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幕・114 異端の騎士

× × × ―――――次はここだ。 睨んでいた地図から目を離し、苛々と執務室を右往左往していた壮年の男は、時折思い出したように窓の外へ視線を投げた。 そこは、皇都でも、ひときわ大きな店舗だ。 奥に複数の職人が立ち働く工房を構え、数多くの顧客は大半が貴族である。 大通りに面した入り口には、皇室御用達の看板を掲げ、貴婦人たちが身に着ける宝飾品をデザインから手掛けたり、万年筆やレターセットまで取り扱う。 とはいえ。 真面目一辺倒では、より以上は手に入らない。 「…あの、ご主人さま」 開いていたドアを遠慮がちにノックすると同時に、店に長年勤めた従業員が顔を出す。 「なんだ」 振り向きもせず、返事をすれば、 「魔法使いさまがお見えです」 ひゅっと男が細く鋭く息を呑んだ。土気色の顔が振り向くと同時に。 「―――――おやおや? どうしたのかな」 目の前に、外套を目深に被った男が立っていた。 いつの間に、という顔で、従業員が目を瞬かせている。 それを、顔を隠すようにした魔法使い越しに見た男の視界の隅に、 「随分と顔色が悪いようだ。お休みになられては?」 三日月のような笑みを描いた魔法使いの口元が映る。 「きっさま…!」 自分自身にも訳の分からない衝動の中、壮年の男は魔法使いの胸倉を掴み上げた。 「よくものうのうと…今すぐ出ていけ!」 だが、金の算用と商品や人間の取り扱いの中で生きてきた商人は、拳を振り上げると言う本能的な暴力からは程遠い。 行動によって生じる結果を即座に計算―――――そう、どうしても、損得勘定が割って入る。 「金ならやる。だから二度と来るな。すべて忘れろ」 胸倉を掴んだ手を乱暴に外されるのに、 「いらないよ、金なんて。目的は金じゃないし、仲間ってわけでもないんだから」 小揺るぎもせず、魔法使いは答えた。 「ここでは何もなかった。そういうことにしよう」 何の未練もなく言い切られ、商人側は逆に惜しくなったような表情を浮かべる。 が、すぐ気を取り直し、扉付近で待機する従業員を手で追い払った。 「もう全部終わったしな」 魔法使いの、意味も分からない呟きに、 「それは良かったな」 どうでもいい態度で応じた時。 外がざわめく気配に、商人は激しく反応。 窓辺に飛びついた。 呆れたように彼の様子を横目にした魔法使いは、窓から少し離れた場所で、外を見遣る。 ―――――馬車が停まっているのが見えた。掲げた紋章は。 皇室の。 そこまで慌てて確認したところで。 無造作に、馬車の扉が開いた。 (来た) 早く出て行け、と振り向いて、魔法使いを怒鳴りつけようとした商人は。 一番に馬車の中から出てきた人物の姿に、ぽかんと口を開いた。 一瞬、魔法使いの存在も忘れ、純粋に、見惚れた。 現れたのは、青年。 騎士だ。 華やかながら洗練された服装からして、皇宮の近衛。そして。 褐色の肌。 黒髪。 匂い立つように、鮮やかな濃紺の瞳。 所作一つ。眼差しの行き先まで、どうしても目で追わずにはいられない魅力があった。 生まれ落ちた時から貴族かのような、品ある所作で扉の前に立つ姿は完璧だ。 とはいえ。 あの容姿は、間違いない。 商人の耳に、魔法使いの、半ば呆然とした呟きが届く。 「…悪魔卿」 悪魔にして奴隷であるにもかかわらず、騎士に抜擢された異端の存在。 この一週間、帝国中を走った噂の主。 商人が、ぎょっとしたように振り向く。 魔法使いの視線は、そんな彼の向こう、大通りの馬車から離れない。 騎士に続いて、馬車の中から、輝くようにうつくしい貴婦人が降り立った。 下ろせば清流のようだろう銀髪をアップにして、強い輝きを宿す碧眼で周囲を眺めやる。 その姿は、か弱さどころか、女騎士の風情を醸し出していた。 おそらくは彼女が、皇妃フィオナ。 騎士は丁重に彼女をエスコートし、皇妃は危なげなく颯爽と路上へ降り立った。 そのまま彼女が日傘をさす一方で、騎士はもう一度馬車へ手を伸ばす。 その手に摑まるようにして降りてきたのは、小さな影。子供。 「―――――…皇子殿下」 再度、表通りを見遣った商人が、呻くように呟いた。 揃って立つ姿は輝くようで、薄汚い路上が、いっきに豪邸のフロアにでも様変わりしたようだ。 見慣れた光景すら、上等な絵画の一風景にでも変貌したかと思うほど、皇室の人間が醸し出す雰囲気は、他と一線を画していた。 そこに花を添えているのが、騎士。 「悪魔卿を伴ってきた、となれば…」 商人の緊張がさらに高まる。 今、あの騎士の背後に、皇帝を見ない人間は阿呆だ。 この度の抜き打ち視察は、皇帝が絡んでいる。 「妙だね」 気が遠くなりそうな商人とは裏腹に、魔法使いは考え深げに顎を撫でた。 「皇妃が公務で動くのに、侍女の一人もつけず、騎士だけなんて」 そう言えばあの皇妃サマ、なんとなく不幸の影があるよね、と勝手なことを放言する魔法使いを睨み、商人は野良猫でも追い払うように手を振る。 「さっさと行け。裏口から出ろ。二度と来るな」 「ちょっと話しておきたいこともあったんだけどな」 「きさまの話などろくなものではない」 魔法使いは肩を竦めた。 「そう言われちゃ仕方ないよね」 未練もなく、踵を返す。 「それじゃ、お達者で」 魔法使いが、ひらり、手を振ったときには、彼の存在は商人の頭の中から消えていた。 本当に、消えた。 彼と関わることで起こった、何もかも、いっさいの出来事が。 ―――――ここでは何もなかった。 そういうことにしよう、と言ったのは魔法使いで、彼は相手からの提案に首肯した側だ。 にもかかわらず。 魔法使いが店舗の奥へ進むたび、店の者の全員の記憶から、彼の存在が薄れていく。消えていく。 「にしても、悪魔卿が結界の外へ出てくるとはねえ」 いやはや、魔法使いにとって、彼がどれほど魅力的な存在か。 実際目の当たりにして、猛烈に欲しくなった。思わず、喉が鳴ったほど。 彼の存在そのものが、得難い宝だ。 それこそ―――――皇帝であって、ようやく手を伸ばすことが許されるような。 なんにしたって、目算が狂った。 皇都へ出てきたのが、皇帝ではなく、皇子だとは。 オリエス皇室直系の人間が、皇宮から出ることはほとんどない。 本当に仕方がない事情があれば話は別だが、本来は、許されない。 それは、厳格に定められた決まり事。 にもかかわらず―――――幼い皇子が皇都へ出てきた。 無論、異例であるからこそ、帝国最高の守護者がそばについているわけだ。 空っぽなくせに陽気に弾んでいた魔法使いの声が、不意に暗く沈む。 「ってことは、呪詛の術式が、皇帝への招待状なのは、察してたってわけか。さすが、オリエス帝国、一筋縄じゃ行かないな」 ディラン皇子の神聖力は、皇帝ほどでないものの、質が高いと聞いていた。 おそらくこの状況では、せっかく時間をかけて作った術式も、崩されているだろう。 狼煙は派手に上げたかったのだが。 だがまだ、勝算はある。 ―――――悪魔卿が外にいるのだ。 「つまり、現在」 魔法使いは、裏口の扉に手をかける。 表通りが騒がしくなり、剣の音が聴こえた気がしたが、構ってはいられない。 「結界内に、皇帝は――――――独りだ」 それなら、こんな場所で長居はしていられなかった。 ちょっと皇宮まで、遊びに出掛けよう。 剃刀のような笑みを浮かべ、すっと影のように、魔法使いの姿は屋敷の中から消えた。

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