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幕・73 悪魔が消えた
× × ×
少し前、宴の会場では。
青ざめながらも、忠実に控えていた侍女に皇子を預け、皇后グロリアは宴席を後にした皇帝の後を追った。
「お待ちを、陛下」
皇帝リヒトに追いすがり、神妙な顔で声をかける。
―――――悪魔が消えた! あの、邪魔者が!
内心、喝采を叫びながら、表面上は厳しく告げた。
「ここで皇帝が席を外すのは、好ましくありません」
宴の席に浮かんだ映像。
つい先ほど、その中で、聖女が悪魔を―――――退治した。…そう。
別に、聖女は殺人を犯したわけではない。あれは悪魔。聖職者はあれらを滅ぼすのが役目だ。
(よくやったわ、聖女サマ。清々した。あらでも、なかなか死なないものね?)
さすが悪魔、命汚い。
胸の中央を刺し貫かれながらも、悪魔は敏捷に動いた。
聖女と距離を取り、振り向く。まるで無傷の時と同じ動き。
…獣、そのもの。
だが、聖女が悪魔を刺した、その光景を見るなり。
国の上層部に君臨する全員が、顔色を変えた。
言葉をなくした宰相。
子供のように空色の瞳を揺らした将軍。
集っていた彼らの部下も、一瞬意識を失ったように沈黙した。直後。
びくりと身を揺らし、我に返ったように、場に居合わせた全員が、皇帝を振り返った。
リヒトは、表情一つ変えていない。
だが、会場内の温度が、その瞬間、一気に下がったようだ。
誰も何も言えない中、映像の中で、血を流した悪魔が膝をつきかけ―――――消失。
「消せ」
命じながら踵を返すリヒトに、黙って兎が付き従う。
浮かんでいた画像は皇帝の命令と同時に消えていた。
会場から去るリヒトの動きに気付いていながら、誰も動く気配がない。
宰相は振り向くこともなく無言。
将軍も、状況を整理しかねるように片手で顔を覆った。
彼らに声をかけるより、まだ平静なグロリアが動く方が効率がいい。
ただ、それは表向きの話で。
―――――皇帝が一人になる機会など滅多にない。
「…皇子をお願い」
リヒトがいっとき放った怒気に震えあがり、涙目になっている皇子を侍女に託し、グロリアは皇帝の後を追った。
もちろん、彼女とて、リヒトの尋常でない気配に、指先が氷のように冷えている。だが。
足を止めないリヒトに追いすがり、グロリアは憂いを残しながらも厳しい顔で言う。
「…どうか宴席へ、お戻りくださいませ。―――――陛下」
皇帝の心を案じ、胸を痛めながらも、忠言を口にする妻に見えるはずだ。
リヒトは足を止めた。だが、振り向かない。
彼がどう決定するかは、グロリアにとってはどうだっていい。ただ、グロリアは、皇后らしく行動するだけだ。
あの悪魔がいなければ、オリエス皇帝は、存外簡単に一人になる。
今がそうだ。
足元の兎が何だと言うのだろうか。
まさか室内に、あの雷を降らせるわけがない。それも、グロリアは皇后である。
内心、上機嫌で、これからどのように、生じるだろう皇帝の隙に踏み入るかを考える。
そう、隙ができる。
ならば、これまでのように、直接刺客を送るのは、愚行だろう。
どのような手段が最善か。
(…毒)
おそらく、それが一番だ。
たとえ神聖力を宿すとしても、人間の身体である以上、万能ではない。
真綿で絞めるように、次第次第に毒をその身に沁み込ませる。できれば麻薬を使って、操り人形にできれば一番いい。
そう難しいことではない気がした。
これからも神殿や聖女と昵懇の付き合いを続ければ、神聖力に関する情報を手に入れることができるだろう。その対抗手段も調べられるはず。
また、一方で、魔塔ともいい関係を続けていきたい。
…そう、分からないのは、魔塔だ。
あれらは何を考えているのか。
(…悪魔が消えたのはどうしてかしら。それに、どこへ? 魔塔の連中の仕業だろうけど)
あの短剣は、魔塔が用意したものだ。何か仕掛けが施されていたのだろうか。
考えに沈んだのは、一瞬。だが、その刹那に、
「…満足か?」
ごく自然に、皇帝リヒトは踏み入った。
「…は、い?」
予想外の言葉に、グロリアは面食らう。それを、うまく誤魔化せなかった。
振り向いたリヒトが、特徴的な黄金の目で、真っ直ぐグロリアを見ていたからだ。
グロリアは、この瞳が苦手だった。
他の皇族も同じ色をしているのに、リヒトの黄金だけは、どうしても。
―――――何もかも、見透かされているようで。今も。
「想像を愉しみたいなら、あとで一人の時間にやっていろ」
それでもグロリアは怯まない。
「陛下?」
強い瞳で、グロリアは尋ねる。
「想像を愉しむ程度で、わたくしは何の罪に問われますの?」
閃いた微笑は、まるで猛毒の花だった。
無気力に、リヒト。
「なにも」
「…つまらない答えですわね?」
グロリアは鼻で笑う。
あくまで堂々とした彼女に、リヒトは目を細めた。
「そなたの存在は、どうでもいいからな」
「陛下、皇后陛下はどうでもいい存在じゃないです」
呆れたように声をかけてきたのは、リュクスだ。
追って来たらしい。
顔をしかめた彼の声を無視して、リヒト。
「ただ今回、そなたは間違いを犯した」
口調は、どこまでも落ち着き払っている。
だが、どんな誤魔化しもきかないほど、確信した声だった。
「成り行きと、結果次第では」
今回の件に、グロリアが噛んでいることを、リヒトは察している。否。
―――――知っている。
踵を返した皇帝は、ごみでも捨てるような口調で告げた。
「皇子と家門ともども処分する」
たとえ皇帝がその気になっても、チェンバレン家が滅びるわけがない。
子供の駄々を受け流す心地で、グロリアは悠然と構えてその背を見送ろうとした。しかし。
すぐそばのリュクスと目が合うなり。
はじめて、嫌な予感を覚えた。
リュクスは何も言わず、全身を冷たくしたグロリアから視線を切る。
リヒトを見遣り、
「待った、リヒト」
去ろうとする彼を止める。
「今行くのは仕方ないけど、宴には必ず戻ってね。分かってるよね」
ただし、最前のリヒトの暴言については何も言わない。リヒトは振り向きもせず、言った。
「…私が皇帝になった理由は何だ?」
二人にしか分からない符号だったか、理解を瞳に浮かべたリュクスは、
「リヒト」
苦い声で、厳しく嗜める。だが、
「感じ取れない」
リヒトが、感情のない声で一言。
「ヒューゴの気配が」
「…どういう意味」
深刻な声で、リュクス。
「なら、ヒューゴは」
ーーーーーどうなったの。
応じず、リヒトは足元の兎に命じた。
「私を、<鉄槌>を落とした場所へ連れて行け」
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