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幕・127 罠
ただし、先代まではどうだったか、はっきりとはしない。
先代皇帝は、皇宮に決して魔法使いを入れなかったからだ。会おうとしなかった。まるで。
―――――神聖力に魔法はかなわない。
その神話が崩れるのを恐れるように。
しかし、今のオリエス皇帝は。
生ける神話だ。
…正直。
これに恐怖を覚えない魔法使いはいない。
自身がもつありったけの能力、すべてを尽くして戦おうとしても、その一切を、―――――なかったことにする。
これまでの自分の努力。人生。
すべてを否定してのける、そんな相手と向き合いたいわけがない。
だが、祭壇の上の魔法使いは。
自身が覚えた恐怖に、…―――――興奮した。高揚した。ぞくぞくする。
この皇帝は、本物だ。こうでなければならない。
普通に生きていれば、こんなバケモノと向き合う機会があったかどうか。
(…面白い)
彼は、面白ければなんだって良かった。
善悪すら基準にはならない。
世界の決め事なんか退屈極まる。
冗談みたいなとっておきの規格外を見てみたい。
その点、オリエス皇帝は合格だ。
打ち消してのけた魔法こそが、よく分かる自己紹介だったと言わんばかりに、なにもかもを理解した表情で、皇帝は促してくる。
「で?」
腹が立つほど文句の付け所がない秀麗な面立ちに、表情はひとつも浮かんでいない。
正直、それだけで普通の人間は竦み、怖気づくだろうが。
魔法使いは、満足してニィっと笑う。
―――――なんて絶望させがいのあるバケモノ。
「お目にかかれて光栄です、陛下」
魔法使いは、本音で言った。
別に、彼は望んでいないのだ。勝利など。
ただ、楽しければいい。その思考は、どちらかと言えば、悪魔に近かった。
なんにしろ、彼はここから生きては出られまい。…そう、ここにいる『彼自身』は。
それほどに、オリエス皇帝は厳格であり、砂一粒すら甘くはない。
覚悟を決める、というより、どのように殺されるのか、とその思考を愉しむようににやにや笑っていれば。
不意に、皇帝が言った。
「悪魔を地獄から攫ったのは、お前か」
魔法使いは目を瞠る。次いで、察した。
―――――皇帝は、情報を欲している。
でなければ、魔法使いは既に死んでいた。この皇帝は、無駄を嫌う。
なのに皇宮を悪魔に襲撃させた魔法使いを未だ生かしている理由は。
「…ご存知でしたか」
やっていることを隠す気などなかったが、彼にとっては、皇帝の興味が意外だった。
本音のところ、この皇帝にとって、そのようなことはどうでもいい部類のはずだ。
なにせ、皇帝本人に対しては、害がないことなのだから。
悪魔が中間界にいようが地獄にいようが、神聖力を持つ皇帝にはいないのと同じこと。
とはいえ、今の皇帝の発言からして、魔法使いが皇宮にはなった悪魔たちは、それこそ攫って来たばかりの悪魔だと、彼は察しているということだ。
(つまり、死体が残ったのか…これも、意外だな)
オリエス帝国において、悪魔に対する戦闘力は、皇帝か魔竜、どちらかでしかないと、その他大勢と同じように魔法使いは判断していた。
だが今、皇宮に魔竜は不在。
とはいえ、皇帝が悪魔を相手にすれば、悪魔は灰となって消えるだろう。
死体は残らない。
だが、皇帝の発言から察するに、魔法使いが皇宮に訪れてから今までの短時間の間に、悪魔は何者かの手によって殺され、死体が転がったということになる。
悪魔を誰が殺したか? 決まっている。
―――――誉れ高い、オリエス帝国の騎士たち。
(…その戦闘力は噂以上ってことか)
それが知れただけでも、今回の襲撃は無駄ではない。だけでなく。
「地獄の状況を知らせたのは、御使いですか? それとも」
地獄の状況を、皇帝に知らせる相手がいる。
この事実もまた、無視できないものだ。だとして、
(自分を消滅させる神聖力を持つ相手と接触を持つ悪魔がいるか? ああいや)
魔法使いはすぐ、思い直した。
(魔竜がいるな。地獄側から情報がいったとしたら、そっちからか)
「答える気は」
また魔法使いの言葉を途中で遮り、皇帝は一歩踏み出す。
「…ないようだな」
とたん、眩いほどの神聖力が皇帝の足元で渦を巻き―――――、
「…―――――なに?」
不意に、解けた。
がくん、と力尽きたように、皇帝の膝から力が抜け―――――寸前で、彼はそばの椅子に手を突き、跪くのを堪える。
「あ、やぁっと、効いてきました?」
言いながら、魔法使いは足元の香炉を蹴飛ばした。
蓋が取れ、中の灰をぶちまけながら、それは祭壇から落ちる。
残骸に視線を向け、皇帝は低く呟いた。
「…それは」
「いや、どうせオレ、殺されるだろ?」
命の危機に直面しているとは思えないほどあかるく、魔法使いはにこにこ笑った。
そのくせ、目は笑っていない。
「だったらその前に、ちょっと悪戯しようかなって」
敬語をあっさりかなぐり捨て、実験動物でも見る目で、彼は皇帝を不遜に見下ろす。
「いくらオリエス皇帝でも、ただの人間だからさ」
香炉の灰を見遣り、魔法使いは明るく言った。
「―――――催淫効果抜群のお香を吸わせたらどうなるんだろうって思ったわけ」
どうかなあ、と魔法使いは覗き込むように、身を屈める。
ただし彼自身に、そのような薬物の影響はない。
この身体には、そういうものが効かないのだ。
「ほら、犬みたいに発情して、部下たちの前で下品に腰振って踊りなよ、高貴な皇帝陛下?」
皇帝には、あるいは、彼の側近たちにも、どこかに油断があったろう。
相手が魔法使いならば、魔法しか使わないだろう、と。
そんなわけがない。
「でもあんたみたいなのは、どんな屈辱に染まっても、きれいなんだろうな。腹立つ」
ふと、魔法使いは眉をひそめた。
「どこまで汚したら、堕ちるかな…」
何かを企む口調で呟く最中、皇帝の顔をふと見直した魔法使いは、
「―――――は?」
呆気にとられた。顔をしかめる。
「なんだ、その表情」
決して屈服しない相手だと確信させる、気高い面立ちにのぼるのは、血の色。
冷たいような黄金色の瞳は潤み、酷薄そうな唇は赤く熟れて熱い息を吐きだしている。
その表情は、まるで。
「メスじゃないか」
唖然とした魔法使いの呟きに、はじめて、皇帝の表情に動揺が滲んだ。
たった一瞬のことだったが、注意深く見ていた魔法使いには、はっきりと見て取れた。
ただしそれを弄ぶ余裕は、魔法使いにもない。
なにせ。
―――――皇帝を、そのように扱える存在など、たった一人しか思い浮かばなかったからだ。
上位の悪魔。
魔竜。
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