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幕・86 悪魔の帰還と姫抱っこ

『え? はい、できます、可能です、ですが』 事務的で理知を感じさせる口調はどこへやら、兎はほとほと弱り切った態度で呟く。 独り言のようだがこれは、結界に張り付いたあの竜と対話しているのだろう。 『結界を開けてしまった場合、外敵に対して無防備になります。継続的に遮断している覗き見の目や耳、それから刺客や呪詛に対して』 「ツクヨミ」 難点を細かく上げ始めた兎に、リヒトが一言。 「結界を解け。一瞬でいい」 とたん、ツクヨミは口を閉ざした。紳士らしく一礼。 『御意』 言うなり、一瞬の躊躇いもなく、一言。 『解除します』 刹那。 目の前で空気の色が転じたような変貌を感じ、悪酔いしたような感覚に、誰しもがめまいを覚えた時。 竜が空中でつんのめったように、ころり、一回転。―――――頭から落下。 その巨体が、このままなら、騎士棟の真上に落ちてくる。 騎士たちが逃げるべきか迎撃すべきか悩んだとたん。 『閉ざします』 ツクヨミが告げ、瞬間、竜の影が唐突にふっと消える。同時に。 「落下地点を教えろ」 リヒトがツクヨミに命令。兎は従順に動いた。 ぴょんぴょん跳ねて、リヒトを誘導。 ついて行きながら上を見上げていた皇帝の目に何が映ったのか。 「…戻ったか…!」 彼の顔に、輝くような喜色が満ちた。 とたん、皇帝がようやっと、他人の目にも、肉をまとって立っている実在の人間として認識される。 同時に、周囲を満たしていた神聖力が、淡い光となって地上で弾けた。 と見るなり、 「うわあ!」 頭上の遠い場所から、驚いたような声が上がった。何事か、とユリウスが顔を上げたとたん。 ―――――シャラッ。…ジャラララララッ! 空中で、神聖力の鎖が何かに絡みつくのが見えた。 それは人の姿をしているようだ、と思った時には。 「なんなのっ」 先ほどと同じ声がすぐ近くで聴こえ―――――兎が立ち止まる。 そこで、リヒトも立ち止まった。 何かを抱えるように腕を伸ばす。 すると、狙ったようにそこへ―――――一人の青年が落ちた。 黒髪。 濃紺の瞳。 褐色の肌。 そして、…騎士の制服を着ていた。 彼は、危なげなく自身を抱き留めたリヒトを、びっくりしたような目で見上げ、 「おお…、リヒト、格好いい! 惚れちゃいそう」 子供のように笑って、嬉しそうに手を叩いた。 「ならば責任を取ろう」 リヒトは表情を変えないまま、とんでもない言葉を返す。 直後、おやとヒューゴを見直した。 「惚れるのはありなのか」 「ダメなのか?」 ちょっとショックを受けた様子のヒューゴに、 「む…、いくらでも構わないが」 惚気なのか、何なのか。 応じるリヒトの態度があまりに真剣で、見ていると周囲は居たたまれなくなる。 にも関わらずヒューゴは慣れているのか、 「リヒト最高」 茶化すように顔全体で笑った。 たちまち、驚くほど格好いい顔立ちが崩れて、愛嬌が全開になる。 ただ。 「知っている」 優しげに頷く皇帝に、なんというのか、雰囲気があり過ぎて―――――閨の睦言を交わしているような雰囲気に、場が一瞬で変貌してしまった。 たとえば、今、ヒューゴがいる場所に女性がいたなら、一瞬で骨抜きだったかもしれない。 「ところで、なんでまた神聖力の鎖を巻き付けたんだ? さっき、いきなり消えたからリヒトが外したのかと」 恐る恐ると言ったヒューゴの問いに、リヒトは顔をしかめた。 「なぜ僕が外さなきゃならないんだ?」 「じゃ、なんで消えたんだ?」 「ヒューゴがどこにいるのか、感覚で掴めなくなったんだ。…どこにいたんだ?」 不思議そうなヒューゴの顔を覗き込み、不機嫌そうにリヒト。 とたん、なぜか嬉しそうに、ヒューゴは微笑んだ。 「そっか…俺見捨てられたんじゃなかったんだ」 「見捨てる? 何の話だ」 「いいんだ、俺の思い込みの話だよ。実はさっきまで、俺、魔塔にいてさ」 「魔塔だと?」 刺され、姿を消したヒューゴが、魔塔にいたとは。 なんとなく、その場にいた全員の眼差しが、倒れる異形の亡骸へ向いた。 彼らの疑念を肯定するように、ヒューゴは頷く。 「今日、皇宮で生じた異形に、多分魔塔の魔法使いが関わってる感じだったからさ。魔塔から答えがほしかったんだけど、ただ、塔主が、埒が明かなくって」 ヒューゴは唇を尖らせた。 「ちょっと若手にすげ替えてきたんだけど、よかったか?」 「塔主の交代になど問題は感じない」 やらかした後の事後承諾に、怒るどころか、皇帝は、さらりと答える。 いや、大問題のはずである。 だがここはオリエス帝国。 皇帝がいいと言うなら、それで通る。 「有能であるならば、誰でもよい。…なるほど、魔塔の魔法使いか。今回の出来事に、関わるなら、彼らしかないだろうな」 「俺を刺した短剣もそいつらが関わってたみたいでさ。短剣の性質を利用して、俺、魔塔へ飛ばされたんだよね。連中、俺を解体して金にしたかったみたい。そこらへん、新しい塔主が色々調べてくれるってさ」 リヒトは穏やかに頷いた。 「そうか、時が来たんだな」 「え、何の?」 まさかリヒトも俺を解体したいの、と胡乱な目でヒューゴ。とたん、 「この大陸から、いや、世界から、魔法使いを根絶やしにする時だ」 リヒトは斜め上にぶっ飛んだことを言った。 始末に負えないのは、リヒトならやろうと思ったらやれそうなところだ。 「永遠に来ないから。やりたいなら、自分でするから」 「ヒューゴ」 「なに」 「たまには甘えてくれてもいいんだぞ」 心底から、気遣う表情と態度で、リヒト。 いやいやいや、とヒューゴは首を激しく横に振る。

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