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幕・119 嫌っている者同士の定期連絡

× × × ヒューゴが、店主の襟首を掴み、店内を引きずって横断していたのと同時刻。 オリエス皇帝は書類の文字を目で追いながら、独り言のように言った。 「来ていたようだな」 リヒトの目は、書類の文字を斜めに読み下し、決裁済み、処理待ち、返却分と、迷った様子もなく振り分けて行く。 その執務机の片隅に、場違いな、小石のようなものが乗っていた。 皇帝の机上にあるには不自然で、逆に目立つ。 何の変哲もない道端の小石に見えたそれが、不意に奥から緑の光を放った。 光は、石の表面で呼吸するように明滅。 『ではもうお帰りに?』 芯まで醒めた声がそこから響く。リヒトは素っ気なく答えた。 「蒸発した」 『はい?』 石の向こうから響く声に、理解の色は乏しい。 詳しく、と説明を求める気配に、現場を目撃したわけでもないリヒトは、それでも他から聞いた通り誠実に答えた。 「私が近付くと蒸発したようだ」 返ってきたのは、無言。 だからこそ、相手が状況を理解したとリヒトは察した。 生き物が蒸発したなど、突飛な台詞だが、相手はきちんと神聖力の影響ゆえと理解したのだろう。 もう少し、リヒトは続ける。 「ゆえに私は悪魔・混沌と会っていない」 もちろん、リヒトとて知らなかった。 そのような上位の悪魔が、皇宮に現れるなど。それ以上に。 オリエス帝国の皇宮内部に、地獄への道が開いているなど、想像もしていない。 というのに。 「筋違いだな」 『…何がでしょう?』 「地獄への道が開いていることも、悪魔・混沌の来訪も、事前報告がなかったろう」 リヒトの手が、小石と並んだ、机の上の玉璽を取り上げる。 何枚かの書類にそれを無造作に押印した。 「というのに、混沌はどうなったのか、どこへ行ったか知っているか、と一方的に尋ねてくるなど、筋違いだ」 悪魔が自分勝手なことは知っている。 特に、リヒトが持っているこの小石の向こう側から声を届ける相手など、リヒトへの忌々しさを隠しもしない。 それも当然のこと、彼は、魔竜の一族。ヒューゴを神のように崇める者たちだ。 しかも彼は、その一族の長である。 ヒューゴがリヒトを連れて、地獄から出る道を探しに行くと告げた時、通信用に、とリヒトにこの小石を持たせたのが、彼だ。 本当はヒューゴに持たせたかったはずだが、ヒューゴはマメな性格ではない。 渡してもどこかで紛失してしまうと確信したからこそ、彼はヒューゴに渡さなかったのだ。 そして、結局。 あまり好きでもない者同士…むしろ、嫌っている者同士が、こうして定期的に会話を…いや定期連絡を取る道具となっている。 『聞かれませんでしたからね』 気になるならば聞けということだろうが、こんな場合は事前に聞きようもない。 何もかも知っていて、この言いざま。 相手がこういう男だと知ってはいても、小面憎い。 そうでなくとも、ヒューゴが守護を与えた一族の、しかも長、ということで、リヒトにとっては気に食わない相手だ。 「では聞くが」 ふと思いついて、リヒトは目を細める。 「悪魔・混沌は、悪魔が地獄から攫われると言っていたとか。…誰がどこへ連れて行っているのか、調べはついているのか」 音などは聴こえなかったが、石の明滅具合で、相手が長くため息をこぼしたのが分かった。 『…その話をしに行かれたのか…』 単に会いに行かれたわけではないと理解はしていたが、と悪魔は呆れた口調。 混沌が何をしに皇宮へ来たのか、この悪魔は知っているだろうが、何を聞くかまでは把握しきれていなかったようだ。 となれば、混沌と彼らの関係は、蜜月とまではいかないと推測できる。 リュクスから話を聞いた以上、混沌とヒューゴとの関係も、『喧嘩友達っていうか、…そんな雰囲気?』だそうだから。だとしても、 「やはりお前は知っていたか」 地獄から悪魔が攫われる、そのことを、この男が知らないわけがない。 『我が一族にとって、各地の詳細な情報は不可欠です』 「そう言えば魔竜の地では、図書館もあったな」 かつての、地獄で見た、地獄らしからぬ光景を思い出し、リヒトは呟く。 『地獄での歴史も、我が一族発祥の日から記されている書物があります。その中に』 分からないなら聞け、と言ったとおり、聞かれたら答える姿勢を見せるのは、昔から変わらない。 ただし、意図的に話さない部分もあるだろうことは容易に想像がつく。 そんな風には決して思わせない真面目そうな声で、悪魔は告げた。 『昨今、地獄で起きているような現象も記されていました』 「…なに?」 相手の声に、これと言った誇らしさなどはない。あくまで、平坦な口調。 だが、歴史を記す―――――そのような行動を取る悪魔など聞いたことがない。いや、そもそも、地獄の歴史など、あってなきが如しだと思っていた。 リヒトは、内心、呆気にとられる。 そもそも、悪魔の世代交代は早い。争いを好み、相手をどうやって殺し、滅ぼすか、という考えにこそ、一番の愉悦を感じる種族だ。 何かを観測し記録する、そんな地道な作業はそもそも性に合わない。 なにより、それを継続するには遺志を受け継ぎ、実行する後継者が必要不可欠。 ―――――人間ならともかく、悪魔がそれをやっていると聞けば、十中八九、もっとうまい作り話をしろと一蹴されるだけだ。しかし、魔竜の一族ならば。 …やるかもしれない。いや、やる。 一旦、呆気にとられたものの、結局、リヒトの中に残ったのは納得だった。 「それはいつの出来事だ」 『三百年程前です』 相手の答えはあっさりしている。聞けば答えるという言葉通り、隠すことはしない。 答えが嘘かもしれないだろう、と言われそうだが、今までの経験からして、この悪魔は嘘をつかない。 ヒューゴのように、基本的に嘘をつけない、というのではなく、嘘を無駄と考えている節があった。

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