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幕・75 罰の雷を下すのは天でなく

「短剣はどうする。抜くか?」 「まだ使い道がある。それに、コレをこのまま放置するのは危険だ」 「そうだ、これは空間を裂く」 「その能力を利用し、場をつなぎ、…この悪魔をここへ連れてきたんだからな」 ―――――…空間を、裂く? ああ、確かにできるかもしれない。黒曜の刃ならば。 だがその行いが危険極まることを、どこまでこの周囲の人間たちは承知だろうか。 黒曜の刃は、一度、世界を壊しかけたシロモノだ。 どうやって手に入れた。 どこから、この中間界へ流れ込んだ。 黒曜は、自分自身である刃を、自ら封じたのに。 ―――――その命でもって。 (その封印が、…破られた?) ヒューゴの思考は、また、無理やり破られた。 ガチン、無骨な音を立て、首にはめられた枷のせいだ。 そこから。 ぞわり。 厭な感覚が、全身に広がっていく。 首に続いて。 手首。 足首。 ぞうっと鳥肌が立つ。 リヒトの神聖力と同じ縛めの力だと言うのに、感じ方は全く違った。 ねばりつくような所有欲。 ヒューゴを、高価な取引が可能な道具としてしか見ていない意識が、実にはっきりと伝わってくる。 それなのに。 (黒曜の、刃は…俺の身を傷つけているのに) ―――――世界を滅ぼす力なのに、今だって、本当の意味ではヒューゴを傷つけていない。 黒曜がヒューゴをどうでもいいと思っていたなら、貫かれた刹那に、いかに魔竜とて、消滅を免れなかった。 黒曜はもういない。いないが。 刃には、黒曜の意志が宿っている。 感じるなり、自身の身を傷つけているはずの刃が、この場所では一番、頼りになるものの気がした。 漆黒の刃が、ヒューゴを傷つけてしまったのは。 ヒューゴが人間の姿をしているからだ。 ヒューゴだと認識できなかった可能性が高い。 それでも。 刃が貫いたのは、肺だ。 心臓ではない。 この程度の傷なら、悪魔の身体へ戻ればすぐさま塞がるだろう。 そして。 「チッ、これは神聖力の鎖か…」 「さすがは皇帝の力」 神聖力の鎖が、彼らが施そうとしている縛めの邪魔になっているようだ。 手間取っている隙に、ヒューゴは気を失ったふりで、周囲の状況を探る。 声の響き方、触れている地面の感覚からして、 (洞窟内か…?) 地理的に、ここはどこだろう。思った矢先。 「何を…おい、止めんか、貴様ら!」 渋い声が飛んだ。と思うなり、すさまじい勢いで、大きな足音が迫ってくる。 「同じ人間に対して、そのような縛めを…っ、人間など、いっきに廃人になってしまうぞ」 周囲にいた人間が、面倒そうに息を吐くなり。中の一人が、 「うるさい」 切り捨てるように言った。刹那。 ぎゃん、と獣のような声を上げ、どたんっ、大きな音を立てて何かが転がる。 しばらくして、怒気に満ちた声が轟いた。 「このようなことをして…、いつか、お前たち魔法使いのすべての罪に対して、天が罰の雷を下すだろう!」 なにひとつ負けていない、強い意志のこもった声だ。対して、はっきりとした嘲笑が返る。 「ドワーフ風情が、逃れることもできないくせに」 (ドワーフ?) 誰かが一人、立ち上がった。 とたん、また、咆哮に似た悲鳴が上がる。それは。 他者の誇りをねじ伏せ、優位に立つためだけに踏み躙る行為だ。 頭の芯が冷えていく。 そのくせ、腹の底は燃え上がるようで。 ああ、これは――――――――不快だ。 「それにこいつは人間じゃない。あく、ま…」 言いながらヒューゴを見下ろした相手が、口ごもる。 気絶していたはずのヒューゴと目が合ったからだ。 もとより、ヒューゴの腹の底では、耐え難いほどの憤りがくすぶっていた。 それを。 ―――――状況が、さらに煽り、加速させる。 (…このままでは済まさない) 縛められながらも起き上がろうとするなり。 「―――――目覚めているぞ!!」 ヒューゴと目があった男が叫ぶ。 刹那、ヒューゴの全身に衝撃。腹を、巨人の足にでも蹴飛ばされたような感覚に、虚を突かれ、吹っ飛んだ。 魔法だ。 壁に叩きつけられる。 否、身体が壁にのめり込んだ。 普通の人間だったなら、ほとんどの内臓がつぶれ、機能を停止しただろう。加減なしの力だった。 おかげでさらに、頭の芯が冷える。気分が、悪い意味で高揚した。いいだろう。 (ならこっちも、手加減なん、か…?) 思うと同時に、新たに手足へかけられようとした枷が、腐ったかのように落ちた、…のはいいのだが。 ―――――リィン…ッ。 神聖力の鎖までが、消えていくのに気付いた。 (…え…) 神聖力の鎖が、次第に消えていく。 ひとつ、ひとつ、水に溶けて流れるように。 ヒューゴは狼狽えた。 なぜだろう。 神聖力の鎖から解放され、自由だ、と喜んだのは、つい先日の話だ。 だが、今は。 縛めがなくなるのが怖かった。 真っ先に、ぽつん、と胸に浮かんだのは。 ―――――見捨てられた。 そんな気分だ。とはいえ。 よくよく考えれば、本当のところは容易に想像がついたはずだ。 リヒトがヒューゴを認識できる距離から外に、ヒューゴは出ているのだ。 である以上、神聖力の鎖が保持できない。 これはそういう、ものだった。 だが、この時ばかりは。 冷静でないヒューゴには、事実がねじ曲がって見えた。その上。 ヒューゴがリヒトから、これほどの距離を離れたことは、出会ってからこれまで一度だってなかった。 前例のない状況下、湧き上がるのは不安ばかりだ。 大体少し前、宴のパートナーは皇后にするよう、ヒューゴはリヒトに対して我を通した。 間違ったこととは思わないが、確実にリヒトには気に食わなかったろう。それに。 (主従の儀式のとき) リヒトは確かに、最後、何かを言いさした。 あのとき、何を言ったのか。 ヒューゴの耳には届かなかった。後で聞けばいいと思った。しかし、こうなると。 ―――――悪い予感ばかりが湧いてくる。

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