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幕・88 今夜、はじめての完敗
この光る鳥籠は、リヒトの神聖力とヒューゴの魔力が交じり合うことに気付いたのがきっかけで、面白半分に作成したシロモノだ。
大きさも調整可能で、最大、中型の魔獣百頭分くらいは優に入れる。
つまり、相手が御使い、そして聖女とはいえ、使うにしてはちょっと大げさと言えた。
「普通の人? 罪人が?」
冷たい声に、ヒューゴは聖女に刺されたことを思い出す。
なんだか、エミリアを見るのが怖い。
きっと、いつものように微笑んでいるだろう。そしてヒューゴを見る目は、彼を全否定しているに違いない。
リヒトの言葉は聞き流し、ヒューゴはエミリアを視界から努力して外しながらユリウスに言った。
「悪いけど、俺は楽園を信用できない。黒曜の刃は、一旦、俺が預かるよ」
「しかし…」
何かを言いさしたユリウスは、すぐ、言葉を飲み込み、頷く。
「…いえ、分かりました」
彼はおそらく、頭が回るタイプだ。
そして、長い物におとなしく巻かれる性格でもない。
どうにかして真実を見て、自身の力で判断しようとする男だろう。だからこそ、こうして中間界へ派遣されたのだ。
そんな青年から見ても、もし彼が黒曜の刃を持って帰ったとしても、楽園がうまく扱えるかどうか、確証が持てなかったに違いない。
(組織ってのは、長く続きすぎれば腐るものだからな)
ダメもとで、ヒューゴは言ってみた。
「ただそっちでも、今回、黒曜の刃に関わったものを洗い出してくれると助かる」
ユリウスは答えなかった。ただ、黙ってヒューゴを見返す。
都合のいい言葉というのは、分かっていた。
協力は無理かもしれない。
半ば諦め、ヒューゴはリヒトへ目を戻した。
「ところで、リヒト、ツクヨミ。さっき、自分の魔力で即席で制服再現したんだけど、おかしなところないか?」
言って、その場でくるり、一回転。
直後、冗談半分、ポーズをとって、ヒューゴは茶目っ気溢れるウィンクをひとつ。
通常なら滑稽になりそうなもので、ヒューゴ自身、深刻な空気を茶化すために、滑ることを狙ってやったのだが、びっくりするくらい、絵になった。
リヒトとツクヨミをはじめ、見ていた騎士の数人が感嘆のあまり、まばらに拍手をする。
狙いと違う結果に、微妙な気分でポーズを解くヒューゴ。
(笑われるか馬鹿にされるかと思ったのに…)
実のところヒューゴが着ていた普段のボロ服も、彼が魔力で構成したものだった。
ボロではあるが、ある意味変えの利かない高級品だったのだ。
もしエミリアに刺された時、ヒューゴが、騎士の服ではなく、自身の魔力で構成した服を着ていれば、黒曜の刃でも簡単には通らなかったかもしれない。
ヒューゴは気を取り直して尋ねた。
「作ってもらった服は血塗れな上、穴が開いたし、竜体にもなったからさ、もう残ってないんだ。だから魔力で作ってみたんだけど、どう?」
悩ましそうな様子で、リヒト。
「ヒューゴが最高だから、何を着ても最高だとしか」
ヒューゴはつい、半眼になる。
「それが本音ならどうして、服を作るとき、あんなに針子たちを追い詰めたんだ。ツクヨミは?」
ヒューゴは足元の兎と視線を合わせるように跪いた。
『少々、デザインが異なるように感じますが、』
ルビーのような目で、リヒトを見上げ、
『マスターがいいのなら、それがすべてです』
ツクヨミは正しかった。帝国では、皇帝の意向がすべてだ。
ヒューゴは頷き、立ち上がる。
改まった態度で、リヒトから一歩距離を取った。
仕切り直すように、丁寧な口調で言う。
「陛下、今は宴の最中なのでは」
今まで散々呼び捨てておいて、今更とは思うが、それでも、互いの立場というものがある。
「お戻りになられたほうがよろしいかと」
ヒューゴの提案に、思い出したようにリヒトは頷いた。
「…そうだな。場の収拾は任せても構わないか?」
近くに控えていた初老の副将軍にリヒトが声をかければ、リカルドに負けない見事な体躯の彼は、好々爺然とした様子でにこり。
「おかげさまで、異形の制圧は済んでおります。この場にいる者だけで支障はございません」
見渡せば、確かに、異形たちはすべて、事切れていた。
(彼らはおそらく、もともと人間…捕虜たちだろうけど)
証拠がない。
こうまで姿が変われば、確かめようもなかった。
そこまで思ったヒューゴは、ふと、思いついて、倒れ込んだ一体に近づいた。
「皇帝陛下。この短剣は、魔力を吸うのですよね?」
黒曜の意思だろう、短剣がヒューゴを傷つけることはなさそうだが、確かに悪魔にとってこの短剣はこの上ない脅威だ。
リヒトはなんでもないように頷いた。
「ああ」
だがそれも、使いようによっては。
「…なるほど。それならば、」
事切れた異形、その胸に、ヒューゴは無言で短剣を突き立てた。
「―――――こういうのは、どうでしょうか」
刹那。
―――――ず、ず、ず…っ。
血でも啜るような音と共に、その身体から、魔力が吸い上げられていく。
見ていたエミリアが口元を覆った。
騎士たちが、おぞましさに耐えるような表情を浮かべる。
しばらくして、彼らの視界の中で。
異形が―――――次第に人間の姿へ変貌していくのに、ざわめきがさざ波のように広がっていく。
ヒューゴは、完全に人間の姿へ変わった相手から短剣を抜き、真剣な顔で、周囲を見渡した。
「この場に、捕虜の顔を覚えてる人はいますか?」
「…検分いたします」
前へ出たのは、副将軍だ。
まじまじと、死体が浮かべる苦悶の表情を見下ろし、深く息を吐きだした。
「間違いございません。捕虜の一人ですな」
「そうですか。…全員、戻しましょうか」
異形たちの亡骸を見渡し、痛ましい気分でヒューゴが言うのに、
「いえ、あとでよろしいでしょう」
副将軍は首を横に振った。
「…今は、宴の席を無事に終わらせることが重要かと」
今日の宴は、勝戦の宴だ。不吉を残して客を帰し、終わらせるわけにはいかない。
「副将軍」
リヒトの呼びかけに、彼は皇帝に向き直った。
「聖女と御使いを門へ送って差し上げろ。丁重にな」
言葉と同時に、光の鳥籠が夜闇に溶けて消える。
エミリアは咄嗟に何かを訴えるように顔を上げたが、ユリウスが彼女の行動を阻んだ。
彼女は唇を噛み、俯いた。
「沙汰を待ちなさい」
彼らの方は見ないまま、リヒトは告げ、近くにいた騎士が彼らを促すように、複数、周囲に立って誘導する。
「…よろしいので?」
ひそり、副将軍が囁いた。
「あの方は、オリエス帝国の騎士を殺そうとしたのですよ」
言われ、その言葉に驚いたのはヒューゴだ。
彼にとっては、聖女が悪魔を退治しようとした、という認識しかなかった。それが。
(そうか、俺はもう騎士だから、聖女の行動は、大げさに言えば、国への敵対とも取れてしまうのか)
世の中って難しい。
ヒューゴ自身は、仕方のないことで終わってしまうのだが、騎士という立場が彼にある以上、そちらが何事もなかった、では終わらせてくれない。
「無罪放免というわけにはいかないが、罰は後日だ。今日はこれ以上の問題を作らない方がいいだろう」
頭を冷やす時間が必要だと告げたリヒトに、副将軍は折り目正しく礼をした。
聖女がいた場所から短剣の鞘を取り上げたヒューゴは、彼に尋ねる。
「副将軍閣下、エイダンの背負い籠はお手元に?」
ヒューゴが言えば、彼は髭を扱きながら神妙に頷いた。
「届いています。例の薬包紙も回収済みなので、さっそく調べに取り掛かるとしましょう」
それらの声を遠くに聴きながら、立ち去るユリウスは大きく息を吐く。
どうやら、破滅的な状況は回避できたようだ。
ちらと見下ろせば、ヒューゴの無事にもっと騒ぐかと思ったエミリアは、優しげな表情で沈黙している。重い沈黙だ。
さすがに、この場面で騒ぎ立てることは愚かだと理解しているのだろう。
ユリウスは眉をひそめる。
詳細は不明だが、今回の黒幕、おそらくは皇后に違いないが、見事なほど状況は聖女にとって不利だ。
ヒューゴを刺したのが…つまりは実行犯が彼女である以上、仕方がない話だが。
「陛下」
先ほどまでの人懐こい態度はどこへやら、ヒューゴは一貫して丁重にリヒトに尋ねた。
「では宴席へ戻りましょうか」
「分かった。ところで、私は今すぐ、確認したいことがあるのだが」
「はい」
きょとんと瞬きをしたヒューゴの胸元へリヒトは手を伸ばし、
「…邪魔だな」
―――――ブチィッ!
力任せにシャツの前を左右に開く。
ボタンが千切れ跳び、闇夜の中へ消えた。
面食らい、時間が止まった周囲に反し、リヒトは真剣な目で裸のヒューゴの胸元を見つめ、
「よし、怪我は残っていないな」
頷き、手を離す。
笑顔で絶句しているヒューゴを見遣り、リヒトは通常運転で一言。
「では戻るか」
ああ、服はきちんと直せ。
やりたいだけやって、踵を返し、宴席への道を辿り始めた。
リヒトに遅れて続きながら、ヒューゴは今夜はじめて、完敗した気分で呟く。
「男前ですね、陛下」
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