114 / 215
幕・114 異端の騎士
× × ×
―――――次はここだ。
睨んでいた地図から目を離し、苛々と執務室を右往左往していた壮年の男は、時折思い出したように窓の外へ視線を投げた。
そこは、皇都でも、ひときわ大きな店舗だ。
奥に複数の職人が立ち働く工房を構え、数多くの顧客は大半が貴族である。
大通りに面した入り口には、皇室御用達の看板を掲げ、貴婦人たちが身に着ける宝飾品をデザインから手掛けたり、万年筆やレターセットまで取り扱う。
とはいえ。
真面目一辺倒では、より以上は手に入らない。
「…あの、ご主人さま」
開いていたドアを遠慮がちにノックすると同時に、店に長年勤めた従業員が顔を出す。
「なんだ」
振り向きもせず、返事をすれば、
「魔法使いさまがお見えです」
ひゅっと男が細く鋭く息を呑んだ。土気色の顔が振り向くと同時に。
「―――――おやおや? どうしたのかな」
目の前に、外套を目深に被った男が立っていた。
いつの間に、という顔で、従業員が目を瞬かせている。
それを、顔を隠すようにした魔法使い越しに見た男の視界の隅に、
「随分と顔色が悪いようだ。お休みになられては?」
三日月のような笑みを描いた魔法使いの口元が映る。
「きっさま…!」
自分自身にも訳の分からない衝動の中、壮年の男は魔法使いの胸倉を掴み上げた。
「よくものうのうと…今すぐ出ていけ!」
だが、金の算用と商品や人間の取り扱いの中で生きてきた商人は、拳を振り上げると言う本能的な暴力からは程遠い。
行動によって生じる結果を即座に計算―――――そう、どうしても、損得勘定が割って入る。
「金ならやる。だから二度と来るな。すべて忘れろ」
胸倉を掴んだ手を乱暴に外されるのに、
「いらないよ、金なんて。目的は金じゃないし、仲間ってわけでもないんだから」
小揺るぎもせず、魔法使いは答えた。
「ここでは何もなかった。そういうことにしよう」
何の未練もなく言い切られ、商人側は逆に惜しくなったような表情を浮かべる。
が、すぐ気を取り直し、扉付近で待機する従業員を手で追い払った。
「もう全部終わったしな」
魔法使いの、意味も分からない呟きに、
「それは良かったな」
どうでもいい態度で応じた時。
外がざわめく気配に、商人は激しく反応。
窓辺に飛びついた。
呆れたように彼の様子を横目にした魔法使いは、窓から少し離れた場所で、外を見遣る。
―――――馬車が停まっているのが見えた。掲げた紋章は。
皇室の。
そこまで慌てて確認したところで。
無造作に、馬車の扉が開いた。
(来た)
早く出て行け、と振り向いて、魔法使いを怒鳴りつけようとした商人は。
一番に馬車の中から出てきた人物の姿に、ぽかんと口を開いた。
一瞬、魔法使いの存在も忘れ、純粋に、見惚れた。
現れたのは、青年。
騎士だ。
華やかながら洗練された服装からして、皇宮の近衛。そして。
褐色の肌。
黒髪。
匂い立つように、鮮やかな濃紺の瞳。
所作一つ。眼差しの行き先まで、どうしても目で追わずにはいられない魅力があった。
生まれ落ちた時から貴族かのような、品ある所作で扉の前に立つ姿は完璧だ。
とはいえ。
あの容姿は、間違いない。
商人の耳に、魔法使いの、半ば呆然とした呟きが届く。
「…悪魔卿」
悪魔にして奴隷であるにもかかわらず、騎士に抜擢された異端の存在。
この一週間、帝国中を走った噂の主。
商人が、ぎょっとしたように振り向く。
魔法使いの視線は、そんな彼の向こう、大通りの馬車から離れない。
騎士に続いて、馬車の中から、輝くようにうつくしい貴婦人が降り立った。
下ろせば清流のようだろう銀髪をアップにして、強い輝きを宿す碧眼で周囲を眺めやる。
その姿は、か弱さどころか、女騎士の風情を醸し出していた。
おそらくは彼女が、皇妃フィオナ。
騎士は丁重に彼女をエスコートし、皇妃は危なげなく颯爽と路上へ降り立った。
そのまま彼女が日傘をさす一方で、騎士はもう一度馬車へ手を伸ばす。
その手に摑まるようにして降りてきたのは、小さな影。子供。
「―――――…皇子殿下」
再度、表通りを見遣った商人が、呻くように呟いた。
揃って立つ姿は輝くようで、薄汚い路上が、いっきに豪邸のフロアにでも様変わりしたようだ。
見慣れた光景すら、上等な絵画の一風景にでも変貌したかと思うほど、皇室の人間が醸し出す雰囲気は、他と一線を画していた。
そこに花を添えているのが、騎士。
「悪魔卿を伴ってきた、となれば…」
商人の緊張がさらに高まる。
今、あの騎士の背後に、皇帝を見ない人間は阿呆だ。
この度の抜き打ち視察は、皇帝が絡んでいる。
「妙だね」
気が遠くなりそうな商人とは裏腹に、魔法使いは考え深げに顎を撫でた。
「皇妃が公務で動くのに、侍女の一人もつけず、騎士だけなんて」
そう言えばあの皇妃サマ、なんとなく不幸の影があるよね、と勝手なことを放言する魔法使いを睨み、商人は野良猫でも追い払うように手を振る。
「さっさと行け。裏口から出ろ。二度と来るな」
「ちょっと話しておきたいこともあったんだけどな」
「きさまの話などろくなものではない」
魔法使いは肩を竦めた。
「そう言われちゃ仕方ないよね」
未練もなく、踵を返す。
「それじゃ、お達者で」
魔法使いが、ひらり、手を振ったときには、彼の存在は商人の頭の中から消えていた。
本当に、消えた。
彼と関わることで起こった、何もかも、いっさいの出来事が。
―――――ここでは何もなかった。
そういうことにしよう、と言ったのは魔法使いで、彼は相手からの提案に首肯した側だ。
にもかかわらず。
魔法使いが店舗の奥へ進むたび、店の者の全員の記憶から、彼の存在が薄れていく。消えていく。
「にしても、悪魔卿が結界の外へ出てくるとはねえ」
いやはや、魔法使いにとって、彼がどれほど魅力的な存在か。
実際目の当たりにして、猛烈に欲しくなった。思わず、喉が鳴ったほど。
彼の存在そのものが、得難い宝だ。
それこそ―――――皇帝であって、ようやく手を伸ばすことが許されるような。
なんにしたって、目算が狂った。
皇都へ出てきたのが、皇帝ではなく、皇子だとは。
オリエス皇室直系の人間が、皇宮から出ることはほとんどない。
本当に仕方がない事情があれば話は別だが、本来は、許されない。
それは、厳格に定められた決まり事。
にもかかわらず―――――幼い皇子が皇都へ出てきた。
無論、異例であるからこそ、帝国最高の守護者がそばについているわけだ。
空っぽなくせに陽気に弾んでいた魔法使いの声が、不意に暗く沈む。
「ってことは、呪詛の術式が、皇帝への招待状なのは、察してたってわけか。さすが、オリエス帝国、一筋縄じゃ行かないな」
ディラン皇子の神聖力は、皇帝ほどでないものの、質が高いと聞いていた。
おそらくこの状況では、せっかく時間をかけて作った術式も、崩されているだろう。
狼煙は派手に上げたかったのだが。
だがまだ、勝算はある。
―――――悪魔卿が外にいるのだ。
「つまり、現在」
魔法使いは、裏口の扉に手をかける。
表通りが騒がしくなり、剣の音が聴こえた気がしたが、構ってはいられない。
「結界内に、皇帝は――――――独りだ」
それなら、こんな場所で長居はしていられなかった。
ちょっと皇宮まで、遊びに出掛けよう。
剃刀のような笑みを浮かべ、すっと影のように、魔法使いの姿は屋敷の中から消えた。
ともだちにシェアしよう!