93 / 215

幕・93 俺が悪かった

全く遊びのない声。 これは、真剣に怒っている。 ヒューゴを伴って宴の場に戻るなり、グロリアの首を跳ねなかっただけ、リヒトにしては堪えた方だろう。 ここまで来て、ヒューゴは先ほどの、シンディの反応を思い出し、目の前のリヒトと重ねた。 要するに、リヒトもヒューゴを心配したのだ。シンディと同じく。それも相当。心配し過ぎて、腹が立ってくるほど。 ヒューゴはもともと強い存在だから、心配されると言うのが心外で、意外なことだ。 だからと言って怒りが湧くと言うことではなく、戸惑いの方が強い。 そこまで心配しなくても、大丈夫なのに、と。 だが、そういう問題ではないのだ。ヒューゴがつい、リヒトと案じてしまうのと同じこと。 困った気分で、ヒューゴのリヒトへ手を伸ばした。宥めるように抱きしめる。 「はなせ」 言いながら、リヒトは抵抗しない。だが、身体に反発するような力がこもっていた。 「わかった、わかったよ。俺が悪かった。刺されるなんて、油断してたよな」 ほとほと参った気分で囁きながら、背中を優しく撫でれば、氷が解けるように次第に力が抜けていく。 「刺された時、俺が死んだと思ったか? 俺は簡単に死なないって知ってるだろ。刃は肺を傷つけただけだし、俺って本体は魔竜なんだから」 ゆえに、本来、そう簡単に刃は通らない肉体だ。 人間の身体に見えても、本体は巨大な生き物なのだから、小さな肉体になったとき、ひとつひとつの細胞の質量がとんでもないことになっている。 よって、そこらの刃では、決して傷つけられないのだが。 今回は、黒曜の刃だった。だから、あれほど簡単に刃が肉体を通ったのだ。 (怪我したのって、ほんとう、久しぶりだったなぁ…) 最後にケガをしたのは、いつだったろう。ヒューゴは遠い目になった。 (そうそう、守護する一族の子供が、俺の鱗を剥いだ時だ) ヒューゴは子供が好きだから、小さな子供を、尻尾であやすことがよくあった。 そうしているうちに、興奮した子供が本気でかぶりついてくる。 鱗を剥がれたのもその時だ。 その子が、今や一族の長になっているのだから、感慨深いものがある。 「…うん、生きている」 リヒトが呟いた。その声は、普段の彼を知っていれば、想像もつかないほど弱い。 確かめるように、リヒトはヒューゴの背に手を伸ばした。 (…すがる、感じ) この感覚は、昔から変わらない。 自身では思うように操れない、強い神聖力で、ヒューゴを縛った時も。 あの小さな幼い手で、ヒューゴに縋ってこようとするから。 避けきれないと思った時、ヒューゴは慌てて人の姿になった。 人間の姿になれば、たとえ悪魔の身体でも相手に毒にならずに済むことは、御使いの件で立証済みだった。 一生懸命、全力で抱き着いて来た腕に絆されて、…まだ、ヒューゴは絆され続けているらしい。 「生きてるよ」 頬に頬を押し付ける。 甘えかかるようにして、こめかみに口づけた。その時。 「…ん?」 ヒューゴが顔を上げる。部屋の前を、何か黒いものが行き過ぎるのを感じたからだ。 それは、べたり、べたり、壁を這うようにして進んでいる。 リヒトもそれを感じたか、顔を上げた。 「これは…」 「呪詛だな。さっき、結界を開いた一瞬に入ったんだろう」 ツクヨミに掃討は命じてあるが、多すぎて駆逐するのに時間がかかっているようだ。 誰が放ったかは知らないが、 「オリエス帝国は人気者だな」 ヒューゴが茶化せば、リヒトが舌打ちし、低く言った。 「…邪魔な…」 ずいぶん、黒い呟きである。 ヒューゴは聞かなかったフリをした。 「一応、部屋の前へ縫い止めとくか? そのうち、ツクヨミがくるだろ」 あの兎は、人工精霊と名称を付けたが、前世で言うところの人工知能を意識したものだ。 ヒューゴは、魔力の針で、内側から、アメーバのように壁を移動するそれを縫い止める。 ちなみにあれは、誰を狙って放たれたのだろう。 「感じからして、命を奪うものじゃないな。だろ?」 尋ねれば、リヒトは無表情でじっと扉の方を眺めやった後、 「…負の感情を増大させる作用がありそうだ」 「使いようによっては厄介な、強烈な精神作用のある呪詛か」 なんにしたって、呪詛とは結局そういうものだ。心に作用し、弱い者は簡単に蝕まれ、命を落とす。 「縫い止めたなら、その扉を通り過ぎても問題ないだろう」 「よっぽど負の感情が強いヤツが通ったら、問題だけどな」 要するに相性が良すぎた場合、引っかかってしまう。 けれどそれは、よっぽどでなければ起こらないことだ。あの呪詛を放った相手も、ダメもとだったはずだ。 引っかかればラッキー、くらいの。 迷惑な話だが、そんな嫌がらせをする程度には、帝国を嫌っているのだろう。 心当たりは内にも外にも多すぎて、いちいち相手にしていてはきりがない。 「なあ、リヒト」 ヒューゴは、リヒトの額に額を押し付けた。 とりあえず、今、目の前にとても重要な問題がある。 「俺お腹すいた」

ともだちにシェアしよう!