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幕・91 悪魔の論理
「待っていろ。すぐに戻る」
言って、リヒトは足も止めずに皇后グロリアがいる場所へ向かったが。
実のところ、このホールで一番警戒すべきは、グロリアに違いない。
なにせ、今回の事態、黒幕が皇后だと察しはついている。
だが、彼女の実家であるチェンバレン家はオリエス帝国内において影響力が強い。
企みごとをしていたと薄々わかっても、証拠が出てくるかどうか。
よって宴席からいきなり排除することはできないから、リヒトの隣に配置しておくしかないわけだが。
正直、ヒューゴにとっては、彼女が何をやろうとどうでもいい。彼が気にかかるのは、単純に、リヒトの安全だ。
もちろん、このような場所では何ができるわけでもない。
その上、彼女が何かした程度でリヒトがどうにかなるとは思えなかった。
それでもリヒトが心配になってしまうのは、ヒューゴの癖のようなものだろう。
なんにしたって、と、それとなくヒューゴは皇后グロリアの様子を目の端で伺う。
彼女はいつも通り火のように鮮やかで華やかだ。
なのになぜだろう、今日は精彩を欠いている気がした。
(彼女が反省なんかするわけないけど。それより、気になるのは、あの騎士…)
クライヴは、どうなっただろう。一時そう思ったが、やるせない気分で首を横に振った。
近いうちに、きっと彼はどこかで死体で見つかるだろう。
(チェンバレン家には、後ろ暗いこと担当の騎士団もいるって噂だしな)
表向きの騎士団が、皇后配下の第一騎士団とするならば、表舞台の華やかさとは無縁の、謀や暗殺を主とした任務とする、名もない騎士団がチェンバレン家には存在する。
要するに、騎士団とは名ばかりで、ならず者の集団だ。ヒューゴとしては、そちらの方が気になった。
(一回、出くわしたいもんだよな。問答無用で殺し合いに発展しそうだし)
想像だけで、血沸き肉躍る。
一瞬、ヒューゴが子供のように濃紺の瞳を輝かせた時。
「こんにちは、悪魔卿?」
優しげな声が間近からかけられた。
おっと、いけない。
表情を改め、ヒューゴは慌てて視線を右手へ向ける。誰かと思えば、
「お怪我はございませんの? 立っていて、大丈夫?」
居たのは、ぽっちゃり体形を少し地味目のドレスに包んだ、ふんわりした雰囲気の貴婦人だった。
ヒューゴの顔見知りである。
嬉しい気持ちのままに、ヒューゴは微笑んだ。折り目正しく一礼。
「お久しぶりです、パジェス夫人」
彼女は、リカルドの妻、シンディ・パジェスだ。
小麦色の髪に、新緑の瞳。草食動物を思わせる穏やかな性格でありながら、社交・人脈という点において、オリエスの社交界で彼女の右に出る者はまずいない。
あの皇后ですら、彼女には敬意を払うと言うのだから、たいしたものだ。
懐っこい表情で、ヒューゴは小柄な彼女の顔を覗き込んだ。
「お会いしたかった。俺なら、傷は一筋もございません」
シンディも、ヒューゴが刺されるところを見ていたのだろう。その上で、心配してくれているわけだ。
情けないところを見せた、と反省。
魅力的な女性の笑顔を曇らせるなんて、してはいけないのに。
「…本当に? あなたがそう言うなら、信じるけれど」
口だけでは心配が抜けないのか、シンディはそっとヒューゴの隣に寄り添ってくれた。
「陛下が落ち着いていらっしゃるのなら、大丈夫なのでしょうね」
「俺の言葉は信じてくれないんですか?」
「ふふ、信じているわよ。でもあまり、心配はかけないでほしいわ」
「反省しています、すっごく」
「よろしい」
「ところで、悪魔卿ってなんですか」
先ほどは自然と受け流したが、いったい、何かと思う呼び名だ。
シンディは楽し気に笑った。
「既にオリエス帝国の社交界で定着したあなたの呼び名よ」
「まんまじゃないですか」
「あら、とても分かりやすいと思うけれど? そもそも」
にこにこ微笑みながら、シンディはヒューゴの顔を覗き込んだ。
「本日付で騎士になったわけだけど、あなた、姓はどの家門を名乗るの? それとも、一代限りの姓を持つのかしら」
「どの家門を名乗っても、迷惑になるでしょうね」
達観して、ヒューゴ。
「一代限りの姓を名乗りることになるでしょう。いい案があったらご提示ください」
「陛下を差し置いて、わたしが提案できるものではありませんわ」
つまり、シンディは、リヒトに聞けと言っているわけだ。
よく考えていない部分だったから、指摘を受けられてありがたい。
「では、陛下に尋ねます」
「それがよろしいかと。…さきほどのパフォーマンスで、へたなちょっかいをかけようとする人間は減ったはずよ」
「ああ…やっぱり、あれ、わざとですよね」
先ほどのリヒトの行動が、演出であることはなんとなく察しがついていた。
皇帝の寵愛を受ける騎士に、妙なことはできないはずだ。
皇帝の寵がある、だからこそ関わってこようとするものもいるだろうが。
「もうちょっと、俺は悪魔なんだぞーって演出した方がいいですか」
「あら、こうして立っているだけで、あなた十分悪魔的よ? 魅力ある男性って意味でね」
「またまたぁ」
リヒトをはじめ、付き合いのある知り合いたちがヒューゴを格好いいと言ってくれるのは、基本的に身内贔屓である。
何割かは本音かもしれないが、ヒューゴはあまりそこを気にしていない。
第一、彼の本体は悪魔、魔竜だ。
今の姿がどうだろうと、それほど重要なことではない。
そう、人間の姿の自分がどう見えるか、の自覚はあるが、ヒューゴはそこに価値を置いていなかった。
シンディは、ふ、とヒューゴの背後へ視線を流す。
何が見えたか、とたん、それまでの親し気な笑みを消して、よそ行きの微笑を浮かべた。
「さて、卿はまだ当分陛下のそばについているのでしょう?」
「宴の間はついています。約束しましたし」
「あら、約束なんて。一緒にいたいからいるって言えばいいのに」
間違ってはいないが、どちらかと言えば、
「心配だから離れたくないってのはありますね」
「まるで保護者ね」
呆れた顔で言ったあと、シンディは真剣な面持ちになる。
「ひとまず、若い娘さんには気を付けて。…ここに集った貴族の大半は」
扇で隠した彼女の口元が、歪んだ。
「先ほどの戦い、…残酷なショーとして愉しんでいたわ」
(俺が刺されたところも含めてってことかな)
ヒューゴは他人事のように考える。
「有望な騎士に、後先考えず突撃してくるかもしれないけれど、その目的がいいものとはまるで思えません」
「パジェス夫人ほど魅力的な女性だったら考えるかもしれません」
「あらあら…卿ほど素敵な方に言われると恥ずかしいわ」
余裕でいなされるかと思いきや、こういうときは、少女のようにシンディは恥ずかしそうに顔を赤らめる。
虚を突いたか、嫌悪に満ちていた表情がたちまち消えた。
気を紛らわせることができたならよかった。ヒューゴは微笑んだ。
こういう反応も含めて、シンディは、とても魅力的な女性だ。
「でも将軍が一番でしょう?」
片眼を閉じて言えば、こちらを見ていたのだろう、リカルドと目が合った。視線がどこか冷たい。
いい歳して嫉妬とか、止めて頂きたい。
「いやだわ、もう」
頬を押さえ、横を向く仕草の、なんと可愛いことか。
リカルドを見遣り、ヒューゴは片目を閉じて見せる。
やっぱり旦那が一番だってさ!
とたん、リカルドは面食らった様子でわずかに肩を引き、苦笑した。
気のせいか、どこかで若い女の子の黄色い声が上がった気がしたが、気にしなくてよろしい、とシンディに言われた。
「なんにしたって、本当にお気をつけてね。特に」
ちら、とシンディは会場に視線を走らせる。
「女性ばかりでなく、若者たちにも」
確かに、会場へ入った時から、良くない視線を感じていた。特にあれは、
(チェンバレンの後継)
皇后によく似た容姿の、常に血の匂いをまき散らす人間。
それでも、結局は人間の範疇に納まっているから、ヒューゴから見れば、可愛いものだが。
(あの中途半端な殺意がこそばゆいな…何で人間はこれで平気なんだ? 我慢するより、いっそ正々堂々殺し合った方が楽だろうに)
もちろん、ヒューゴにとて自覚はある。彼の論理は悪魔の論理。人間には通用しない。
こうであるからこそ、ヒューゴはどうしたって、自身を制御する方に力を使ってしまう。
彼が気持ちのままに動けば、すぐさまここに死体の山ができる。
きらびやかなホールがいっきに陰鬱な墓場になった様子を幻視して、ヒューゴは一度強く目を閉じた。
「肝に銘じます」
命じるのは、うっかりヒューゴが欲望に負けないことだ。
大丈夫だ、人間がすることなど、大概受け流せる。
「絶対よ?」
シンディを安心させられるよう、ヒューゴは真剣に頷く。
好意を持ってくれる相手の忠告をおろそかにするつもりはない。
「ではわたしは、陛下にこれ以上睨まれる前に退散するわね」
―――――なんだって?
面食らうヒューゴの前で、シンディが踵を返すと同時に。
「ヒューゴ」
すぐそばで、リヒトの声がした。
振り向けば、思わぬほど近くに、リヒトの姿がある。
「行くぞ」
一旦、会場の外に出るのかな、と軽く考え、ヒューゴは、
「はい、陛下」
優等生の返事を返した。
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