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幕・87 ただいまの理由

「ところでなんで、皇宮へ戻ってきたんだ?」 「へ?」 言いにくそうに、リヒト。 「いや、すまない。ただ、自由になったらお前は、地獄に帰ってしまうかと…」 「そうそう、それなんだけどさ」 色のある雰囲気に、周囲の人間がそわそわする中、ヒューゴは普通にリヒトの胸を押し、下ろしてくれと要求した。 自分の足で立つヒューゴの姿に、どこかを痛がったり、苦しそうな様子などは見えない。 確かに刺されたはずだが、彼の体調に問題はないようだ。 不意に、思い出したようにヒューゴは言う。 「あ、そうだ、ただいま」 「…おかえり」 心底嬉しそうな笑顔のヒューゴに、リヒトは目を細めた。 その目の前に、ひょいとヒューゴがどこからともなく取り出して見せたのは―――――短剣。 ユリウスは息を呑む。 なにせヒューゴが取り出したそれは、黒曜の刃だったからだ。 実に無造作な扱いに、肝が冷える。 「リヒト、コレ、どうにかならないかな」 それがどういう曰くのものなのか。 『どうにかならないか』というのが、どうしてほしいことなのか。 色々な説明がすっぽ抜けたヒューゴに、それでもリヒトは短剣に目を向けた。 一瞥しただけで、 「…なんだ、これは?」 何かを察した態度で、呟く。 尋ねるように、ヒューゴを見遣った。 「何だと思う?」 謎かけのように、ヒューゴ。 だが、彼にリヒトを惑わせる意図はなかった。 どこか、ほとほと困っているように見える。 そんなヒューゴを、じーっと見つめ、リヒトは低い声で言った。 「…なるほど、これを何とかしてほしいから、皇宮へ戻った、と」 微妙な確認だ。 周囲で後始末に動いていた騎士たちが、ちらちらと彼らの様子を窺う。 果たして、ヒューゴは弱り切った顔で頷いた。 「うん」 とたん。 二人の方を見ていた騎士たちは、さっと顔を伏せ、黙々と作業に専念する。 さもありなん。 一瞬で、皇帝の瞳に苛立ちが弾け、短剣に向けた黄金色は―――――心臓の弱い者なら刹那に昇天しそうなほど怖かった。 リュクスがいたなら、こう言ったことだろう。 ―――――短剣にまで嫉妬しないでよ。 「僕に会いたいからではなかったと」 皇帝が求める言葉を察した騎士たちはいっとき、ひやりとし、 「会いたかったよ?」 これまた素直に答えたヒューゴに、胸をなでおろした。 「む…」 リヒトの空気が和らぎ、改めて短剣を見遣る。 「…そうだな」 大きく息をつき、自身を落ち着かせようとするように、軽く頭を振って、リヒト。 「これが何かは分からないが、―――――浄化が必要だとは思う」 「浄化?」 ヒューゴは濃紺の瞳を瞠った。 「浄化するとどうなるんだ? そんなことしたら、短剣自体が消えないか?」 それを防ぎたくてここまで持ってきたのに、消されてしまっては黒曜があまりにかわいそうだ。 それしか手がないなら、そうするしかないのかもしれないが。 「消えない」 きっぱり、リヒトは断言した。 「ただ、元の姿に戻るだけだ」 「つまり?」 「どうもこれは、際限なく、手当たり次第に魔力を吸い込んでいるようだ。…いいか?」 短剣に手を伸ばしかけ、途中で、リヒトはヒューゴの了解を取る。 ヒューゴが頷くのを待って、短剣に触れる寸前で手を止めた。 「要するにこの状態は、本来の姿じゃないのか?」 リヒトが神聖力を短剣に流し込むのを、ヒューゴははらはら見守る。 「これは、魔力を吸い込む器のようだ。しかも底が見えない。つまりは無尽蔵」 「俺とするみたいに、リヒトの神聖力とこの魔力を混ぜ合わせるってできないかな」 「ヒューゴ以外とは難しいな。魔力にとっかかりがないのだ。それにこの短剣は」 思慮深い黄金の目を短剣に落とし、リヒトは首をひねった。 「魔力の器であって、魔力そのものではない。…変わったことにな」 「…こいつには魔力が必要ない、それが答えなのか?」 「必要はないだろうな。ただ、ため込んでしまうのだ。そしてため込んだ魔力が、その量ゆえに、思わぬ方向へ働く。―――――仕上げだ、ヒューゴは少し、目を閉じろ」 悪魔に、神聖力は致死の毒。 リヒトの気遣いに、ヒューゴは素直に目を閉じた。とたん。 手の内にある短剣が、ふいに、そこにないもののように軽くなる。 「…いいぞ」 リヒトの許可に、目を開けたヒューゴは、 「おお」 短剣の変わりように驚いた。 変わらず、きらびやかな短剣ではあるものの、艶やかな妖しさがすぽっと抜け落ちている。要するに。 ―――――普通の短剣だった。 誰が、想像するだろう。これがかつて、世界を滅ぼしかけた力の片鱗だと。 呆気にとられると同時に、ヒューゴの胸の片隅が痛み、悔しい気持ちが湧き上がる。 おそらく、今リヒトが告げたのは、黒曜がどういう存在だったか、ということだ。 同じ悪魔たちには、それが分からなかった。 黒曜は、ヒューゴが出会った時から、膨大な魔力を有していたから、端からそういう存在だと思い込んでいた。 それが、他から吸収され、勝手にたまった魔力だと分かったのは、強い神聖力を宿すリヒトだからこそだろう。 黒曜は強かった。 そして、おそらく殺せば殺すほど、殺した相手の魔力を吸い上げていき、―――――やがてため込まれたそれが世界を滅ぼしかけた。 あの頃もし、黒曜の本質に気付けていたなら。 ヒューゴは短剣を強く握りなおした。 過ぎたことを思っても仕方がない。 後悔は残るが、今、遠い昔に置き去りにした何かを、ようやく取りに行けたような、物寂しさの中で、ひとつの区切りがついた気がした。 ヒューゴの表情を見遣り、リヒトが囁く。 「気をつけろ、ヒューゴ。今、普通の短剣に見えるそれは、魔力を無尽蔵に吸い込む。悪魔が持つには危険な代物だ」 ヒューゴが神妙に頷くなり、 「…それは楽園で預かった方がいいと思うのですが」 そっと声を上げたのは御使い・ユリウスだ。 ようやく彼の存在を思い出したらしいヒューゴが顔を上げ、…ぎょっとしたように光る鳥籠を見遣った。 「え、なにその状況…ってか、リヒト、これを普通の人に使ったの? だめじゃん」

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