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幕・121 ドワーフの工房
× × ×
少し時間を遡る。
一番奥の工房に足を踏み入れた途端、ヒューゴの顔から、完全に表情が抜け落ちた。
反対に、それまでずっと無表情だった二人の騎士たちが揃って顔をしかめる。
「な、なんだ…っ?」
犬のように引きずられるのを見かねた店員たちの懇願で、どうにか立つことを許された店主が、鼻を押さえ、後退した。
「この匂いは、なんだ。何かが、腐っているような…」
悪臭は工房全体に染み付いているようだった。
昨日今日で発生したようなシロモノではない。
少なくとも数週間は経っている。
「ここで待て」
騎士たちに命じ、ヒューゴは恐れげもなく奥へ進んだ。
「店主は逃がすなよ」
「は」
入り口で待機の姿勢を取る、騎士二人の間で、店主は狼狽えた。
「何が起こっている? い、いや、何が起こっているのですか。あなたには分かるのですか、悪魔卿」
揉み手せんばかりの卑屈な態度。先ほどまでの居丈高な様子は見られない。
さすがに、引きずりまわされたのは堪えたらしい。
しかも、誰もいないのに異様な雰囲気の工房内へ、ヒューゴは無造作に踏み入っている。
あまりにも、ヒューゴ自身が、得体が知れなかった。
さすがに無実を訴え続ける気力も起こらなかったようだが、どうでもいいことを店主は尋ねる。
何か話していないとやっていられなかったのだ。
工房の真ん中で、ヒューゴは振り向く。
「お前は知っているはずなんだけどね」
言った彼の、印象的な濃紺の瞳が光った気がして、店主は怯んだ。そのとき。
「―――――ようやく、来たか!」
騎士と店主が塞いでいる出入り口の外から、大きな声がかかった。
「前から訴えていたが、ようやく、どうにかする気になったか、店主」
「…は?」
騎士たちが振り向けば―――――そこには誰もいない。目を瞬かせた彼らが、
「こっちじゃ、こっち!」
視界の下の方で何かが振られるのに気付き、視線を落とせば、
「ドワーフ」
騎士の一人が、思わずつぶやく。
多様な人種が行き交う皇都でも珍しい小さな種族が、そこにいた。
彼は、大きな目をカッと瞠っている。分かりやすく怒っていた。
「どうにか、とはなんだ。今はそんなことを話している場合では」
けんもほろろに店主が対応し、追い払おうとすれば、
「なんだと!」
ドワーフは、店主に対して身を乗り出し、両の拳を天へ突き上げる。
「この匂いでは、工房を使うことは不可能だ、と今までずっと訴えてきただろう! その話をするためにこの工房へ来たのではないのか? これ以上無視をするようなら、わしは他へ行く」
ふん、と荒い鼻息を吐くドワーフ。
なにもこんな時に、と言いたげな目で、店主は両手を挙げた。
「おい、待て待て。話なら後でちゃんと聞く、今は…」
言いさした店主は、不意に、眉をひそめる。
「…なんだと、ずっと?」
今、ドワーフは、ずっと訴えてきたと言ったのか。このにおいのことを?
しかし、店主にはそんな記憶は全くなかった。彼の耳に入らなかっただけだろうか。
考えながらの、店主の呟きに、
「会うたび話していたし、従業員たちにも訴えていたぞ。それを、店主がいつも聞こえぬふりで無視したろう」
立て板に水の勢いで、ドワーフは喚き散らす。
「最近はもうずっとここへ、わしは来ておらんかった。今日は、工具を取りに来ただけだ。会えたならいい機会だ、もう契約は更新せんからな。今請け負っている仕事が終われば、わしは余所へ行く」
言いながら、腰に巻いていたベルトに提げたポシェットの中から、大きな布を取り出すドワーフ。
それで鼻から下を隠すようにして、頭の後ろで端をくくったかと思えば、どしどしと猪の勢いで件の工房へ足を踏み入れた。
店主と騎士たちは慌てて避ける。
「ああ、ひどい環境だ! しばらく窓も開けとらんから、毒素が充満しておるな…こら、そんなところで無防備に突っ立って居れば死ぬぞ、若造」
短いが、太くたくましい腕を振り上げ、ヒューゴに言ったドワーフは、
「お?」
何に気付いたか、足を止めた。
「随分育ったが、お前、もしやギデオンの弟子か。ヒューゴ、そうだな」
ギデオン―――――剣聖ギデオン・グラムスの名を出したドワーフに、
「クレトさん?」
ヒューゴが、不意にいつもの調子に戻る。
飄然とした態度で、人懐っこい笑みを浮かべた。
「皇都のどこかにいるのは知ってたけど、ここで働いてたんだ」
がははは、とドワーフ―――――クレトは上機嫌に笑う。
「でかくなったもんだ! 人の子の成長は早いな! …いや、ヒューゴは悪魔だったな?」
記憶に自信がなさげ、というより、最後はどうでもよさそうな態度で呟き、工房の奥へ向かった。
「なんにしろ、ここに長居は無用だ。ヒューゴも早く去れ。少し前まで、店主が魔法使いを中へ入れていてな」
ヒューゴは店主を横目に見る。店主は激しく首を横に振った。話になりそうにない。
ヒューゴはクレトに目を戻した。
当たり障りのないことを尋ねる。
「それって、魔塔の魔法使い?」
「魔塔!」
何気ない質問に、クレトは飛び上がって拳を振り上げた。
「魔塔の魔法使いには、仲間がひどい目に遭わされたんだ! あいつがもしそうだったなら、一発食らわせてやったものを! いや、魔法使いなんぞ」
怒ってはいても、後を引きずらない、どこか陽気さの残っていた声が、不意に沈んだ。
「どいつもこいつも同じじゃ」
声の暗さも気になったが、
「…仲間って」
ヒューゴはなんとなく瞬きした。
記憶のふちから、枷をはめられ、やせ細った姿が浮かび上がる。
ただし、惨めさからは程遠い目をしているドワーフ。
ヒューゴを神龍と言って、跪いた姿を思い出し、
「ドワーフが魔塔にいたの?」
彼については説明が難しく、ヒューゴは単にそれだけを尋ねた。
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