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幕・83 翼があるのに落ちた

リヒトの神聖力と悪魔の力―――――即ち魔竜の力は存外、上手に混ざり合うのだ。 その証明が、オリエス皇城を守る結界である。 どんな条件があるのかは分からないが、ああいうとき、リヒトの神聖力はヒューゴの魔力を打ち消したりしない。 消し去るのではない。 混ぜ合わせれば、きっと別の可能性が現れるはず。 「待て、魔竜。それこそ、そもそも、前提が間違っているのではないか?」 サイファは眉をひそめた。 「前提?」 彼の眉間に寄った縦皺を眺めながら、ヒューゴは瞬きする。 「どのへんが?」 「つまり、オリエス皇帝の神聖力と魔竜の魔力が打ち消し合わないのは、単に」 ―――――二人が愛し合っているからではないのか? 言いさし、一瞬、サイファは言葉に詰まった。 なぜそのように感じてしまったか、彼自身うまく説明ができない。 だが、どこまでも相手を受け入れる、二人のお互いに対する懐深い対応は、愛情以外に考えられなかった。 もちろん、二人が共にいる様子を見たことなどないし、流れる噂はすべて皇帝と悪魔の関係を肯定的には語っていない。 それでも。 力の現れ方によって、二人の関係が証明されているのではないかと思うのだ。だが。 (…まさか、悪魔が?) この一点が問題…とても大きな問題だった。 魔竜を見上げ、サイファはひとまず言葉を選びなおした。 「…お互いが特別だからではないのか?」 「トクベツ?」 「なのだろう?」 「うんまあ、あの子のことは小さな頃から知ってるし」 それまで強気で話していた魔竜が、なぜかいきなり弱気になって、小さく呟いた。 「何をしてほしいにしたって、リヒトに断られたら、それまでだけど」 おかしなことを言う、とサイファは内心首を傾げる。 あれほど魔竜に執着を見せる皇帝が、魔竜の願いを断るわけがない。ただ、だからこそ。 「危険だ」 サイファは厳しく言い放つ。 「黒曜の刃が? でもどう転ぶにしたって、暴走はしないと思うよ」 魔竜が戸惑ったように言った。サイファはどう言えば通じるか、と言葉を考える。 「それは同意見だ。私が言いたいのは、皇帝の方だ」 「…リヒトはすごい子だよ。失敗とかはないと思うけど」 ちょっとムッとした魔竜に、あきれ顔でサイファ。 「知っている。皇帝の実力を侮る気はない。ただ、別の問題があってな」 サイファの足元に膝を抱えて座り込み、ダリルは古なじみの彼と、魔竜を交互に見遣る。 魔竜がいる空間にいるだけでも身がやせ細る思いだが、会話に混ざらなくていいのが一番だ。 なんと気楽なことだろう。…思った矢先。 「オリエス皇帝は、今、神への位階を昇ることができる状態にある」 深刻さも他人事、と思っていたダリルはサイファの言葉を聞いた刹那、「んん…っ」と声を漏らす。 これは、聞いていてもいいのだろうか。 しかし、サイファも魔竜も、既にその意識からダリルの存在を消していた。 退場したくとも、双方の意識を退くのが怖くて、ダリルは動くこともできない。 「彼をあのようにしたのは君だろう。どういうつもりか知らないが、何がきっかけで人間の皮を脱ぎ捨てるか分からないぞ」 「…それで?」 切羽詰まったサイファの声に、魔竜は不思議そうに首を傾げる。 知っていたのかいないのか、驚いた様子もない。 「神になれば、何が変わる?」 「…すべてだ」 大きく息を吐きながら、サイファ。 「変化は、神となった者だけにもたらされるのではない。世界も変わる。なにせ神は」 サイファは低く呻くように告げる。 「気持ち一つで、理を書き換えるのだから」 不可能を、可能へ。 可能を、不可能へ。 生きる者、誰もが一度は心の底から、強く拳を握りしめて願うこと。 ―――――世界創世の日から、定められた事象を、覆したい。 神ともなれば、…それが可能になる。 それを許された存在、それこそが――――――神。 ただし、そんなことが可能になってしまえば、世界は無茶苦茶になる。 よって、サイファは判断しかねていた。 危険の芽を摘むためにも、皇帝は殺してしまうべきではないのか。 彼の深刻な胸の内とは裏腹に。 魔竜は退屈したように呟いた。 「なんだ、それっぽっちか」 サイファは顔をしかめる。 「魔竜」 「いらない心配だ。あの子は、望まないよ。いや、願わないと言った方がいい」 なぜか、魔竜は落胆した態度で呟いた。 「そこまでして何かを変えたいと思うほど、強い願いを持っていないんだ。昔から」 ゆえに、神になりたいなどと、間違っても思わないだろう。 そのように、魔竜は告げたのだが。 ひとつだけ。 オリエス皇帝・リヒトは、ただ一つだけ、強く願い、望むことがあった。 それは。 ―――――愛で死ぬ悪魔に、愛を告げること。分かち合うこと。 理を塗り替えたなら、それが叶うと、もし彼が知ったなら。 「…魔竜の言葉が事実なら、いいのだが」 思慮深げに目を伏せ、サイファはため息をつく。 「だとして、黒曜の刃の扱いに失敗すれば、また亀裂が生じるぞ」 「けど、かつての亀裂は閉じただろう」 「それだが」 サイファは眉をひそめた。 「アレはどうやって閉じたのだ。君は知っているか」 楽園と地獄の戦いが始まる原因となった亀裂、それはある日唐突に消滅した。 ゆえに。 御使いは地獄を攻める理由をなくした。 楽園と地獄を繋ぐ扉は御使いたちによって閉ざされ―――――悪魔たちによって破壊された。 「ああ、あれか」 何でもないことのように頷き、魔竜は唐突に、ある悪魔の名を挙げる。 「混沌。知っているか」 「―――――上位の悪魔個体のひとつだ」 「亀裂を閉じたのは、アレの身体の一部だ」 しれっと、魔竜。 「からだ…いや、身体と言ったのか、今?」 異国の言葉でも聞いたように、サイファ。 「あいつの身体って、際限なしに大きくなるんだよ」 天気の話でもするように言いつつ、嫌なことでも思い出したか、ちょっと顔をしかめる魔竜。 「だから一部くらい、亀裂を埋めるのに使ってみようって提案したらうまく行ったんだ」 場に居合わせた全員が、何を聞いたか分からない、といった表情になったのも無理はない。 だがそれ以上の説明は不要、とばかりに。 「じゃ、また連絡するよ」 尻尾を一振り。 片手に握っていた漆黒の刃を横に寝かせた状態で、ぱくり、口に咥えて。 魔竜はちょっと片手を振った。かと思いきや。 ひょい、と後ろに飛ぶ。次いで。 ―――――落下。 ダリルはギョッとなった。 「おおおおおお落ちたっ!? 翼があるのにぃっ?」 それぞれの胸中を代弁した彼の絶叫直後。 ―――――ドォンッ!!! 凄まじい音が下方から轟いた。 同時に、魔塔が派手に揺れる。 座っていることすら難しく、足元に這い蹲った、ダリルの視界の隅に。 月光を鱗で弾きながら飛翔する、魔竜の後姿が映った。その大きさは、既に豆粒程度だ。 ダリルは唖然となった。 ほとんど一瞬の間に、そこまでの距離を飛翔したと言うのか。 ならば、先ほどの音は。 冷静になった頭が命じるままに、魔塔の状態を探ったダリルは、一部の階層の壁がひどく抉れていることを探知した。 おそらく、魔竜はそこから飛び立ったのだ。 揺れをものともせず立っていたサイファは、気の毒そうにダリルを見下ろした。 何とも言えない気分で見つめ合う。 やがて、サイファはできる限り優しく告げた。 「諦めが肝心だ」

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