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幕・129 ようこそ地獄

「は、…ははっ」 応えるように、魔法使いは掠れた笑い声を上げた。 それを横目に、ヒューゴは目を細める。 魂のない人造人間とはいえ、命は命。それを使い捨てにしたこの魔法使いこそ、おそらく。 (さっきの店舗であの惨状を仕込んだ張本人だ) 皇宮にまで入り込むとは、性格は最低でもその腕は極上。 なかなかやる、と他人事なら、感心して済ませるところだ。 だが、皇宮の結界へあの黒い球体が突っ込んだことで、全力疾走でリヒトの元まで戻って来たヒューゴとしては、色々と物申したい。 リヒトの気配を追って、この礼拝堂までたどり着き、入り口まで回る間を惜しんでステンドグラスを割って入ったことは、あとで相当文句を言われるに違いない。 とはいえ。 ヒューゴは、この魔法使いが懇切丁寧に悪意で作成した風呂敷を広げ、描かれたとおりの惨状を作った張本人である。 魔法使いを責められたものではない。 その上、皇帝の身体に念入りに快楽を覚えさせ、挙句、さらに調教しようとしていた。 クズっぷりは、いい勝負だろう。 「あは、あはははははははははは!」 魔法使いは、狂ったような笑い声を上げた。 最中、もうほとんど動かないだろう腕を持ち上げる。 操り人形めいた不自然な動きで、壊れた人造人間の身体を抱きしめ、 「ああ、痛い、痛い、痛いなあ! 最高の痛みだ! 死ぬってこういうことかぁ…っ」 歓喜の声で叫ぶ。 ただ、その狂った息すら、破れた肺から抜け、代わりに唇から吐き出されたのは、真っ赤な血だ。 どうやらこの魔法使い、まだ感覚を断ち切っていないらしい。 ヒューゴから見れば、なかなか興味深い変態である。地獄で暮らす者から見れば、それでもまだ真っ当な感性の内だったりするが。 腕の中を見遣れば、リヒトは倒れた魔法使いのことなど、もうどうでもよさそうだ。 そう言えば、なぜリヒトは一人でこの魔法使いと対峙しようとしたのか。 礼拝堂の周辺には、まばらに、近衛騎士が配置されていた。 彼らは、皇帝がいる礼拝堂の中を気にしていたようだが、おそらくは命令があったのだろう、待機するしかない、という表情で、もどかし気だった。 ヒューゴなら、命令なんか知ったことか、へへん、と勝手に動くのだが、へへん、で許されるのは、ヒューゴだからだ。 リヒトには、確かにそういうことろがある。 常にヒューゴがそばにいたものだから、失念していたが、自分でできることは、自分だけでさっさと終わらせようとする、というか。 他が一緒だと犠牲が出てしまう可能性が少しでもあるようなら、最初から一緒に連れて行くことをしない。 ヒューゴだけは、当たり前のように連れて歩くのだが。 その辺りのことは、後日改めて話し合う必要がありそうだ。 気を取り直したヒューゴは、魔法使いに尋ねる。 「皇宮の結界に穴を開けた、アレはなんだ? 今はもう消えているが」 いっとき、結界を割り砕いた黒い球体は、しばしとどまった後、もやのようになって消えた。 その反応を分析するに、おそらくは、結界を構成する神聖力に耐えきれなかったと見受けられる、とツクヨミは判断していた。ということは。 正体は、神聖力を弱点にするモノ。 一人で悦に入っているらしい魔法使いから、答えが返るとは思わなかったが、ヒューゴはダメもとで言葉を重ねた。 「怨嗟や憎悪を極度に純化したもの、なんだろうが…あそこまで研ぎ澄ませば、危険な領域にあるものだ。―――――世界を破壊したいのか?」 世界を破壊、など。 かつて、黒曜が作った亀裂を見ていなければ、何の冗談だと一笑に伏すところだ。 しかし、先ほど垣間見たあの球体は、…冗談では済まないシロモノだった。 (あれは、―――――成る、な) 黒曜の亀裂と同じものに。 腕の中、リヒトの身体が悶える感触を全身で愉しみながら、頭の中の冷静な部分がそう判断した。 返事が返るとも思っていない、それは独り言に似た、何気ない台詞、だったわけだが。 人造人間の目が、瞠られた。その動きで、分かる。 まだ、魔法使いはその肉体ときちんとつながっていた。 (コイツ…頭大丈夫か) いや、頭は大丈夫だろう。大丈夫でないのは、精神の方だ。 「…ご明察」 血潮で満ちた喉から放たれたその声は聞き取りにくかったが、確かに、魔法使いはヒューゴの台詞を肯定する。ただ、 「は?」 一瞬、何の間違いか、と聞き返してしまったのは仕方がない。 その隙を突くようにして、 「――――――さあ、みなさん、こちらへ!」 魔法使いが、礼拝堂の天井へ向かって叫んだ。 正確には、ここではないどこかへ向かって。何かを招くように。 打ち捨てられようとしている人造人間の肉体を中心に、魔法陣が描き出された。 皇宮の結界内で、それは長く保たず、すぐ薄れていくが。 一瞥したヒューゴは、思わず舌打ち。 「ようこそ、地獄!!!」 その言葉を最後に、魔法使いの気配は消えた。 残ったのは、利用された哀れな人造人間の成れの果て。 「野郎…っ」 ヒューゴは天井を見上げた。 魔竜の視線がとらえたのは、そのはるか向こう、結界の外だ。 「聞いてるか、ツクヨミ、最大限の警戒を!」 結界のほつれは、今や完全に修復されている。 だがそれでも、―――――これから落ちてくるものに耐えられるかどうか。 「…ヒューゴ」 抱き合ったままのリヒトが、顔を上げる。 「なにかが、―――――空から」 「ああ、降ってくるぞ」 人々の目には、灰のようなものが、ぱらぱらと空から舞い降りているような光景が映っているだろう。 あれは。 ―――――呪詛だ。 本来なら、皇都全体を目がけて降るモノだったそれが、今。 皇宮目がけて落ちてくる。 視界の端で、人造人間の肉体が、灰になって消えていく。 あれが、贄の役割を果たした。 「…僕が、出れば」 リヒトが腕の中から出て行こうとするのに、 「取り逃しが出る」 リヒトの神聖力は、確かに強い。だが、個人でできることはたかが知れていた。 結局は、リヒトは人間なのだから。 ぐっと引き留め、直後。ふと何か閃いた目で、ヒューゴは彼の顔を覗き込んだ。 「リヒト」 「なんだ」 応じたリヒトは、顔をしかめる。 なんだか厭な予感を覚えたように。 「神聖力の鎖を解いてくれないか」 ―――――応じられるわけがなかった。 「こんな時に、なにを」 厳しく、真顔で、言ったリヒトに、 「こんなときだからこそだよ」 駄々をこねる子供のように、リヒトの身体を揺さぶるヒューゴ。だが、体勢が体勢だ、リヒトからすれば、たまったものではない。 「…アッ、動くな…っ」 咄嗟に背中へしがみつけば、 「ほら、そうしてればいいから」 欲情で濡れたようになった黄金の瞳に映った悪魔は、安心させるように笑っていた。 「鎖を外すのが不安なら、しがみついていればいい。そしたらお前を毒せるわけがない俺は、悪魔の姿に戻れないし、そしたら、飛び立てない、そうだろ?」 「なら」 苦しそうな表情で、リヒトは小さく訴える。 「なんで、外せ、と言うんだ」 ―――――…この、リヒトの、どうあってもヒューゴを離したくない、という執着が、ヒューゴにとっては寒い日の朝、心地のいい毛布にぬくぬくとくるまっているように心地が好いのだと、リヒトにどこまで理解できているかは分からないが。 ヒューゴは気持ちを特に隠さず、嬉しそうに微笑んだ。 「翼だけ広げる」 「?」 「皇宮の上空に」 「…ヒューゴの身体は、ここにあるのに、か?」 不思議そうなリヒトの態度に、 「ああ」 説明が難しいな、とヒューゴは首をひねる。 「実際の翼を広げるって言うか…意識を広げるって言えばいいか?」 悪魔の状態であれば、やろうと思えば、それこそ大陸の端から端まで意識を広げることができるだろう。 必要がないから、やらないし、それほどの情報量を掴むのは、それなりに疲れる。 ところが今、ヒューゴは人間の形状を取っていた。 意識の大きさは、少なからず、身体の大きさに影響を受ける。 これならば、皇宮の上空を覆うくらいには…、そう、『ちょうど』になるだろう。 「それで、呪詛を受け止める」 「しかし」 リヒトは眉根を寄せた。 「そんなことをすれば、ヒューゴの身体が」 案じる声に、ヒューゴはきょとんとした表情を浮かべる。 「俺、悪魔だぞ」 「…だからなんだ?」 「呪詛なんてなあ」 ヒューゴは堂々と胸を張った。 「栄養剤以外の何だってんだ」 人間に毒なものが、悪魔に毒とは限らない。 「そういうもの、なのか」 リヒトの表情に、呆れらしきものが浮かんだが、特に気にせず、ヒューゴはにっこり。 「時間がないぞ。ほら、早く早く」 新しい遊びを覚えた子供が夢中になって、玩具を親に強請るような態度でヒューゴが言うのに、リヒトは。 ―――――どうあっても、彼に弱かった。 しがみつきながら、真剣に囁く。 「逃げるなよ」 しかし、この判断を。 数時間後、リヒトは心から後悔することになる。

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