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幕・76 魔塔vs.魔竜

もともと燻っていた、意識が焼き切れるほどの猛烈な怒りが、ヒューゴの目を曇らせた。 (…こいつらのせいだ) 神聖力の鎖が消えていく。 それが、魔法使いらしい人間たちにも見えたようだ。 だがその視界も、たちまちのうちに霞む。 完全に解放されていく魔竜を中心に、一気に膨大な魔素の嵐が吹き荒れた。 ひやりとするほどの濃密さ。 目を開けていれば溶け落ちたろう。ろくに息も吸えなくなる。刹那。 ヒューゴと呼ばれる人間の姿は消え失せた。同時に。 ―――――ガアアアアアァァァアァ!!! 濁った咆哮が嵐のように、周囲を揺らした。 あまりの衝撃に、洞窟内の岩壁、その表面が崩れ、破片が舞い上がる。 瞬く間にそれらは砂塵と化し、消失―――――視界が明瞭になった。 何者かの魔法による光が点々と空間に舞い上がり、それにより浮き彫りにされたのは。 魔竜の姿だ。 大きさは、二階建ての建物程度。 なのに存在感は、皇宮に配された最も大きな宮殿にも勝る。 漆黒の鱗が魔法の光にきらきらと輝き、その巨体を彩った。 魔竜の片手には、しっかりと黒曜の刃を掴まれていた。 先ほど簡単にヒューゴの身を貫いた黒曜の刃は、今、魔竜の身を傷つけていない。今度こそはっきりとヒューゴを認識したように。 「―――――…竜…っ!」 分かり切ったことを誰かが叫んだ。 居合わせた五人の魔法使いを魔竜の濃紺の瞳が睥睨するなり、先を争うように魔法使いたちの姿が消えていく。 ―――――移動した。 名残のように、魔法陣の光の粒が風に流れて散った。 これで逃げられたと思っているのか? (浅慮) 魔竜となったヒューゴの目には、彼らがどこへ行ったかなど、一目瞭然。 精霊たちが、魔法の痕跡を追って「こっち、ここだよ」と素直に魔竜へ教えてくれる。 魔竜の求めに、喜んで導く。 のそり、魔竜は濃紺の目を細め、顔を上げた。 巨躯の感覚は、見た目に反して繊細だ。 ここが地下であり、地上には巨大な建設物が鎮座し、彼らがその一番上に移動したことは、手に取るように分かった。 ―――――逃がすものか。 思うなり。 「竜…いや、この力強く壮麗な肉体は、いつか壁画で見たことが…」 魔竜の遥か足元から、呆然とした声が上がった。 「もしや古代の―――――神龍…?」 渋い声で思い出す。 そうだ、先ほど、庇ってくれたドワーフがいた。 下方を覗き込むように見下ろせば、 「―――――…おお、おお、これは、まさに…っ」 首や手足に黒い枷をはめられた、ずんぐりむっくりした体形の、子供のように小さなヒトが、その場で祈るように両膝をついた。 「偉大なる存在に、拝謁、…いたします」 彼は、胸の前で両手を組み合わせ、一つの拳を作るようにして、首を垂れる。 なぜか、泣いているようだ。 滂沱の涙が、その頬を濡らしている。ただ。 少なくとも、恐怖からの反応には見えなかった。 どちらかと言えば、彼が流す涙の理由は―――――感動、に見える。 珍しい生き物に会えたから、だろうか? 『勇猛な戦士よ』 とっとと連中を追いかけ、制裁を加えたい。 その欲求に気は急くが、ドワーフを放っておくこともできなかった。 ヒューゴはできるだけそっと、驚かせないように古代語で呼びかける。悪魔の言葉の方が話しやすいが、それでは通じない。 『汝の誇り高き行いを讃え』 なんにしろ、このドワーフは、ヒューゴを庇おうとしてくれたのだ。 自身が理不尽な拘束を受け、不利な立場にいるにもかかわらず。 なんと、高貴な魂だろう。 『…癒しと解放を』 ―――――ドワーフさん、庇ってくれてありがとね! お礼に解放してあげる! ヒューゴとしては、単純にそのように告げたつもりだが、古代語はやはり、もったいぶっている。 どうにか五体満足ではあるが、彼はひどく疲れて見えた。 目は落ちくぼみ、立派な髭はぼさぼさ。 もとは筋骨隆々とした体格だったのだろう、身に着けた衣服は幾分か大きいのに、まとった肉体は、頼りないほどやせていた。 このような状態でも、先ほどのような気炎を吐いていたのだ。 頭が下がる。同時に。 踏み躙った相手に対する怒りは増すばかり。 ヒューゴの中に、自身に対する無礼への怒りはあまりなかった。 許せないのは黒曜の刃をどうやって手に入れたかは知らないが、それを使用したことだ。 同じくらい、このドワーフへの暴挙も許せなかった。 目の前にいる存在の解放を、ヒューゴが考えただけで、事態は動いた。 音を立てて、ドワーフから枷が外れる。 地に落ちる前に、塵となって消えた。 それが強烈な呪具だとヒューゴが感覚の端っこで感じ取った時には、ドワーフが負っていた傷も、呪いからくる病もきれいに失せている。 ―――――じゃあね、もう捕まっちゃダメだよ! 『さらばだ』 言うなり、魔竜の力はドワーフを地上へ送り出したが、 「お、お待ちをっ、図々しいことを承知で、お願いが…!」 彼が何かを言いさした。 あ、と思った時には、時すでに遅し。 ドワーフの姿は消えている。少し間の抜けた沈黙が、残った魔竜の周囲に満ちた。 とはいえ、それでよかったのかもしれない。 今のヒューゴにのんびり話をする余裕はなかった。 もう気持ちは既に、気に食わないものをひねりつぶす方にばかり向いている。 ―――――ここは地下だ。 このまま頭上を突き破っても構わないが、ヒューゴの感覚上、一応、この上には建造物がある。 そして、中では大勢の人間がいるようだ。 ならば、仕方がない。 ―――――地上へ。 思うだけで、コトは済んだ。 ブンッ、といっきに複数、輝く魔法陣が、魔竜の周囲に描き出される。 それが虹色の光の粒を放ったとたん。 ―――――魔竜の身体を、夜風が舞い包む。同時に。 背で翼が広がった。 ばさり、一度大きく羽ばたけば、一瞬で巨大な建造物を数階分飛び越えた。 横目に見えた建造物の正体を、誰に言われるまでもなく、ヒューゴは察する。 魔塔。 (それも、オリエス帝国の魔塔だ。遠くから見た覚えがある) ならばまだヒューゴはオリエス帝国内にいるのだ。 そのことに安堵する。なんにしろ。 魔塔ならばこのまま単純に最上階まではたどり着けまい。 とたん、それが面倒、というより、期待するような不敵な笑みが、魔竜の口元に浮かんだ。

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