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幕・74 奇跡をもぎ取りたかった

× × × 遠い昔。 ヒューゴは奇跡を願った。 いや、正確には。 奇跡を。 無理やりにでも、もぎ取ろうとした。世界から。 ―――――大丈夫、大丈夫だよ、黒曜。一緒に考えよう。どこかにあるはずだ。君と、皆で一緒に生き残る道。 脳裏に蘇ったのは、かつて、ヒューゴが、嘆く黒曜に投げかけた言葉。 黒曜は、悪魔のヒューゴにとって、はじめてできた友達だった。 悪魔に友達だなんて、何の冗談かと思うだろう。 が、本当に仲良くなったのだ。友達という言葉以外に、黒曜を表現する術をヒューゴは知らない。 それは、地獄に竜が飛来する前。 楽園から地獄へ御使いたちが攻め込むよりも前の話。 ヒューゴが、まだ悪魔らしいバケモノの姿をしていた頃。 …ただ、前世を思い出して、少し経った頃合いだった。 その頃のヒューゴは、どこへ行っても殺伐とした地獄の景色にがっかりしていた。 それでも今日は、昨日と違う景色に出会えるかもしれない。 そんな、今から思えば決して叶わない期待を抱きながら、毎日散歩していた頃。 歩いている最中、出くわしたのだ。 ―――――真っ黒な首なし騎士デュラハンと。 戦いには、倦んでいた。 それでも、卑しいことに、戦闘こそが悪魔の存在意義で―――――本能で。 退屈しきった毎日でも、とたんに、愉しさがヒューゴの胸に戻った。 愉悦に身を委ねながら、ヒューゴが身構えたその時。 大剣を背負った漆黒の首なし騎士は、両手を前へ突き出し―――――攻撃開始、かと思いきや。 中身のない、兜だけの頭を高速で横に振った。 …気のせいだろか? 首なし騎士の動作は、攻撃どころではない。むしろ、戦いたくないと言う意思表示に見えた。 そして。 …それは、気のせいではなかった。 話しかければ、敵意以外の言葉が返ってきた。 言葉が通じたのも驚きだが、黒曜とは会話が成り立った。 ヒューゴにとっては衝撃だった。温和な悪魔など聞いたこともない。 だが黒曜はどこまでも優しい性格だった。 ヒューゴのように、前世を思い出した類かとも思ったが、どうも、生来のものらしい。 ただ、きちんと悪魔らしいところもあって、戦いたくないと意思表示したのちも攻撃してくる者には、決して容赦しなかった。 黒曜は、とにかく強かった。 ヒューゴが知る限り、負けたことがない。 なのにヒューゴが冗談でじゃれかかったときだけ、負けるのだ。 一回本気で勝負してみないかと誘ったが、絶対嫌だと返された。 だから、残念ながら、本気で勝負したことはない。 そう言うところだけは、頑固だった。 ヒューゴが黒曜と一緒にいたのは、百年くらいだったろうか? 終わりは、唐突にやってきた。 ―――――ああ、だめだ。わたしは、…わたしは、やっぱり。 黒曜に頭はないのに、悲嘆にくれる姿には、涙が見えた。 ―――――誕生してはいけなかったんだ。 君に。 命を呪う言葉なんて、言わせたくなかったのに。 かつて、地獄へ、楽園から、御使いたちが攻め込んできた理由。 それは、地獄に亀裂が入ったからだ。 この世界は、楽園と中間界、そして地獄の三界から成るが。 地獄という世界に、裂け目ができた。 裂け目がどういうものか―――――ヒューゴの前世の知識から言葉を抜き出すとするならば、ブラックホールのようなものと言える。 そこへは、何もかもが吸い込まれていった。 どこへ消えていくのか分からない。 確実なのは、消えたものが二度と戻ってくることはないということだけ。 その裂け目を作ったのが。 黒曜。 黒曜が力を乗せて振るった大剣、それが亀裂を作った。 黒曜は強かった。本当に、強かった。それが、…仇になった。 黒曜が作ってしまった何もかも飲み込む亀裂は、破滅の亀裂と呼ばれた。 それが地獄から世界を飲み込み、三界まるごと滅ぼしてしまう可能性があると、御使いたちは地獄に攻め入った。 御使いが地獄へ攻め入ったのは、地獄を滅ぼすためだ。 抗う悪魔たちを制圧し、世界から地獄を切り離そうと画策した。 切り離せば、楽園と中間界は助かる。そう、考えたようだ。 だが―――――黒曜は、生まれたのだ。 この世界に、地獄に、それでも、誕生したのだ。 許されない命など、この世にあるわけがない。 方法があるはずだ。 あった、はずだ。 御使いの前へ無防備に身を晒そうとする黒曜を、ヒューゴは必死に説得した。 今は死ぬことより、できた亀裂をどうにかすることを考えよう。 その頃には、悪友の混沌と、もう一人の友人・灼熱とも出会っていて、皆で揃って知恵を絞ったが。 結局、黒曜は。 …そこまで、考えた、ところで。 嘆きのあまり、いつもなら立ち止まっていた思考が、この時、不意に方向転換した。 閃くように、儚い考えが、ぽつりと小さな雨粒のように、ヒューゴの心に落ちてしみいる。 それは彼自身、思いがけないもので。 ―――――神聖力、なら? とたん、くっきりと鮮やかに、リヒトの姿が、脳裏に浮かぶ。 ヒューゴの契約者の顔には、ほとんど感情が浮かんでいない。 成長するにしたがって、彼はそれらを削ぎ落してしまった。それでも。 今、浮かんだリヒトの表情は、穏やかで。やさしげで。…安らいでいた。 それは、かつては、これっぽっちも脳裏に浮かばなかった考え。 だって、そうだろう。 神聖力は、悪魔を殺すもの。 …救うものではない。 たとえば、相手が聖女なら、同じ神聖力の持ち主でも、そんな考えは浮かばないだろう。なのに。 ―――――リヒトの力、なら。 リヒトなら。 黒曜に。 …かつては想像もできなかった奇跡を、もたらしてくれるのではないだろうか。 そんな、ある意味血迷った考えを、ヒューゴが確信をもって抱きしめた刹那。 ―――――ヒューゴの思考が、不意に途切れた。周囲が騒がしくなったからだ。 「なんてことだ、まだ生きている」 「今のうちに、繋げ。急ぐんだ」 「竜体になられては、たまったものでは」 「いやいっそ、その方がいい」 「なぜだ」 「解体しやすいだろう」 じゃらり、鎖の音。首に感じる冷たい感触。 周囲の声と同じ冷ややかさ。

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