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幕・85 お家に鍵がかかっているので
改めて、光の鳥籠の中へ閉じ込めた聖女を見下ろす。
「…ヒューゴをどこへ隠した」
「隠してはおりません、陛下」
逃げ場もない状態で、聖女エミリアは丁寧に頭を下げた。
「お喜びください、あの悪魔は消滅したのです」
刹那、跪いていた騎士たちがざわめく中、
「ばかな」
厳しい声を上げたのは御使いユリウスだ。
「違うでしょう、エミリア」
鋭く指摘。
「彼がどうなったのかは、あなただってわかっていない」
「目の前で消えたのは、間違いありません」
「確証もないことを、さも事実のように言うのは感心しません」
「ならば自ら消えたのかもしれませんね」
エミリアは、優しげに、噛んで含めるように言った。
「これにだって、確証はございませんけど」
ユリウスは何かを言いさし、結局口を噤んだ。
その通り、どれも、証拠はない。
どうやら聖女とは話になりそうになかった。ユリウスは急いで周囲に視線を走らせる。
サイファがいれば、また状況が違ってくるはずだ。だが途中ではぐれたきり、姿が見えない。
(どこにいる)
状況は良くなかった。
「それ以上虚言を弄するなら、舌を切り落とすぞ」
皇帝リヒトの淡々とした声で紡がれた言葉は、脅しなどではない。
(本気だ)
「私が望むのは、真実だ」
「―――――陛下」
聖女は、その儚げな面立ちに、かなしみを浮かべた。
とたん、リヒトの胸中を苛立ちが嵐のようにわきおこる。ただし周りから見れば、彼の表情には一つの変化もない。
だから誰も、リヒトが胸中で口汚く罵った言葉を想像もできなかったろう。
(この女はどうして、こうやって、被害者となるのが巧いのか)
「あの悪魔に、そこまで、洗脳されていらっしゃるのですね」
その上、彼女には言葉が通じない。
自分の見たいものしか見ない。
現実を直視しない。
こうまで愚かな者が、どうやって今まで聖女でいられたのか。
リヒトには理解できない。
少なくとも、エミリアは見た目だけは完璧に聖女らしく、
「大丈夫です、陛下」
エミリアは慈悲深い声で囁き、思いやり深い態度で、リヒトを見上げる。
「汚れた悪魔の一方的な洗脳など、わたしが解いて差し上げます」
「エミリア」
居たたまれないような声を上げたのは、彼女と共に閉じ込められた御使いの方だ。
「陛下の言葉をちゃんと聞きなさい。会話になっていないではないか」
御使い・ユリウスは、状況の危うさに血の気が引く思いだった。
賢明な聖女はどこへ行ったのか。ここにいるのは、恋に目がくらんだ愚かな娘だ。
聖女たる立場を思い起こさせようとしたユリウスの言葉は、しかし、当然ながら少女の反感を買っただけだった。
エミリアは、毅然と告げる。
「わたしは聖女としての役目をまっとうしているだけです」
悪魔の駆逐もまた、聖女の仕事。
聞くなり、ユリウスは自身の失敗を悟った。
彼が横から口を挟むことで、状況が改善するどころか、
(…最悪だ…っ)
皇帝リヒトの様子が、ますます常軌を逸していく。
纏う空気が張り詰め、硬質化しながら、濃度を増した。
…光輝が満ちる。満ちて、満ちて、満ちて―――――終わりが見えない。
息苦しさに、ユリウスは膝をついた。
御使いである彼でさえそうなのだ。人間には、たまったものではないだろう。
とはいえ、この場に集った騎士たちは、この皇帝についてきた者たちだ。
他よりよほど耐性があるのだろう。気絶などという醜態をさらす人間は幸いまだ出ていない。
気絶しているのは、魔竜の覇気に耐え切れなかった者だけだ。
(神聖力が、破裂しそうなほど膨れ上がっている)
力の性質上、暴走はしないだろうが、これほど濃密になると、支障が出てくる。
どれほど効能がある薬でも、容量を間違えれば毒になるように、過ぎた清浄さは人間の肉体に害をもたらすのだ。
その時になってユリウスは思い出す。
皇帝リヒトは、まかり間違えば、神への位階へいつだって登れる位置に立っていることを。
ユリウスの危ぶむ眼差しの先で、リヒトは、聖女から視線を切った。
切り捨てるように。
いや、端からリヒトの目には、エミリアなど映っていない。
「…へいか」
弱く震える声で、エミリアが彼を呼んだ。
焦がれるように。
そのくせ、わずかな怒りを含んだ声だ。
決して、その声が届かないと知っているかのように。
(そうだ、端から、この皇帝には、他者の声など遠い潮騒のようなもの)
皇帝リヒトは―――――どこか遠いところに立っている印象がある。
そこに、いるのに。
皇帝という立場にあるのに。
何にも縛られていない、…肉体も、命すら彼をつなぎとめるには足りない、遠い、遠い、存在に見えた。そう、もし。
―――――神という存在があったなら、こうだったかもしれない。
確かにそこにいるのに、居ない。
見ているのに、視線が合わない。
だからこそ。
伸ばさずにいられないのだ。手を。
リヒトは周囲の視線に気づいた様子もなく、…真っ直ぐに、夜空を見上げ。
魂が抜けたような様子で呟く。
「――――――どこにいる」
刹那。
その足元で、しょんぼりしていた愛らしい兎の耳が、ピン、と立った。
『接近してきます』
事務的な声だ。
『外部から、凄まじい速さで、飛来するものがございます』
兎が顔を上げる。
聴いているのかいないのか、リヒトは動かない。
構わず、兎は続けた。
『敵性反応なし。攻撃の気配なし。迎撃準備…―――――いや、あれは』
ルビーのような赤い瞳に、遠い場所の何が見えたか、ぴょんと兎が飛び跳ねる。
『竜!!』
その言葉と同時に。
―――――ヒュォッ!
風を切る音と共に、皇宮の上空を、月下、ぐるりと回った大きな影がある。
一回、二回。
ほとんど目で追えない速さだ。視界には影しか残らない。
二回、回った後。
ソレは皇帝がいる皇宮北側の上空に止まった。
皇宮の上空、結界が設定されている高度は、思ったより高く、その影も遠いはずだが、形がはっきりと分かった。
それほど大きいと言うことだ。
夜闇、月光の頼りない明るさの中でもよくわかるほど。
しなやかで長い尾。
左右に広く打ち広がった翼。
勇壮な姿。
―――――竜。
それがいきなり、リヒトたちが見上げる頭上、結界に張り付くようにするなり。
『あうっ』
突如、足元で兎が驚いたような、間の抜けた声を上げる。
頭を抱え、小さくなった。
リヒトは頭上の影を見上げたまま、動かない。
兎が情けない声を上げた。
『痛いですぅ。尻尾で叩かないでください…。え、開けろ、ですかぁ?』
よくよく竜を見れば、確かに尻尾が元気よく動いている。
―――――べしべしべし!
その連撃に、兎が今度は仰け反りながら、あっ、あっ、と声を上げた。
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