魔塔だ。 あれらは何を考えているのか。 (…悪魔が消えたのはどうしてかしら。それに、どこへ? 魔塔の連中の仕業だろうけど) あの短剣は、魔塔が用意したものだ。何か仕掛けが施されていたのだろうか。 考えに沈んだのは、一瞬。だが、その刹那に、 「…満足か?」 ごく自然に、皇帝リヒトは踏み入った。 「…は、い?」 予想外の言葉に、グロリアは面食らう。それを、うまく誤魔化せなかった。 振り向いたリヒトが、特徴的な黄金の目で、真っ直ぐグロリアを見ていたからだ。 グロリアは、この瞳が苦手だった。 他の皇族も同じ色をしているのに、リヒトの黄金だけは、どうしても。 ―――――何もかも、見透かされているようで。今も。 「想像を愉しみたいなら、あとで一人の時間にやっていろ」 それでもグロリアは怯まない。 「陛下?」 強い瞳で、グロリアは尋ねる。 「想像を愉しむ程度で、わたくしは何の罪に問われますの?」 閃いた微笑は、まるで猛毒の花だった。 無気力に、リヒト。 「なにも」 「…つまらない答えですわね?」 グロリアは鼻で笑う。 あくまで堂々とした彼女に、リヒトは目を細めた。 「そなたの存在は、どうでもいいからな」 「陛下、皇后陛下はどうでもいい存在じゃないです」 呆れたように声をかけてきたのは、リュクスだ。 追って来たらしい。 顔をしかめた彼の声を無視して、リヒト。 「ただ今回、そなたは間違いを犯した」 口調は、どこまでも落ち着き払っている。 だが、どんな誤魔化しもきかないほど、確信した声だった。 「成り行きと、結果次第では」 今回の件に、グロリアが噛んでいることを、リヒトは察している。否。 ―――――知っている。 踵を返した皇帝は、ごみでも捨てるような口調で告げた。 「皇子と家門ともども処分する」 たとえ皇帝がその気になっても、チェンバレン家が滅びるわけがない。 子供の駄々を受け流す心地で、グロリアは悠然と構えてその背を見送ろうとした。しかし。 すぐそばのリュクスと目が合うなり。 はじめて、嫌な予感を覚えた。 リュクスは何も言わず、全身を冷たくしたグロリアから視線を切る。 リヒトを見遣り、 「待った、リヒト」 去ろうとする彼を止める。 「今行くのは仕方ないけど、宴には必ず戻ってね。分かってるよね」 ただし、最前のリヒトの暴言については何も言わない。リヒトは振り向きもせず、言った。 「…私が皇帝になった理由は何だ?」 二人にしか分からない符号だったか、理解を瞳に浮かべたリュクスは、 「リヒト」 苦い声で、厳しく嗜める。だが、 「感じ取れない」 リヒトが、感情のない声で一言。 「ヒューゴの気配が」 「…どういう意味」 深刻な声で、リュクス。 「なら、ヒューゴは」 ーーーーーどうなったの。 応じず、リヒトは足元の兎に命じた。 「私を、<鉄槌>を落とした場所へ連れて行け」

ともだちにシェアしよう!