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幕・90 へのへのもへじの群れ

実務はリュクスやその配下の若い貴族令息・令嬢たちがやりくりしているため、名ばかりだが、重職であることは間違いない。 貴族会議の席で、必ず並んでいる顔だ。 ヒューゴにとってはへのへのもへ字と同じだが。 「お耳汚しで申し訳ございません。ただ名誉あるオリエス貴族が集まる中で、相応しくない者を見かけたもので、つい」 その台詞で、もう少しヒューゴはこの男の情報を思い出した。 そうだ、コイツは確か、貴族派だったはず。 彼は今、貴族の席に奴隷上がりの騎士をつれてくるなど常識を疑う、と皇帝に面と向かって言ったわけだ。 一応、それも一理ある。 オリエス貴族の格を落とすつもりか、と言われてはお説ごもっとも、ヒューゴとしては争う気力も湧かない。 ただ、この場合は相手が問題だ。 酔っているのか、と内心呆れたが、相手はしれっとしている。 皇帝の行いに文句をつけた割に、自分の言動を問題とは考えていない様子だ。 緊張感がぴんと張り詰める中、リヒトは妙な返しをした。 「相応しくない者とは私のことか」 「…は?」 歴史ある家柄だろう相手は、面食らった声を上げる。 周りの貴族も同じ表情だ。何を言われたか分からない、そういった感情が素直に顔に現れていた。 感情を隠すことが巧い貴族にしては珍しい反応だ。 彼らの注目を受けたリヒトは、淡々。 「私が幼い頃、私をいない者として扱った貴族の中に、そなたの顔もあったが」 たちまち、どう説明されるよりはっきりと、リヒトの言葉の意味を理解したのだろう。 赤、黄、青。 言われた男の顔色がくるくる変わる。 似た状態になった貴族は、他にも結構いた。 (ああそう言えば) ひたすら無表情で控えているヒューゴは、なんとなく昔のことを思い出す。 そう言えば、いた。 この貴族が。 他の皇子に取り入るため、これ見よがしにリヒトを無視して、挙句の果てに、小さなリヒトにわざとぶつかって行ったことがあった。 (あのときリヒトの可愛い膝に擦り傷ができたんだよな…思い出したぞ。大人が子供を全力で突き飛ばすなんてありかよ) 幼かったリヒトの小さな膝が痛まし気になった記憶まで蘇り、内心、ヒューゴは嫌な気持ちになった。 その頃、この貴族の腹は風船のように育っていなかったから、すぐには思い出せなかったのだが。 ようやく、しっかり思い出す。 肉に埋もれてはいるが、同じ顔だ。 「ならば獣の方がましというものだ」 「へ、陛下」 「私は何も忘れていない」 まったく感情をにじませない皇帝の一言に、周囲に重い沈黙が落ちた。 そこへもう一歩深く踏み込むように、リヒト。 「生き残りたければじょうずに判断し、行動しろ」 「…は」 本来ならば、これはリュクスやリカルドの役目だったろう。 ヒューゴでは火に油を注ぐだけだから、黙っているほかない。 通常、リヒトはこのように表立って行動しない。 玉座に座り、黙って周りの行動を見て、一番最後に判断を下す。 皇帝ともなれば、言葉の重みが違うからだ。実際、周囲の反応は、リヒトが幼い頃と比べれば、雲泥の差だ。 それでも、リヒトがあえて表立って行動したということには、何か意味がある気がした。 (けど、それはなんだろう?) 「それに」 沈黙が広がる中、リヒトの言葉は、まだ続く。 「獣と呼ばれた私の騎士ほど、この場に相応しい者はいない」 『私の騎士』。 あからさまな言葉だ。 もとより、皇帝の寵を受けた戦闘奴隷とヒューゴは目されていたが、これでさらに念押しされたようなものだろう。 (もしかして、これが狙いか?) この認識を周知することで、周りから何を引き出したいかは、まだいまいちヒューゴには読めないが。 前を向いたまま、ちらと視線だけをリヒトへ向ければ。 彼の表情に、怒りなどはなかった。 ただ、冷えた眼差しが、目の前の相手を心底から見下している。 「そなたが立てばものの数分で肉塊になっていただろう戦場で、彼がいくつの武功を立てたと思う」 誰も何も言い返せなかった。 ヒューゴが立てた手柄は、誰の目にも明らかで、公式記録にも数多残されている。 しかしそれは、ヒューゴが悪魔だから、人間ではないから、戦闘に長けた異種族だから、…そんな空気があるのも事実だ。 それらいっさいをねじ伏せる形で、リヒトは告げた。 「その功績に正しい形で報いなければ、それこそオリエス貴族、ひいては皇室の恥である」 口調は静かだが、明らかな叱責。 とうとう、周囲の貴族たちは畏まり、彼らが口を閉ざした影響は、波のように周囲に伝播し、会場の一部をいっとき完全に沈黙させた。 そして誰も何も言わない中、一人二人と頭を下げ始める。 きらびやかな衣装に埋もれるように貴族たちの顔が見えなくなる中、リヒトが声にはじめて感情を宿らせた。 「理解したなら、その汚物のような視線を二度と私の騎士に向けるな。目玉をくりぬかれたくないならな」 (ばっちいから止めろよ) とヒューゴは言いたいが、こんな沈黙の中では声が響きすぎるだろう。 ぐっとこらえたヒューゴを目で振り返り、リヒトは顎をしゃくる。 「来い」 促され、ヒューゴは沈黙を保ったまま、歩き始めたリヒトに続いた。 これほど人に囲まれているのにどうやって席に戻るのかと思っていれば、…勝手に人が道を作ってくれる。 内心、驚き、同時に、感心した。反面、なんだか気持ちが重くもなる。なにせ。 ―――――これが皇帝ということ。 リヒトの立場だ。 どこに行くのかと思いきや、リヒトは席へ戻るようだ。 そこにはまだ、皇后と皇子がいた。 皇族のために設置された場所へ、一介の騎士が近付きすぎるわけにはいかない。 他の近衛騎士が保っている距離のところまで至ると同時に、ヒューゴは足を止めた。 前を向いたまま、リヒト。 「待っていろ。すぐに戻る」

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