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幕・130 魔塔の死神
× × ×
「ダリル!」
呼ぶ声に、この数日で冷めきった黒目が、魔塔の通路の暗がりで不気味に光りながら振り向いた。
不気味―――――正確に言えば陰鬱。
この数日続いている激務がもたらす疲労の影がかかった顔には、濃い隈ができている。
「何か」
応じる声も、眼差し同様、凍り付くようだ。
彼は―――――魔塔の中階に住むまでしか許されなかった魔法使い。つい先日までは。
ただし、今や。
オリエス帝国魔塔の主。
塔の頂点に住む塔主にして、もはやこの魔塔そのもの。
臆すことなく堂々と―――――一面では、疲れすぎて色々感覚がマヒしているような態度で、ダリルという名の塔主は、犬でも呼びつけるように彼を呼んだ相手と向き直った。
塔主と言えど、ダリルの出身階層は、平民。
親が魔法使いだったわけでもない。
自力で末端の魔法使いの紹介を得、魔塔へ入り、独学で十九という歳で中階まで至ったのだから、相当のたたき上げだ。
そんなダリルを呼び止めたのは、貴族出身・叔父が魔塔の魔法使いという、色々な意味で特権階級の青年である。
輝くような金髪に、翠玉の瞳。肌は白く、身につけているただのローブすら上等で、見るからに全体がきらきらしい。
背後には、取り巻きを三人ほど連れていた。
対して住人並みの容姿、そして地味な格好のダリルは目を細める。
彼らの容姿の眩しさが鬱陶しい。そんな、乾き切った表情だ。
「塔主さまと長老たち数名を除名し、追放したと聞いたぞ」
前置きもなく、いきなり切り出された話題に、またそれか、とダリルは思う。
同時に、飽き飽きした表情を懸命に隠した。
正直に感情を出していい相手ではない。
ダリルは身長が低いわけではないが、人並みだ。
対して、呼び止めた貴族の青年は、長身。
目の前で彼は立ち止まり、青年はダリルを上から見下ろした。
「取り消せ。何様のつもりだ」
何をどう言うべきか、いい加減この手の相手に一から丁寧に説明して回るのが億劫になっていたダリルが、少し遠い目になった刹那。
「塔主さまだよ、ばーっか」
先ほどまでダリルと話していた猫背の青年が、心底呆れ返った口調で答えた。
「魔法使いなら見ればわかるだろ」
塔主は、魔塔そのもの。
魔塔の全機能は、ダリルの意思一つに従う。
それは確かに、魔法使いであるならば、一目でわかることだ。
「分からないんなら、魔塔から出てけよ。無能がなんでいんの。死ねば?」
ぽんぽんと飛び出る毒舌に、ダリルは頭を押さえる。取り巻きの一人が、
「きさま…っ」
言うと同時に、空中に魔法陣が展開した。
基本的に魔塔の中で、魔法による私闘は厳禁である。
魔塔に満ちた力が、その制約として働く。
ただし、威力が弱い魔法なら、その限りではない。
―――――なんとも中途半端な制約であるが、確かに、息抜きは必要だ。そのための半端さなのだろう。
展開された魔法は、規則に引っ掛からない程度の、小さな魔法だ。
そこから生み出された衝撃波は、瞬時に、猫背の魔法使いへ飛んだ。
魔法の展開から発動速度まで、教科書のお手本通り、きれいなものだった。
普通なら、避けることなど出来っこない。だが、猫背の青年は。
「ふん」
胸の前でこれまた小さな魔法陣を展開。
そこに触れた衝撃波が、ぶつかるというより、割り砕かれた。
一塊だったものが十以上に分解され、猫背の魔法使いを避けるように、その背後へ飛び、消え去る。
飛び去ったのではない。文字通り、消えた。消滅したのだ。
ただその時生じた風圧で、猫背の魔法使いが目深に被っていたフードが頭から外れ、背に落ちた。あらわになった顔立ちに、
「おい、止せ」
ゾッとした様子で、貴族の青年が取り巻きを鋭く制止する。
「死神のジェフリーだ」
フードの下から現れた白い髪が揺れた。
その長い前髪の奥から覗く瞳は赤。
貴族の青年の台詞に、ジェフリーは口元に不敵な笑みを浮かべた。彼の身が傾ぐ。動こうとした、寸前。
「先代は」
彼の胸の前で、ダリルは片手を挙げる。
それだけで、鎖を引かれた獣のように、ジェフリーはぴたりと動きを止めた。
「僕を殺そうとしました。追放処分の他の長老方もです。それゆえの結果と周知したはずですが」
横紙破りな決定をされたとはいえ、現在の塔主を殺そうとしたのだ。
追放で済むだけでも、温情だろう。
「それがなんだ」
貴族の青年は、忌々し気に口を開く。
「貴様は真っ当な手段で今の地位にいるわけではない。権限はすべて、塔主様にお返しするのが筋だ」
貴族の青年の言葉にも一理ある。ある、が。
彼は言外にこう告げていた。ダリルは殺されても当然だ、と。
簡単に返還できるものではないうえに、こればかりはダリルが決められることではない。
なにせダリルを塔主に決定した者は。
―――――不意に破裂したような笑い声が、ダリルの背中で上がった。ジェフリーだ。
「塔主だぁ? 怒れる魔竜を前に逃げ隠れしてたあの爺さんなあ! 権限を取り上げられて当然だ」
魔塔内では、この意見も根強い。
いくら身分社会とはいえ、基本的に実力主義の世界だ。
「重ね重ね、無礼だぞ、死神!」
「はんっ、ここにいる全員、隠れて震えてたじゃねえか! 無理に面倒な役目押し付けられた挙句、逃げず、魔竜の前に自ら出たのは、ダリルさんだけだろうが! あのとき、お前は魔竜の前に出られたってのか!」
魔塔の魔法使いは、勇敢な者に敬意を払う。ゆえに。
未熟な若輩者であるダリルが、前例にない形で塔主を襲名したにもかかわらず、支え、支持をしてくれる者も多い。
よって、どうにか仕事が回っているのだ。
ダリルの目の前にいる、天災…いや、天才とも死神とも言われる魔法使い、ジェフリーのように。
ダリル一人では到底、魔塔をまわすことなどできない。
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